開戦
外は乾いた風の音だけが響いていた。
椅子に腰掛けながら、バルタはただそれに耳を傾ける。
それをもう二刻以上。
時折、自分の足が無意識にゆすりを始めると、苛立たしく己の足をひっぱたいた。
音に集中しているのだ。
何かが聞こえるのをただじっと待ち構えている。
気を取り直すように酒場の天井を眺めると、両の腰に帯びた剣のすわりを確認し、再び外の音へと集中する。
バルタは戦支度を完全に整えていた。
胸元に巻いたベルトには二本の杭。両の腰に一対の剣。背にはさらに一本の剣を斜に背負い、左のブーツにはナイフをくくっている。
音を殺し、溜め息をひとつつく。
口の中は乾き、唇がかさつく感触に不快感を覚えたが、水を飲みたいという欲求は感じなかった。
だが、これから起こるであろう大事を思ってか、少し考え直したバルタは、床に置いた水筒を拾い上げると、蓋を開けて一口水を含み、飲み込もうとした。
と、その瞬間。
バルタの耳がかすかに遠くから響く音を聞きつけた。
手に持った水筒をテーブルに置き、口に含んだ水を吐き出すと、即座に椅子から立ち上がり、さらに耳をすませた。
ごく小さな音、かなり距離があるのが分かる。
しかしバルタにはそれが待ち望んでいたものの音であることが分かった。
馬の足音。
しばらくするとさらに音の中から細かな情報が伝わってくる。
足音の大きさから馬は一頭。
時折混ざる鐙を蹴る音から、少なくとも人を一人乗せている。
そして、小さな金属音が複数することから、その人間は恐らく武装している。
時は来た。
バルタはテーブルに置いた水筒を再び掴むと、改めて水を口に含み、あらかじめ布を巻きつけたそれぞれの剣の柄に均等に吹き付けた。
運命の瞬間を迎えた今、気持ちは不思議と落ち着いている。
口中に余った水気を吐くと、浅く静かな呼吸を繰り返しながら、やおら出入り口へと歩を進めた。
壊れかけの戸に手をかけて押し開けながら外に出ると、遠方に上がる砂煙を確認し、通りの中ほどまで来て歩みを止める。
確実に近づいてくる砂煙を眺めながら、バルタは思いを込めるように右腰の剣の柄をじわりと握り締め、一気に抜き放つと、同時に空になった鞘を外して道の隅へと放り捨てた。
すでに町中に達したそれは立てる砂煙を土煙に変え、その正体を視認できるまでに近づいている。
それは葦毛の馬だった。
そしてその背に乗せている。
ヴァルキュリアを。
その姿はまさしく、二週間前の戦場で我が目にしたそれに間違いなかった。
現実感の無い光景。
甲冑姿の女が抜き身の剣を片手に馬を駆り、近づいてくる。
兜から溢れるように流れる銀色の髪は、まるでそれ自体が独立した生き物のようにも見え、その異様さをさらに際立たせた。
向かい風が急に追い風に変わる。
バルタは瞬時にその好機を掴んだ。
猛然と接近してくるヴァルキュリア…老人のいわく、スカルモールドという名のその化け物に向かい、さらにこちらからも一気に走りかかる。
駆けながら、左のポケットに仕舞い込んでいた砂金袋を取り出し、口を結んだ革紐を緩めると、それを左手に握ったまま、両者の距離が充分に縮まるのを待つ。
(もう少し…、もう少し近づくまで…、追い風、風よ変わるな!)
ともすれば荒れそうになる呼吸を整えながら、バルタは素早く駆けた。
今になって、あれほど冷静だった気持ちが高ぶり始める。
焦り…、機を逃すまいとする焦りが確かに心を揺すり、理性が少しずつ押し崩されてゆく。
(早く…、早く…、早く!)
短時間で勝負がつく保障が無い以上、無駄な体力を浪費するわけにはいかない。しかし、そんな考えとは裏腹に、バルタの足は明らかに過剰な疾走を始めていた。
逆に言えば、今がどれほどの好機であるかを示しているとも言えた。
勝負を大きく左右しかねないほどの好機。
少なくともバルタはそう感じていたのである。
感情に理性が振り切られ、ついに全力を出して駆け出してしまったその次の瞬間、ようやく両者の距離はバルタの望む間合いまで狭まった。
その時、バルタはすでに荒い息を吐いていたが、その目は歓喜に、全身は力に満ち溢れていた。
機を見たバルタは緩やかに足を止めつつ、姿勢を整えると、もはや眼前にまで迫ったスカルモールドを目掛け、左手の砂金袋を力いっぱい投げつけた。
瞬間、
目の前が黄金色に染められたと思うと同時に、突然白い炎が眼前を覆った。
まるで爆発したような炎の勢いに驚き、後退りしながら目を凝らすと、砂金を浴びたスカルモールドとその馬が火だるまの体となって苦しげにもがいていた。
よし!
