第三章 落雷
ーー 豊後の大名、大友 義鑑はかつて、肥後に勢力を伸ばす意味合いと宗家の安泰を図って幼い実弟、菊法師を肥後の菊池 武包の元に入嗣(養子)に出した。 ーー
永正十七年、《1520年》大友氏の圧力を受けた菊池家の家臣団は武包を放逐し、元服した菊法師(大友 重治)を当主として、隈府城に迎え入れた。
重治は名を『菊池 義宗』と称して、第二十五代、菊池家当主となる。
天文三年、《1534年》義宗は更に義武と名を改名すると、大内 義隆や相良氏と同盟して兄、大友 義鑑に反抗し、肥後にて大名として独立してしまう。
兄弟の不仲によるものか、野心か、滅びゆく菊池家再興の為か、明確な理由は不明である。
翌、天文四年《1535年》肥後菊池氏、隈部、山鹿、赤星など肥後国人の反逆を撃退する為、大友 義鑑の命を受け、戸次 鑑連が出陣した。
肥後 阿蘇谷、車返しの地で待ち伏せに会い、苦戦を強いられるも海老名 佐助、繭ら兄妹を始め、優秀な家臣団が勇猛奮戦し、何とかこの乱を鎮圧する。
この時、菊池 義武と示しあわせていた周防の大内 義隆は、三千余の軍勢で豊後へ進攻。
大友 義鑑も二千八百余の軍勢で、豊前との国境に兵を出陣させ、これが『勢場ヶ原の戦い』となり、双方に多数の死傷者を出した。
天文七年、《1538年》室町幕府第十二代将軍、足利 義晴の仲介を受け、大友、大内共に和睦を結ぶ。
和睦後、大内 義隆には大宰府の官位、大弐を任じて面目を保ち、大友家には筑前に点在する所領を返還する。という形になった。
天文十五年、《1546年》この和睦の時に双方の間に入り、交渉の場に秋月城を提供した秋月 文種が、大友家に謀叛。
大友 義鑑の命を受け、戸次 鑑連、他の大友諸将と共に筑前 古処山城へ出陣。この乱も鎮圧した。
この頃、戸次 鑑連は当主、大友 義鑑が仲人となり、入田 親誠の娘 波津姫と結婚して、大友 義鑑の意向により、主な家臣を連れて、府内に設けられた戸次屋敷で生活する様になっていた。
養母の愛は父、親家の死後出家し、養孝院となり鎧岳城で暮らしていた。
ーー 天文十七年、六月五日 ーー
《1548年、7月20日》 戸次 鑑連(三十五歳)
この日、鑑連は久しぶりに故郷の大野郡 藤北に帰省していた。
慣れ親しんだ故郷の大野川に、蟹籠を仕掛けながら鮎釣りを楽しんでいた。
炎天下のこの日、少し大木の下で涼んでいるうちに、すっかり昼寝をしてしまっていた。……
やがて、急な夕立ちが降り始めた。
川沿いの一本道、渇いていた地面の土を突然の雨が濡らしていった。
急激に辺りが暗くなったかと思うと、今まで耳にした事の無い、とてつもなく大きな雷鳴が響いた。
と同時に目に映る景色が赤や金色に見え、耳鳴りがして、頬がびりびりと痺れた。
(……かなり近くに雷が落ちたな……)
(どちらに逃げて良いのか。動かない方が良いのか?……)
そう考えていた時、自分の髪の毛が逆立っていくのが分かった。
口の中に鉄を含んだ様な味がする……。
事ここに至っては、これが正しいという方法は無い様に思えたが、鑑連は中腰に構え、そっと大木の下から離れた。
そして一気に走り去ろうと、駆け出した刹那、落雷があった……。
鑑連に落雷したか、大木に落雷したかは定かではないが、城から鑑連を心配して佐助と繭が駆けつけた時には、鑑連はその場に倒れて動かなかった……。
目が覚めた時、見慣れた城の天井が見えた。
左足が異様に痛む。いや、『痛み』という感覚しか無かった。
上半身を動かそうした時、激烈な痛みが走り、動く事が出来ない。
家臣達が心配そうに見ている。両腕は動かす事が出来た。
『鑑連殿!……』
母、養孝院や波津が涙目になって話しかける。
『……川沿いの大木の下で昼寝をしておりましたら、突然辺りが暗くなり、雷が鳴り始めました。……
逃げ出すにも時、既に遅し。という状況でした。
少し大木から離れた辺りで雷に打たれた様な気がします』……
『錯覚かもしれませんが、落雷で体が焼けて溶けていく様な気がしたので、私はあの時、死んだのかと思いました。』
その後少し医者と話をして、また鑑連は眠った。
三日後、ほんの少しだけ上半身を起こせる様になった。
今後、どの様になるのかは医者にもはっきりとは分からない様だったが、少し動けた事に希望を持った。
徐々に座れる様になったが左足には火傷を負っていて、余りの痛みに小刻みに足が震え、眠れぬ夜もあった。
数ヶ月後、愛馬、戸次黒に乗って以前の様に笠懸が出来るまでに回復していたが、左足には若干の不安が残る様になった。
落雷の現場には愛刀『千鳥』に落雷に当たった跡の様な印が付いて落ちていたという。
これにより以降、『千鳥』を『雷切』と号する。
この落雷による左足の怪我と、生まれて初めて寝たきりになった経験が、鑑連をより一層他人への配慮を欠かさない、家臣を思いやる人格へと変えた。
『武士に本来弱い者はいない。もし弱い者がいれば、それは本人が悪いのではない。大将が励まさない事が罪なのだ。我が配下の武士は言うに及ばず。』と言って部下を励まし、武功の無い武士がいると
『運不運が武功にはあるもの。其方が弱い者で無い事は私が知っている。戦では、そそのかされて抜け駆けなどして討ち死にしてはならん。それは不忠と言うものぞ。身を全うして私の行く末を見よ。私は其方達がいるからこそ、戦場に出られ、怯えずにいられるのだ』と言って酒を酌み交わし武具を与えたりした。
この様に配慮を欠かさず、武者振りが良いと周囲にも分かる様に賞賛、激励した。
他にも、ある家臣が鑑連の待女に密通して問題になったが、肝心の鑑連は
『若いのだから当たり前だ。色恋に迷ったからといって誅殺するに及ばぬ。人の上に立ち、君と仰がれる者が、ちょっとした事で人を殺せば、人は君に背く元となる。国の大法を犯したのとは違う』と述べて笑った。
この事を聞いたその家臣は後に、鑑連を守りながら戦死したと言う。
ーー 若い頃の落雷により、戸次 鑑連は『左足は不具になった』、『下半身不随になった』等、諸説あるが、元亀元年《1570年》五十七歳の時に鑑連が輿に乗って戦場に赴いたと初めての記述が有るまで、落雷以降も戦場に於いて、自ら太刀を振るい、騎馬で敵陣に乗り込み、敵将を何人も斬り倒したという。
雷に打たれても死ななかったというこの逸話から、『雷神』と呼ばれ、畏怖されていたとされる ーー