猫は大きな獣が苦手です。
―――ゴォォオオォォォ!!
吹き荒れる雨風の中、やっとの事で見つけた木のうろに身を滑り込ませる。
頭と両足を縮めて何とか入れる隙間は窮屈で仕方がない。けれど雨ざらしよりも遥かにマシだ。ブルリと全身を震わせ、顔が届く範囲で毛並みを整える。
しっとりと雨で濡れた毛のせいで、身体が冷え込んで仕方がない。
あたし、晴れ猫じゃなかったの?
そんな事を思いながら、強くなってゆく雨足を絶望的な気分で眺める。
そもそもの原因は、考えナシに飛び出していったあたしにあった。
事の始まりは、ダーリンの執務室での出来事だった。
くん、くん、くんくんくんくん……
ダーリンのニオイが、いつもと違うことに気がついたあたし。
一度この事に気付くと、疑問と妙な不快感に苛まれるまま、本能に身を任せてダーリンの体をニオイまくっていた。
くんくんくんくんくん、くんくん………
途中にあたしの身体をダーリンに擦り付けたりして、ニオイを消そうと試みたりしたのだが、まったく効果なし。
「………」
すると、何を思ったのかダーリンが持っていた羽ペンをあたしの鼻先にチラつかせたのだ。
「!」
目の前でチョロチョロする白い羽先。
ぴぴーーん! とあたしの耳が上を向く。
ニオイが気になっているのに、羽についつい目が釘付けになってしまう。ムズムズと身体中が疼く。
こうなると居ても立ってもおれず、羽目掛けてビシバシと手を繰り出す。
ああ、猫の本能……
行ったり来たりする羽を追い掛けて、やっぱりあたしも行ったり来たり。
しかも執務机の上なので、あたしが書類で足を滑らしたりぶつけたり散らばったり。
ダーリンが仕事をしている間は、出来るだけ迷惑かけないように大人しくしよう、と決めているあたしとしては、今の状態はかなり不本意な状況だ。
あーん、ダーリン。そろそろあたしヤバイと思う!
はやく止めないとあの人が、例のあの人があたし達を引き裂いてしまう……!
どうあっても止まらない本能。
止めてくれないダーリン。
……ちょっと悲劇のヒロインぶってもいいじゃないですか。
「ゥオッホンっ」
そらきた。
険を含んだ咳払いにダーリンもあたしもピタリと止まる。
振り向くと、やっぱり例のあの人、宰相さんがいた。
この人の存在は、いろんな意味恐怖だ。
まず、名前が覚えられない。
とても長ったらしいだとか、同じ単語が言葉遊びのように続くだとか、そんな理由ではなく、ちょっと別の事を考えたりすると本気で頭から抜けてしまう。
もちろん、それは名前に言えたことではない。
姿形に対しても一緒だ。どんな髪の色だったか、どんな容姿をしていたか、これまたさっぱり覚えていられない。
そんなあやふやな存在感の人なのに、存在そのものは頭から消えない。
存在は認識できるのに、形が記憶できない。
つまり、仕事中にダーリンとイチャついていると、絶対に邪魔しにやって来るおっかない人がいるのは覚えているのに、それがどんな人だったのか全くわからないのだ。
こうして対峙していると、はっきりと思い出せるのに。
「何をやってるんですか、貴方は。せっかく人が選り分けた書類を散らかして! だいたいこの場所は執務処理の場であって猫と遊ぶ場所ではありません。
遊ぶのは結構ですが、時と場所を考えて下さい」
「すまない、レディが構って欲しそうにしていたんだ。……つい」
あ! 今あたしのせいにしたわね、ダーリン。
「猫のせいにするとは、それでも魔界の王ですか」
そうよそうよ!
言っとくけど、始めに妙なニオイを付けて帰ってきたのはダーリンなんだからね、この浮気者っ!
宰相さんに叱られたダーリンは、心なしかしょぼん…としている。
魔界で一番権力があるのはダーリンだけど、一番偉いのはきっと宰相さんだと思う。
「貴女も邪魔するのなら出ていって貰います」
次に溜め息を付きながら、あたしを掴もうとする宰相さん。
やはり、そうきたか。だが、甘い!
宰相さんがその行動に出ることは、最早あたしは予測済み!
猫特有のしなやかな体を駆使してスルリと身を避ける。
「…………」
目標を仕留め損ねた宰相さんは、再び手を伸ばし捕獲を試みるが、――スルリ。
いくら宰相さんと言えど、あたしの許可なくいきなり抱っこして良いのはダーリンだけです。
繰り出される不埒な手を、右に左に時には股下くぐり抜け、避ける避ける避ける!
