第五章 諫言
天文十九年二月、大友 義鎮は父、義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第二十一代当主となった。
大友 義鎮という人物は文化人としては活発で、書道、茶道、能、蹴鞠など諸芸に通じ、中央から文化人を招くなどした。
特に蹴鞠に長じ、時の将軍、足利 義輝も義鎮の蹴鞠好きを知り、蹴鞠の際に着用する専用の衣服などを贈っている。だが、義鎮はあまり国政は顧みなかった。
また、義鎮はこの頃からキリスト教に関心を示して、フランシスコ・ザビエルら、宣教師に大友領地でのキリスト教信仰を許可した為、これが大友家臣団の宗教対立に結びついて、天文二十二年《1553年》一万田 鑑相、弘治二年《1556》小原 鑑元が謀叛を起こすなど、治世は当初から苦難が多かった。
相変わらず義鎮の脆弱な精神は不安定に揺れ動き、冷静に物事を捉えている時があると思えば一転し、国政を顧みず酒と女に溺れたりした。
忠勤の者を賞さず、罪ある者さえ裁こうとしなかった。
この事に危機感を覚えた戸次 鑑連は、義鎮に拝謁を申し出たが、義鎮は敏感に鑑連が諫言に来たと察して会おうとはしなかった。
そこで鑑連は美人の踊り子を多勢集めて、昼も夜もかまわず自分の屋敷で踊らせて騒いだ。
女好きの義鎮は堅物の鑑連の行ないに驚いたが、波津夫人と別れ、独身となった鑑連にもやはり遊ぶ時はあるのかと思い、興味を持って自ら戸次屋敷へやって来た。
そこでやっと拝謁する事が出来た鑑連は、
『たとえ折檻を受けても、主人の過ちを正すのが臣たる者の勤めである。我が身を大事にして、自分だけ良ければ他人はどうなってもよいというのは卑怯である。自分の命は露ほども惜しくは無い。それより、主人が世間の信用を失う事が無念……』と、述べて諫言した。
義鎮は鑑連の諫言を聞き入れて、襟を正し、以後も義鎮の行状に問題があれば鑑連が諫言して改める事が続いた。
ちなみに現在の大分市鶴崎に無形文化財の鶴崎踊りがあるが、この時に鑑連が集めた踊り子達の踊りが、大分に残ったものである。
また、ある時義鎮は凶暴な猿を手元に置き、この猿が家臣に飛びかかるのが面白くて、何度もけしかけた事があった。
毎日のように迷惑を掛けられた家臣は辟易し、困り果てた。
これを聞いた鑑連は他の家臣と同じように義鎮の前へ出向いた。案の定、義鎮が猿をけしかけて来たので鑑連は、猿を鉄扇で一撃のもとに叩き殺してしまった。驚く義鎮に、
『人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う』と諫言し、義鎮は大変反省した。
戸次 鑑連は以降も重臣として、活躍する。弘治三年、《1557年》毛利 元就と通じ、二度目の謀叛を起こした秋月 文種を大友家の諸将と二万余の軍勢で攻撃。秋月 文種を自害に追い込む。
一方、周防の大内 義隆は宿敵、出雲の尼子 晴久に手痛い敗戦を喫しながらも、連日盛大な宴を繰り広げ、自堕落な行動や遊興をしていた為、血縁関係にあった有力者からも見限られ、陶 隆房の謀叛に会い、天文二十九年九月一日、四十五歳の生涯を終えた。
陶 隆房は大内 義隆を滅ぼした後、混迷する家中を鎮めようと、謀叛の旗揚げ前から大友家に申し入れていた大友 義鎮の異母弟、大友 晴英の大内家入りを願い出た。
当初、義鎮は陶 隆房が弟、晴英を傀儡として擁立するだけで、自分の政権が揺るぎないものとなれば廃位されるのではないかと疑い反対したが、晴英が『命は惜しくない』と、主張した為これを認めた。
天文二十一年、《1552年》大内家に入った晴英は名を大内 義長と改め、第三十二代大内家の当主となる。
しかし、義長の求心力は低く、弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していった。
弘治三年、《1557年》三月、この機に乗じて毛利 元就が山口へ侵攻。
義長は傭兵をもってよく防戦したが結局、山口に築城中であった高嶺城を放棄して敗走した。しかし、すぐに毛利軍に包囲され、四月三日、自害。
享年二十六歳という若さであった。
戸次 鑑連は義長が討たれると、旧大内領の確保にも努めた他、永禄二年、《1559年》筑前の豪族、宗方 氏貞に対して、許斐山城、白山城、鳶ヶ岳城に数度侵攻、永禄四年《1561年》には豊前に出陣して来た毛利 元就と戦った。
こうした功績からこの年、義鎮の補佐役、加判衆に任じられる。
永禄五年、《1562年》主君、大友 義鎮が『宗麟』と名を改めて出家すると、鑑連も剃髪し、『麟伯軒 道雪』と号する。
道雪の号の由来は、『道に落ちた雪は消えてしまうまで場所を変えない。……武士も一度主君を得たならば、死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが武士の本懐』と、いうものである。
戸次 道雪は後に筑前、立花山城主となり、最終的には立花 道雪として諸国に知られて恐れられたが、本人は立花姓を名乗らず、戸次 道雪で通している。
そして、これから戸次 道雪と毛利氏との長い戦いが始まる。