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第二章 初陣

 ーー 大永(だいえい)六年、春 ーー 《1526年》


 豊後の国、大野原野は、豊後大神氏(ぶんごおおがし)の頃より駿馬を育て、馬を操り、弓撃ちの技に長けた地域であった。

 孫次郎は、こういった長所を活かし、騎馬部隊、笠懸(かさがけ)徒弓(かちゆみ)を更に訓練し、少数精鋭の母衣衆(ほろしゅう)が密集して戦う部隊を幾つか結成して、鍛えあげていた。

 更に、それらを陣鐘(じんがね)法螺(ほら)の音で自在に動かし、連動させて効果的に動かし、弱点になりえる要所には長槍部隊を連携させて補った。

 また、様々な書物を読み(あさ)り、戦術、陣形、心理戦など幅広く学び、家臣達と共に、日々訓練に励んでいた。

 この日々の訓練により、『半農半兵』で土地に根差した戸次軍(べっきぐん)は、元々精強でしっかりとした組織であったが、更に強力な軍へと進化していった。

 孫次郎も既に、家臣達の全幅の信頼を得る指揮官に成長していた。

 そんな春の日の昼下がりであった。

 豊後国の大名、大友 義鑑(よしあき)の元へ、宇佐八幡宮の神官からの使者がやって来た。

 ーー 佐野 親基(ちかもと)問田(といだ) 重安、両名を大将にして、豊前国、京都郡(みやこぐん)《現在の福岡県行橋市》の(うまが)岳城(だけじょう)に大内勢約五千人が集結し、大友氏との合戦の準備をしている。ーー

 との(しら)せである。

 この豊前国、京都郡馬ヶ岳城は、豊後との境に近い要衝(ようしょう)の地で、南北朝期から隣国として対立して来た大友、大内両家の戦場として、合戦を繰り返している。

 二十六年前の文亀(ぶんき)元年、《1501年》十二月にも両家はこの地で戦っており、この時、大友方の大将として、馬ヶ岳城に出陣していた孫次郎の曽祖父(そうそふ)、戸次 親貞(ちかさだ)は激戦の末に敗れて、この地で自害している。

 こういった因縁を考慮して、大友 義鑑は戸次 親家(ちかいえ)鎧岳城(よろいだけじょう)へ直ちに大内軍 討伐(とうばつ)の出陣命令を出した。


 夕刻、大友 義鑑からの出陣命令が届いた時、生来(せいらい)病みがちな親家は、この時も床に伏せていた。

 どうしたものかと思案していると、孫次郎がふとやって来て、病床の親家に言った。

『父上……この度の出陣命令、私を父上の名代(みょうだい)として出陣させては頂けませぬか?』

 ……突然の志願に親家は少し戸惑った。

 しばらく、何やら思案を巡らせた後、

『……孫次郎。……本来、初陣とは勝って当然の勝ち戦で済ませる事が世の習い。

 それが出来ず、初陣で因縁の相手と因縁の地で、戦わせる事をお前に悪く思う……。

 しかし、どうにも私も動けそうにない……、此度(こたび)の戦、其方(そなた)に任せる……。

 今の戸次の領地では然程(さほど)兵も集まるまい。

 他家に援軍を要請するなら書状も書こう、……其方にとっては全て始めての事となる、……駆け引きなどは、よう家臣に相談なされよ』

 そう言うと親家は、武功の老臣三人の補佐を付け、二千人の兵を孫次郎に授けた。


 直ちに戸次の重臣達が集められ、戦評定(いくさひょうじょう)が開かれた。

 大友臣下の他家に援軍を頼んではどうか?と、いう意見も当然出た。しかし、白兵戦で此方(こちら)が優勢になれば、奴等は馬ヶ岳城に籠城(ろうじょう)するはず。

 そうなれば、落城させるには本来相手の三倍の兵力、長期戦に備えた物資が必要となる。

 それならば、ここは時間を掛けず、不意をついて夜襲を掛けてはどうか?

 奴等はまさか、今自分達が仕掛けられるとは思っていまい。

 それも、突然の夜襲なら手薄なうえに混乱をきたし、一気に城門を突破出来るだろう。

 と、いう孫次郎の案に全員一致で決まり、

 更に密に作戦を練ると、素早く出陣の触れが夕刻より領内を巡り回った。

 翌朝には戦仕度を整えた多くの武者が城下に集結した。

 戦場へ向かう父や夫、我が子や家族を見送る者達も集まった。

 その中には(まゆ)の姿があった。

 申し分の無い実力であるが、まだ如何(いか)んせん、戦場に出陣するには歳が若いという事で、弾介(ただすけ)から出陣が許されなかった。

 一方、今回が孫次郎と同じく初陣となる佐助が、人だかりの中から繭を見つけると、繭と目があった。

 昨夜には、出陣出来ない事が悔しい様であったが、兄の出陣を祝って見送りに来てくれたのだ。

(心配するな。必ず勝って生きて帰って来る……)

 佐助は心の中で、呟いた。

 やがて、戦勝祈願が済むと大将の孫次郎から足軽に至るまで、全員になみなみと御神酒(おみき)が注がれ、一同は静かに飲み干した。

 孫次郎が高々と声を上げた。

『この戦いは先祖の弔い合戦であるっ!

