黒革の日記帳
随分と長い、眠りについていたようだ。
未だに頭がぼんやりとし、思考の収束がつかない。
しかし、魔力の枯渇の状況から手っ取り早く回復するために、確か地上で休息を取っていたと記憶しているのだが、いつの間に魔界へと帰ってきたのだろうか?
***
留守の間はシュベルが万事計らってくれていたようだ。
無限と続く界の狭間にて、空間を押し広げ、そこに世界を創ったのは、たしか千年ほど前の事だ。
千年。
それほどの月日が経ったと考えると、少々感慨深いものがある。
空間を押し広げた当時こそ、歪みが絶えなかったが、千年経った今では世界と随分と安定している。
長く留守にしようとも魔界も城も大事なく機能している。
永きに渡り世界の礎となってきたが、そろそろお役御免となる日も近いかも知れない。
だが、もしそうなったら、
―――俺には一体、何が残るのだろうか?
***
猫を拾った。
鬱々とした気分のまま散歩に出掛けた先で拾った。
本来、動物には好かれない。
内に内包する巨大な魔力を恐れ、近付こうともしないのだ。
それなのに、恐れるどころか懐く。
一身に慕ってくる猫にくすぐったい気持ちになりながら、同時に締め付けられるような不可解な胸の痛みも感じる。
気になるのは、猫の瞳。
あの緑色の瞳を見ていると、妙に暖かい穏やか気持ちになると同時に、抉り出したいという狂暴な矛盾した気持ちに駆られる。
二面に別れた感情は、責めぎあう度に結局抉るのはいつでも出来るという結果で決着をつける。
しばらく寝室で匿うことにしたら、あっさりシュベルに見つかった。
せっかく帰還したばかりで、何かと慌ただしい城内に気を遣ったというのに。
***
新たに部屋付きとなったヴォレのアビルに、レディの世話を任せる事にする。
アビルによって綺麗にされたレディの毛並みは蜂蜜色だった。(猫の名前はシュベルが付けた)
清潔になった毛並みを撫でると、気持ち良さそうに目を細める。
少しばかり慎重に撫でてしまうのは、幼い頃に魔力の暴走で簡単に死んでしまった飼い犬を思い出すからだ。
強い魔力も加護も持たない動物はあまりにも脆い。
シュベルに「そろそろ俺は不要か」愚痴を溢したら、
「なにを言っているのですか! 一時でも私が魔界を治められたのは、貴方がちゃんと基盤を固めたからこそです! それでも私がどれ程薬湯を消費したことか!」
と、怒られてしまった。
まだまだ隠居はできないらしい。
せっかく良い連れが出来たと思ったのに。
***
炎獄地方のとある領主のひとりが、かの地を平定したらしい。
炎天の地の者は、燃え盛る大炎のごとく気が荒い。放置すれば燃え尽きるまで周囲を巻き込み、やがて無と返すだろう。
業火になって火の粉がこちらに及ぶ前に、速やかに鎮めなければならない。
ネメシスに消火の任を授ける事にした。
そういえば先日、アビルの父親リムトンが挨拶にきた。
以前、眠りにつく前に部屋付きだったリムトンは、怪我が原因で引退する事になったのだ。
残念な旨を伝えると、緊張している息子を示し、
「ビシビシ鍛えてやって下さい」
と朗らかに笑っていた。
ヴォレ族の特徴として、非常に防御に特化しているが故の抜擢だろう。
いざというときには盾にしろという事だ。
リムトンが怪我をしたと言うことは、……そう言う事なのだろう。
追記
ネメシスとレディを引き合わせた。
仔猫の様に鳴くレディに、いつものように好き勝手にしているふてぶてしさは欠片も見当たらない。
***
謁見の後日。
ネメシスは宣言通り、レディに魔界の魚、ドン・グラを持ってきた。
魔界を代表する珍味の一つであるこの魚は大変に大きく、レディ独りでは食べきれる物ではないので城の者にも分け与える事にする。
早速レディにドン・グラを与えてみたが、小声で喋るような鳴き声が聴こえてきたので驚いた。
口一杯に頬張り「あぅあぅあぅ」と声を出しながら夢中で貪っていた。
あっという間に器を空にし、更には催促するように口をぺろりと舌舐めずりし、こちらを見詰める。
どうやら大変お気に召したらしい。
あまり甘やかすのはいけないと思うが、どうもこの目で訴えられると弱る。
シュベルに見つかると小言を言われるので、自分の皿から調理されたドン・グラを落とした振りをして分け与える事にする。
偶然落ちたものが、偶然レディの器に入っただけだ。
何も言われまい。
余った分のドン・グラは、食べずに長期保存に適した燻製にするように指示しよう。
***
近頃、更に空間の歪みが目立つ。
報告を聞くだけでも、無視できない状況が多い。
もしかしたら誰か上位の存在が、魔界に出入りしているのかも知れない。
歪みが増えれば、それだけで魔界の存続が危なくなる。安定しているようで、まだまだ不安定な世界だ。
領主の離反に空間の歪み。
まだまだ問題は絶えそうにない。
***
猫という猫が献上されてきた。
多少反対があったがせっかくなので、全て受け入れる事にした。
レディの遊び相手に丁度良い。
***
レディは気位の高い猫だ。
気分の悪い時は誰であろうと容赦はしない。
触ったら牙を剥かれてしまった。
引っ掛かれこそはしなかったが、素っ気なく何処かへ行ってしまった。
新たにやって来た猫は、どれも恐れ近付きもしないのに、やはりレディは普通の猫ではない。
損なった機嫌を直して貰うために、今晩はおやつでも持っていこうと思う。
しかし残念ながら、ドン・グラは燻製過程の真っ最中で諦めざる負えない。
その日の夜、おやつの匂いを嗅ぎ付けたか、あっさり機嫌良く寄ってくる。
少々拍子抜けしたが、すぐに異変に気付く。
レディが怪我をしていた。
事の次第を確認する為に部屋を後にする。アビルにレディの手当てを命令しておいた。
事態はあっさり解明される。
猫という猫は、その日の内になんとかするように命じた。
これで大丈夫だろう。