バルタは勝利を確信し、心の中で叫んだ。
それはまさに試金石であった。
老人によってもたらされた情報が確かであるかを確認するための試金石。
金は神の使いに有効だ。
それも予想以上に。
どのような作用によるものかは想像もつかないが、金はどうやら奴らを奇妙な白い炎で焦がす効果があるようだ。
燃え盛るヴァルキュリアを見つめながら、バルタは今までの緊張が嘘のように解けてゆくのを感じると同時に、緊張によって隠されていた己の足のだるさに少々ぞっとした。
冷静さを欠いて体に無駄な負担をかけていた事実に、もし戦いがこうもあっさりと終わることが無かったならと、軽く肝を冷やす。
だが、実際は驚くほどあっけなく勝負はついた。
正直、かなり拍子抜けするような結果であったが、時に戦いというのはこういうものだと妙に納得し、大仰に構えていた剣を照れくさそうに下ろすと、やおら踵を返して白い火柱を背にしようとした。
その刹那、
火柱の上部が突然、宙を舞った。
完全に気抜けしていたバルタは一瞬、全身が硬直するような驚きに見舞われたが、即座に気を取り直し、手放しかけていた剣をきつく握りなおすと体勢を整え、中空に舞い上がった炎を目で追った。
炎はすぐさま落下した。
いや、正確には着地した。
気づくと、目の前で燃えているのは馬だけであることが分かった。
嫌な予感が全身を包む。
明らかに炎の熱からくるものとは違う、異質な汗がじっとりと額を濡らした。
再びよみがえる強烈な緊張感に晒されながら、ちょうど目の前で燃える馬の右後ろ辺りに着地した火の玉を凝視する。
突然、凄まじい恐怖心が胸を締め付けた。
火の玉と思っていたものの正体を見たからだ。
それは燃え盛る盾を構えたスカルモールドだった。
スカルモールドは砂金の投擲の瞬間、それを盾で防ぎ、自身は全くの無傷でバルタの前に
立っていた。
長い髪に隠された顔の大部分は見ることは出来なかったが、わずかに見えるその口元は、明らかに笑みを浮かべているのが分かった。
腕に固定され、白炎を上げる盾をゆっくりと外し、まるでごみでも抛るように投げ捨てると、手に持った剣を軽く一振りし、無造作にバルタのほうへ歩み寄ってくる。
ここに至り、バルタは再び戦場の感覚を取り戻した。
先ほどの馬からの跳躍から敵の機動力を冷静に分析し、さらに懸念するほどとは言えずとも消耗した体力を温存するため、そして敵の能力に合わせ、機動力を優先するために左の腰に帯びた剣と、背負ったもう一本の剣を素早く投げ捨てた。
もちろん、投げる場所もある程度の配慮をした。
手持ちの剣が使えなくなった際、すぐさま拾える位置を考えて放った。
残された一本の剣を握ると、とっくに乾いたはずの柄の巻き布がじっとりと濡れている。
全身から噴出す汗ゆえか、それとも筋肉の強張りか、先ほどよりずっと軽くなったはずの体が鉛のように重たく感じた。
と、その時。
ゆっくりと歩み寄ってきていたはずのスカルモールドが、一瞬にして間合いを詰め、切りかかってきた。
左から右へと振るわれた剣を、とっさに倒れこんでかわす。
すると次の瞬間、凄まじい突風が身を掠めるのを感じ、バルタの心はさらなる恐怖に揺れた。
人間であれば、剣の一振りでこれほどの風圧を生じさせるのは不可能だ。
俺は今、間違いなく化け物と戦っている。
残酷なまでの実感が足を震わせた。
だが、下手をするとすくみあがりそうになる心を叱咤し、なんとか体勢を立て直そうと身を起こす。
(死ぬわけにはいかない、こんな程度で死ぬわけには!)
思いをまとめる暇も無く、次の一撃が無情に襲い掛かってくる。
大上段に振りかぶられた剣が、まるで大地ごと自分を切り裂かんとするように振り下ろされる。
今度もまたぎりぎりで身を横にひるがえし、難を逃れた。
加えて、横から叩きつけるように襲い掛かってきた剣風を利用し、ふわりと飛ばされるような格好で運良く立ち上がることが出来た。
が、大地に叩きつけられた剣によって巻き上げられた大量の土煙により、バルタは一瞬にして周囲の視界を完全に奪われてしまった。
このとき、もしバルタが視界を奪われたことにパニックを起こし、一時でも動きを止めていたなら、もし彼が幾多の戦場を経験した兵士で無かったなら、間違いなく次の一撃によって命を落としていただろう。
だが、彼は生き延びた。
それは頭で考える以前に体が動く、経験という絶対的な下地による生還だった。
バルタは視界を奪われると同時にとっさに後方へ飛び退き、牽制の剣を振るいつつ、さらに残りの砂金袋を取り出すと、宙に投げざま、これを剣で切り飛ばした。
土煙に混ざり、砂金が降り注ぐと、ほとんど間を置かずに左手前方から強烈な突風が起き、土煙と砂金をもろともに吹き飛ばした。
無論、その突風はスカルモールドの一撃によるものだった。
思考を待たずに行われたバルタの行動が期待した効果はふたつあった。
ひとつは、土煙に紛れて近づくスカルモールドの位置を砂金によって生じるであろう炎で確認できる可能性。
もうひとつは、実際に起こった通り、砂金交じりの土煙を嫌ったスカルモールドが、土煙の外から剣風でそれらを吹き飛ばす可能性。
ともあれ、体勢はここに至ってようやくまとまったと言えた。
ここまでの動きはバルタに大きな身体的負担をかけるのと同時に、戦闘に最適な精神状態を構築する働きをも生み出していた。
戦いの前に彼自身が考えていた理想の精神状態。
理性を捨て、本能と経験によってのみ動く。
完全な戦闘適正。
今やバルタは息を荒げ、肩を喘がせる状態にありながら、もっとも剣士としての力を発揮できる状態に達していた。
充分な間合いを置いて対峙する両者。
真の戦いはまさに今始まろうとしていた。