チキンスープ
自分の部屋から出て、ベランダの手すりに足をかけて乗る。片足を上げるとふらついた。すかさず上げた足を前に出す。何かを踏みしめる感触があり、そこから更にふんばり、手すりにかけていた方の足も空中へ。
足元を見ると、遥か下、地上の道路に真っ赤な薔薇が咲いていた。
これは夢なのかもしれない。私の目に映る風景には現実味がなかった。空中に浮かぶ私の隣には私と同じくらいの背のある鶏がいる。その視界の向こうで、いつも通り、月明かりを遮る邪魔なマンションが光の粒になって消え去った。
ふと思いついて、左の手の甲に思い切り噛みついたが、痛みはなかった。
その様子を見ていた鶏は何も言わずに飛び去ろうとした。私はその足を掴み、ぐいと引っ張り、
「あのね、私はもう逃げないよ」
と私は満足げに囁いた。
トサカのない鶏は迷惑そうに頭を左右に振っていた。
「こんばんは」
と頭を振ったまま鶏が言う。
「私は変われた気がする。いや、変わっている途中なのかも」
「君、夢でも見ているんじゃないの?」
「夢でも現実でもどっちでもいいの。私がいるなら」
足から手を放すと、ぱっと鶏は飛び始めてしまう。慌てて私はその後ろを追う。
「教えてたわね。私の名前はクミ――」
「奇遇だね、実は私の名前もクミって言うんだ」
「いいえ、あなたの名前を決めてあげる」
鶏は目をパチクリさせて私を見た。信じられない、とでも言うようだった。
「なんで君が決めるの?」
「だって、あなたと私は違うでしょう。そうしたら違う名前じゃないと」
私は鶏をその場に止めさせて、うんうんと頭を捻りながら考えた。
「こうしましょう。あなたの名前は『チキン』」
「ふーん……」
「なぜなら、鶏のようだから」
「私は鶏ではないよ」
私は夜中の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。冷たくて澄んでいて綺麗な気がする。
「もう一度あの子たちに会いたい」
「君?」
「私じゃない」
私が怒ってチキンのお腹を蹴り飛ばすと、チキンは黙った。蹴った私の足も痛い。
並木道では一人の女の子が不自然な歩き方をしていた。足元に落ちている葉っぱを踏まないようにステップをしているのだ。
「会えた」
私は口内の唾を飲んだ。右手と右足が同時に前に出るのを感じながら近づいていく。途中で「パチリ」と音がした。私が落ち葉を踏んでしまったのだ。
「あら」
音に気付いた女の子がこちらを見て微笑んだ。
「クミちゃんを責めないのかい?」
チキンもやってきた。空を飛んでいるのはズルイと思う。
「いえ、これは私が勝手にやっていることですから……」
「大人なんだね」
チキンは言ったが、私はそうは思わなかった。
「本当に勝手だよ」
と私は言って二つに割れた枯葉をとどめと言わんばかりに踏みつぶした。女の子はムッとした顔をした。
「さすがに怒るわよ」
「あなたは紅葉を踏まなくて良いのかもしれないけど、あなたが変な歩き方をするせいで他の人たちは歩きづらくなっているのよ」
周りを行く通行人たちを見やる。さぞ不快な顔をしているだろうと思いながら、顔を見ようとして……見えなかった。
「あれ?」
頭を振って、目を凝らして、体ごと正面に周って、よく見たが見えなかった。よく見ようとすればするほど、ぼやけて何だかよくわからなくなってしまう。
「あなたにとってリアルではないってことよ」
女の子が言う。
「私とあなたでは見えている景色が違う、ということ――」
「そう」
女の子は葉っぱをつまんで拾い上げてうっとりと見つめ出した。
「私にとっては、通行人やあなたの邪魔になるよりも、この落ち葉たちを踏んでしまうことの方が嫌なのよ」
「それ、ただの枯葉なの?」
紅葉を取り落として、目を丸くしてこちらを見る。
「どういうこと?」
真っ直ぐにこちらを見つめる視線に頭がくらくらと動揺した。彼女の顔がはっきりと見えた。私と同じ髪型、眉の形、鼻立ち、口元、耳。不意に懐かしさが込み上げてくると同時に、地面の上にある無数の葉っぱが手の平サイズの小人へと姿を変える。私を見上げて愛想よく手を振ってきて……。
これは彼女の見ている幻だ。今の私じゃない。
私は女の子に指を突き付けて言った。
「あなたに名前を付けてあげる」
「ごめんなさい。私にはもう名前があって、クミって言うの」
「それは違う」
女の子は眉をひそめて怪訝そうな表情をした。
「違う……?」
「私とあなたでは見えている景色が違うの。だから私とあなたは違う」