 いくぞぉぉぉ〜っ、えいっ、えいっ、おぉ〜〜!』

『えいっ、えいっ、おぉ〜、〜〜〜!』

 孫次郎に続いて一斉に声が上げる。

 松岡 内記と左京という兄弟の騎馬武者が、全軍の先頭に立ち、戸次軍は出発した。


 出発から三日後の夕刻、戸次軍は豊後の国境近くで決戦の準備を整え、待機していた。

 馬ヶ岳城は京都平野(みやこへいや)を見下ろす山城で、山頂は東西に二つの(いただき)があり、東西に長く、西の峰に本丸、東の峰に二の丸となった城である。

 大内勢の見張りに見つからない様に、充分に辺りが暗くなるまで待ってから出発すると、深夜、馬ヶ岳城の(ふもと)に突然、松明(たいまつ)の灯りがついた。

 暗闇の中、戸次軍の灯した松明が馬ヶ岳城を隙間なく包囲していたのである。

 士卒(しそつ)に持たせてある松明以外にも、先を尖らせた杭を地面に突き刺し、それを松明として馬ヶ岳城を囲んだ事で、山頂からは戸次軍の数は実際の二倍にも三倍にも見えた。

『いくぞ〜っ!掛かれ〜!』

 静寂を破る孫次郎の号令で、山を囲んでいた戸次軍が一斉に山を登り始めた。

 全ての方角から、一斉に道無き道を登って来る松明の灯りに、大内軍の見張りなどは慌てたが、まだ多くの大内兵は城内で眠っていた。

 京都郡の村の足軽達は、夜は村に戻っている者が多く、人数は大分少ない様である。

 馬ヶ岳城へと続く、土塁で整備された正規の道などで見張りをしていた大内軍の兵などは、城内に入れてはならぬと防戦して来たが、戦の準備も出来ておらず、深夜の突然の攻撃にあっという間に斬り散らされた。

 やがて異変に気付いた大内軍、五百人ばかりが武装して城門から出て来て戦ったが、これも戸次軍は事ともせずに長槍部隊で押しとどめ、(まく)り立て捲りたてして、火を放ちながら戦い、ついに城門を突破した。

 戸次軍の陣鐘や法螺の音が響き渡る。

 孫次郎は士卒を励まし、手を緩めず、

『者共〜、行くぞっ今だ〜っ!』

 と大声で叫び、戸次軍は軍卒を一切乱さず、瞬く間に二の丸を破った。

 いよいよ本丸へ攻撃が始まる。と、いう直前、

『待たれ〜っ、待たれ〜い』

 本丸の中から、槍の矛先(ほこさき)に白い布を結び付けた武者が出て来た。

『我らが大将が、そちら側の大将と話し合いたいとの意向有りっ』

 すると、横からもう一人、

『この弾正、親基。人質となって城を明け渡すっ』

 と、大内軍大将の一人、佐野 親基が出て来た。

 先程までの喧騒が嘘の様に静まり返った群集の中、孫次郎は応えた。

(われ)は、大友軍大将、戸次 孫次郎だ。

 豊後の御屋形様(おやかたさま)へ連絡致す。暫し、待たれよ』

 ……いつの間にか、夜が明けようとしていた。

 孫次郎は母衣武者を、府内館の大友 義鑑へ走らせた。

 返答を待つ間、孫次郎は状況を整備し、怪我人の手当てを支持し敗者にも手厚く処遇した。

 この初陣で、出発の時に全軍の先頭に立っていた松岡 内記と左京の兄弟が戦死した。

 孫次郎には、常に先駆けて戦った彼等の勇姿が目に焼きついて離れない……。

 彼等兄弟は曽祖父、親貞と二十六年前にここで戦った数少ない生き残りだったという。

 当時まだ若く、無名な兄弟を曽祖父は、殉死は認めず、逃げて生き延びる様に強く言ったのだと言う。

 その彼等が命をかけて、城門を突破してくれた……。

『貴方達兄弟に、助けていただきました……』

 孫次郎は自然と手を合わせ冥福を祈った。

 その日の夕刻、

 ーー佐野親基、問田 重安、大将の二人と、これに従った国士(くにざむらい)の実子を人質と致し、囲みを解くべしーー

 との返答が有った。

 孫次郎は家臣の由布 家続(いえつぐ)を守将として留め置き、凱旋した。

 孫次郎十四歳。

 この時代の頃は数え年では無く、生まれた瞬間に一歳となる時代であったので、現代で言えば十三歳の初陣であった。

 元服も済んでいない青年が父の名代として戦い、倍以上の軍勢を見事に降伏させた。

 この武勇は隣国(りんごく)はおろか、諸国(しょこく)に伝わった……。

 報告に府内館に戻ると、大友 義鑑は早速、孫次郎達を武者溜(むしゃだ)まりへ招き入れ、酒宴を開いて戦捷(せんしょう)の労をねぎらった。

 鎧岳城下でも戦捷を祝って湧きかえっていた。


 数日後、孫次郎が鎧岳城へ帰る直前、鎧岳城から使者がやって来た。

 ーー 戸次 親家死去 ーー

 という報せだった……


 親家は孫次郎の戦捷を聞いた時、病床の中で大粒の涙を流して喜んだと言う……。


 大永六年、六月一日 。

 戸次 孫次郎、戸次の家督を継ぎ、元服。

 主君、大友 義鑑公から一字を(たまわ)り、この日から名を、

 戸次 鑑連(あきつら)と名乗る。


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