あ、ちょっと楽しくなってきちゃった。
逃げ込んだ調度品の間をすり抜けて、再び宰相さんの手の届く範囲にわざと身を晒す。
さあ! 次はどう出るんですか、宰相さん。
「俺に仕事をしろと言いながら、お前はレディと遊んでいるのか」
「大変不本意ですが、遊んでいると言うより、遊ばれているような気がします」
じりじりと距離を詰めてくる宰相さん。この人、結構負けず嫌いかも知れない。
あたしも接近してくる宰相さんに備えて、身を低くしいつでも逃げれるように足に力を込める。
「……レディ」
宰相さんとの攻防を終らせたのは、鶴の一声ならぬ、ダーリンの一声。
低くて迫力のある声は、あたし達を静止させるのに十分な威力を持っている。
あたしを見ながらトントンと机を叩く。
来いってことね、これは。
もちろん行きます。
貞淑な妻(予定)は普段は夫(予定)に従うものですから。
「にゃ」と返事をしながら、ダーリンの側におすわり。
満足気に細められる闇色の目。うっすらと笑みをかたどる薄い唇。
間近で見たダーリンの微笑。
とっても眼福な光景に、思わず喉がゴロゴロなる。
視界の端には納得いかないとばかりの表情の宰相さん。
あたしに向かって伸ばされるダーリンの手。だがその手のニオイを嗅ぐと、脱線に脱線を重ねたが全ての事の発端を思い出した。
ふんふんふんふん、ふんふん……
あたしの様子に気が付いたのは宰相さんだった。
「……ああ、ひょっとして匂いが気になっているのでは?」
その通りです。このニオイいったい何?
「匂い?」
「獣は匂いに敏感ですからね。例えば他の動物に触っただとか、ありませんか?」
「そういえば、ロッテに触った」
ゆっくり立ち上がるダーリン。
「……どちらへ?」
「休憩だ」
有無を言わさぬ口調で言い放つ。
こうなるとダーリンは誰にも止められない。
宰相さんもそれを解っているので、あっさりと引き下がった。
扉まで進むと、いきなりの展開について来れずに、机の上におすわりしたままのあたしを見詰める。
あ、ついて来いってことね。
もちろん行きます。
貞淑な妻(予定)は、…以下略。
小屋ぐらいの、黒い大きな生き物がいる。
初めて訪れる魔王城の城門前にそれは、いた。
ダーリンの猫になって、それなりの時間が過ぎたあたしだけれど、行動範囲は驚くほど狭い。
ダーリンの寝室、謁見の間、執務室。この三部屋とそれをつなぐ廊下の一角でたまにお昼寝。それが今のあたしの世界だった。
そのどれもが限られた者しか出入りしない場所ばかりで、あたしは安全な猫ライフを送るためにも、その限られた区域を出ることはなかったのだ。
ダーリンが一緒とはいえ、不安はある。
そんな矢先に、例の大きい生き物と遭遇したのである。
いや、遭遇というのはおかしい。ダーリンの目的は初めから、この巨大生物だったのだ。
それは、分厚い金属でできた門を護るように、巨体を横たえいる。
山のような大きなそれが、生き物だと判断できたのは、呼吸音と共にゆっくりと上下する背中と、ダーリンの身体から臭ったニオイとこの巨大生物から同じニオイがしたからだ。
ダーリンに気付いた巨大生物がギョロリと六つの目を向ける。
……六つ?
あたしがその事実を理解する前に、六つの視線があたしを捉えた。
全身錆びた鎧のようにギッと動かなくなる。
昔、本で読んだ事がある。
下手な魔術や刃物を跳ね返す、光沢をもつ黒い毛並み。荒い気性と非常に強い縄張り意識を持ち、許可無く足を踏み入れた者をその鋭い牙で容赦なく引き裂いたという、三つ子の首をもつ狼。
地上では大昔に絶滅したといわれてる。
おおお、魔王様にくっついて魔界で生き残ってたわけですね。
で、その魔王様の愛犬はケルベロスですか。さすがです。でも、正直怖いんです。近付けさせないでー!
頭の中でぐるぐると考えが駆け巡る。
後になって思い出せば、三つ子の目に好意の光が気がしないでもない。
だが、いかんせん、姿が不味かった。
あたしを一飲みできる大きな口。しかも三つ。
鋭く並んだ大きな牙。しかも三つ。
あたしを簡単にペチャンコにできるぶっとい前足。これは二足。
脳裏に甦るのは、巨獣に追い回され命からがら逃げ延びた日々。逃げ込んだ先にも、無慈悲に迫り来る牙。
大型の猛獣魔獣が闊歩する魔の森で、あたしという存在は食物連鎖の中では最下層に位置するという厳しい現実を、嫌というほど思い知ったのだ。
眼前に迫る巨大な犬の顔。
鼻息だけで体中の毛がそよぐ。
恐らく舐めようと開けられた口の中に、鋭く存在を主張する牙を見付けて、あたしはとうとう恐慌状態に陥ってしまった。
「ふぎゃあああぁぁぁあああ!!」
気づけば形振り構わず駆け出してしまっていた。許容範囲を超える生き物との対峙に、考えるよりも身体が勝手に動く。
つまり、あたしはあたしよりも遥かに巨大な身体を持つ獣に対して、自分の自覚している以上に恐怖心を抱いていたのである。
このときのあたしは、ただひたすら遠くに、この場から逃げる事だけしか考えていなかった。
以上が事の顛末である。