私は頬に手を当てて考えた。幻ばかり見ているこの子の名前……いや、もしかしたら私が幻を見ていて彼女は私の見ている幻の一つなのかもしれない。いやいや、もしかしたら。私の方こそは彼女の見ている幻の一つなのかもしれない。
「あなたの名前は『カコ』よ」
そう言うやいなや私は、戸惑いつつもどこか嬉しそうなカコの手を引いて歩きだした。足元でパチパチ、と音が鳴ったが全く意に介さなかった。避けて歩くのはカコが十分にやったのだ。
進むにつれて、空を暗澹とした雲が覆い始めた。今にも雨が降り出しそうなのを認めた私は、きっと目つきを鋭くして天を睨んだ。
「お久しぶり」
いつの間にか人気のない道路にまで来ていた。その脇の、標識の下に制服姿の女の子が立っていた。近くにはベンチがあり、簡易ではあるが屋根も設けられていた。
「また会えた」
その女の子は読みかけの文庫本を開いて持っていた。
「そこ、座らないの?」
「私は好きで雨に打たれているの」
女の子は本を鞄に閉まって私たちに向き合った。
「ねぇ、チキン。あなた、ちょっとくらい濡れても大丈夫よね?」
「どうってことないよ、でもなんでそんなことを聞くの?」
「どうやら今、雨が降っているみたいなの」
私が声を低めて言うとチキンは笑い出した。
「降っていないじゃないか」
「いいえ、降っているわ」
唐突にカコが口を開いた。空中の何もないところをぼんやりと見つめている。
「そちらの子も、久しぶり」
話しかけられたカコは呆気にとられたように口を開け、女の子の姿をまじまじと見つめた後に、
「雨、見えるの?」
と短く返した。
「ええ、あなたには見える?」
「私には見えないよ!」
私は二人の会話を遮るように言った。
「あなたは一体誰なの?」
「覚えてないの? さっき『お久しぶり』って言ってくれたじゃない」
「ごめんなさい。私は普通に人を区別できないの」
女の子は俯き、舌で唇を舐めて続けた。
「私には、雨が見える人と雨が見えない人の二種類しか区別ができない」
「なら、良いことを教えてあげる、私の名前はクミ――」
「なるほどね。じゃあそっちの彼女の名前は……」
「カコよ」
私は頭上の標識を見た。「進入禁止」のマークだ。少し離れたところにある、雨避けとベンチが備え付けられたバス停はもう使われていなくなっているものだった。ここで雨が止むのを待ち続けるこの子は独りになりたかったに違いない。いやもっと言えば、独りになることも嫌で、そうならば、雨など始めから降っておらず……。
たまらず私は女の子の手を取った。その瞬間、辺りに土砂降りの雨が降り始めた。
「これが、あなたの見ている雨?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少なくとも私の見ているものはあなたには見えない」
雨が見えるようになったからといって好意的になるわけではないらしい。女の子は冷たい表情を崩さなかった。
そうならば。
私は雨が止むように強く念じた。体中に重りがのしかかるような疲労があったが、無視して念じ続けた。雨のせいか貧血のせいか視界が眩んでいく。私ならできる。徐々に雨が止んでいき、膝ががくがくと震えるころには完全に止んでいた。
私は女の子と手を繋いだまま言い放った。
「どう?」
女の子は冷静を取り繕うとしていたが驚いているのは隠しきれていなかった。目を見開いたまま返事もできない様子だった。
「雨って耐えるだけじゃなかったんだ……」
「もっと自分に自信を持たなきゃ!」
私は軽やかなステップで女の子と距離を取り、人差し指を突き付けた。
「あなたに名前を付けてあげる」
「それ、いいわね」
と、女の子は晴れ晴れとした顔で言った。
「あなたの名前は『マイ』。決まりね」
私はカコとマイとびしょ濡れのチキンを連れて歩き出した。
これまで黙って付いてきたチキンが口を開いた。
「お三方、お腹は空いていないかい」
確かにお腹が空いていた。よく歩きよくわめきよく感動していた。カコもマイも同じ様子だった。
「私の好きなお店に連れていってあげよう」
そこは大きめの洋食店だった。しかし客は私たちしかいない。
店員にメニューを渡されたが、書いてある内容が頭に入って来ず、チキンに任せた。そして、ほどなくやってきた料理はチキンスープだった。
「これが美味いんだよ」
チキンは器用に羽を使ってスプーンを使い、ごくごくとスープを飲んだ。私たちも真似をしてスプーンを使い、スープを飲む。
「何だか不思議ね」
