1、危なっかしい旅立ち(もしくは「知識が中途半端」)
薄暗い部屋の中、中年のおじさんの手にきらり刃物が光る。
「……本当にいいのかい?」
「うん。遠慮なく、ひとおもいにやっちゃって」
尻込みしそうなおじさんを勇気づけるように、年頃よりちょっと若い少女は力強く言う。
少女の自慢の逸品だった。
毎日手入れをされていたために非常に美しく、少女の中で唯一誇れるもの。
でも、これからの人生には不要。
旅の足手まといになるし、目立ちすぎる。
それに、これと引き換えに得られるものと比べたら、取るに足らないもの──。
「じゃあ、いくよ」
決心したおじさんが、少女の首筋に刃物を入れる。
ザクッ、ザクッ、という音とともに、少女の頭は軽くなっていく。
喪失感と開放感を味わう少女の背後で、長くつややかな亜麻色の髪は切り取られていった。
ここは古着屋の奥の部屋。外の光があまり入ってこないため薄暗く、店に出しきれない商品が店の隅に雑多に積まれている。中央にはテーブルと背もたれのない丸椅子がいくつか置かれていて、その椅子の一つに少女は行儀よく座っている。
フードを目深にかぶって通りを走っていた少女は、店の呼び込みを聞いて足を止め、逃げ込むように店内に入ってきた。そしてくるぶしまでもある長い髪と引き換えに、少年の旅装一式と金銭を要求した。
かつらを作るために、長い髪は巷で普通に取引されている。この古着屋の店主も、髪と引き換えに古着を売ったことは何度かある。
だが、これほど見事で長い髪を扱ったのは初めてだった。量が多いため、ハサミがなかなか入らない。苦心して最後の一筋まで切り離すと、散らばらないように三つ編みにした髪が、それを握った店主の手とともに少女から離れていった。
「そのままじゃみっともないから、整えるかい?」
「うん。お願い」
店主は切り取った髪をテーブルの上に置いてから、おかっぱになった少女の髪に軽くハサミを入れていく。
「髪型は男っぽくしてね。これから男の恰好で旅するから。女の子の一人旅って危ないんでしょ? だからやむを得ず一人旅をする時は、男装して男のフリをするんだって聞いたことがあるんだ」
「お嬢ちゃん、物知りだねぇ。どこでそんなことを知ったんだい?」
「神で──じゃなかった。通りすがりの人が話してるのを、小耳に挟んだの」
少女はうっかり本当の事を言いそうになり、慌ててごまかす。神殿に訪れる人たちの話にこっそり耳を傾けていたなんて言えば、不信がられて神殿に連絡されてしまうかもしれない。
気を抜けない。神殿のあるこの街を出るまでは。
「あんまり上手くないんだが、こんなもんでどうだい?」
合わせ鏡で後ろ髪を確認させてもらった出来栄えに、少女はにっこりと笑う。
「ううん、十分よ。ありがとう、おじさん!」
「じゃあそこの試着室で服を着替えちゃいな」
店主が部屋の一角にあるカーテンに仕切られた場所を親指で示すと、少女は店主から受け取った衣服を抱えてカーテンの陰に引っ込む。
「おじさん! あたしが着てきた服も置いてくから、その分も足しておいてね!」
「ああ、わかったよ」
小さな布袋に数えながら金を入れていた店主は、苦笑いしながら銅貨を数枚追加する。
試着室からほどなく出てきた少女は、ズボンにブーツ、フード付きのマントも着けて、遠目に見ればほとんどの人間が男の子と思うに違いない。あくまでも遠目であれば、だが。
少女は畳んだ長衣を店主に渡し、代わりに硬貨がたっぷり入った小さな袋を受け取った。受け取った袋の中を覗き込み、不満そうな声を上げる。
「ねえ、もうちょっと高くならない? あたしの髪ってもっといい値段で売れると思うんだけど」
「そんなに入れてあげたのに、不満なのかい?」
「だってこれ、全部銅貨じゃない。それに、値段交渉は必ずしないと損をするって誰かが言ってたわ」
「……そういうことを値段交渉する相手に言ったら、交渉に不利になると思うんだけどね。まあしっかり者のお嬢ちゃんに、いいことを教えておいてやるよ。旅に出る時は大きなお金を持たないことだ。金貨や銀貨を取り出してるところを悪い奴らに見られたら、“こいつは金持ちかもしれない”と思われて、待ち伏せされて襲われるぞ。それと、金を一袋にまとめて持ち歩いていると、スリに遭った時、一度で全部の金をなくしちまうことになる。スリに遭わないようにするのも大事だが、すぐには使わない金は下着の中に身につけておいたり、マントの裏のポケットや、ブーツの中に忍ばせておくっていうのも、いざというときに役に立つ」
「ブーツの中?」
「ここに座りな」
髪を切ってもらっている間座っていた椅子に少女が座り直すと、店主はきっちりと編まれたブーツの紐をほどきにかかる。
「ほら、ここに布の隙間があるだろ? こういうところに挟みこんでおくんだ。人前でやるわけにはいかないから、ここでやっていってごらん」
言われた通り、少女は今受け取ったばかりの銅貨を一枚一枚布の間に挟み込んでいく。
「あんまり詰めると足に負担になるから、ほどほどにしなよ」
「うん。ありがとう、おじさん」
「そういうわけで情報料だ。今の情報と引き換えに、お嬢ちゃんの値上げ要求を引き下げてもらえるかい?」
慌てて顔を上げた少女は、不敵な笑みを浮かべる店主にしばしぽかんとし、それから破顔する。
「おじさん商売上手ね! 親切にしてもらったし、チャラにしてあげる」
「それはどうもありがとうよ」
店主が苦笑しながら言ってる間に、少女は銅貨をブーツに仕込む作業に戻る。
両方のブーツに銅貨を入れ終え、マントの裏ポケットにも分けてしまい込むと、残りをベルトのポーチの中に入れた。
「いろいろ助かったわ。ありがとう、おじさん」
「いやいや、こちらこそいい商売をさせてもらったよ」
「それじゃあこれで!」
少女はやってきた時の必死な様子とは打って変わって、軽い足取りで店の中を通り抜けて通りへ出ていく。
それを店の奥から見送っていた店主は、振り返らずに言った。
「あれでよかったんですかい?」
先程まで店主と少女がいた部屋から、低められた男の声が返ってくる。
「ああ。約束通り、報酬は十分払おう。──他言すればどうなるかわかっているな?」
店主は通りを眺めたまま、心得たというようににんまり笑った。
「わかっております。絶対、女房にも喋りません」