私はみんなに話しかけた。
「あなた、鶏でしょう。なのにチキンスープを飲むなんて。共食いみたい」
耳をつんざく音がした。心臓が高鳴り反射的に額に汗が浮かぶ。その音の元はチキンからだった。
「冗談!」
チキンは怒っていた。さっきの音はチキンが有らん限りの鳴き声を上げたのだろう。
「どうしてそんなに怒るの!」
マイはやれやれ、というような顔をして腕を組んでしまっている。カコは目に涙を浮かべて私の腕にしがみついていた。
「私が鶏を食べたら共食いだなんて!」
「その通りじゃない!」
「じゃあ私が人間のスープを食べたとしたら、どう思う?」
私たちははっとなって顔を見合わせた。そんな料理は聞いたこともなかったが、チキンの連れてきたこの店なら出てくるのもおかしくはない気がしたのだ。
「気持ち悪い……」
「ねぇ。君たちがチキンスープを飲んでいて、私も同じスープを飲む。それに私は何も言わない。そういうこと。」
チキンはまだ不満そうだったが、声は既に落ち着き払っていて、また先ほどのようにスープを飲み始めた。私は皿の上のよく味のするスープを見つめる。
「そもそも」
隣のマイがつぶやくように言った。みんなの視線が集まる。
「人間と鶏はどう違うのだろうか」
「どういうこと? マイの言っているのは『エンピツとケシゴムはどう違うのだろうか』って言っているようなものだよ?」
「違う。例えば人間は、新陳代謝によっておおよそ数カ月で全身の細胞が入れ替わる。ならその間、鶏だけを食べ続けたらどうなる?」
「体中の細胞が鶏由来になる……」
「中々面白いことを考えるんだね」
機嫌を取り戻したチキンが口を挟んでくる。
「つまり、体を構成する素材が同じなら、人間も鶏も同じものだ、と?」
「でも実際はそうじゃないよ」
早口でカコが言った。私を掴む冷えた腕には鳥肌が立っていた。
「じゃあ、もっと掘り下げてみよう。君たち人間同士はどう違うんだ? 例えば、クミちゃんとカコは違う?」
カコはすがるような目で私を見てきた。それを振り払うように目をそらして私は言う。
「違うわ」
「どこが?」
「例えば身長とか考え方とか」
「身長って言うのはそのまま肉体のことだ。考え方というのは、つまり脳細胞の作りのこと。だから、君の言っていることは『肉体の素材は同じだが、その組み合わせ方、関係のし方が違う』と言っていることになる」
「ふむぅ」
私は考えた。肉体というところへ考えを落とし込めば、確かにそうだ。私とカコは、いや、カコだけでなくマイだって、同じたんぱく質でできていて、その組み合わせ方が少しずつ違うに過ぎない。
「君たちは、いや、君はそれでいいのかい?」
「ダメでしょう」
マイが私の方に手を置いた。じんわりとした温かさが伝わる。
「あなた、私に『もっと自信を持て』と言ったじゃない」
「うん……」
カチンカチン、と音がした。チキンがスープと皿をぶつけたのだ。
「君は、体の細胞の組み合わせ、なんてものに規定される存在なのかい?」
「違うわ」
私の声は震えていた。
「私はあなたとは違う。でも、あなたは『私とあなたは違う』というだけの存在なの?」
私の耳元でカコが囁いた。熱を帯びたその声は涙混じりのものだった。
「そうか。そうなんだわ……」
私が見ている世界、私以外が見ている世界、私が私と出会うこと、私が私以外と出会うこと。そして私がカコやマイに出会って得るべきことがわかった。
「私は、私なんだ」
チキンは満足げにうなづくのを見つつ続ける。
「『私はあなたとは違う』から『私が私である』のではなくて、『私が私である』から『私はあなたとは違う』んだ」
「やっとわかってくれた」
「私は、もっと私になりたい」
チキンは小さく鳴いて返事をすると席を立ってどこかへ行ってしまった。カコは大きめの窓の外を熱心に見つめている。マイは興味を失ったのか鞄から文庫本を取り出して読み始めていた。
私は彼女たちに手短に別れを告げて店を出た。返事はなかった。
ベランダから部屋に戻るころには、もう日が昇っていて、キッチンでお母さんが朝ごはんを作っていた。食卓に着き新聞を読むお父さんの前にはチキンスープが置かれていた。私はお腹がいっぱいだったのでそれらを無視し、カバンを手に取り再び家を出た。
エレベーターに乗り、エントランスの自動ドアをくぐり、外に出て朝日に目を細めた後、目の前に私のチキンスープが広がっているのを見つけ、私は目を見開いた。
私はわたしになったのだ。
このあと滅茶苦茶◯ックスした