猫、危機に気付く
あああ……
気になる、すごく気になる……
あたしの視界の端をチラチラと過るのは、侍女その①、じゃなくてマリベールのゴージャスドレスを彩る飾りのひとつ、彼女が身動ぎするたびに揺れるリボンの端っこだ。運の悪いことに、リボンの端には上品な金の刺繍が鮮やかな赤色の生地に施されているから、ちょっとしたことで視界に入って堪らない。かといって、無理やり視線を外せば、今度は微風で僅かに揺れるカーテンが気になる。引っ掻きたい、飛びつきたい、むしろよじ登りたい。
この世は誘惑に満ちている!
嘆かわしい気持ちで頭を振りつつも、あたしの目線はしっかりとリボンに釘付けだ。ああ、本能。
あれから混乱するあたしをよしよしと慰めてくれたのは、他でもないマリベールだ。青空の瞳がかなり好奇心で輝いていたのはこの際気にしない。うん、気にしない。
すっかりと色々忘れてしまったあたしだが、一つ思い出した事がある。
仔虎ちゃんの安否だ。
正直焦った。すっかりポッカリと忘れてしまっていた。そわそわぐるぐると落ち着きの無いあたしに、確認の同行を申し出てくれたのがマリベールだ。
「ただし! これからは貴女がわたくしのお付きの侍女として振る舞いなさい。わかってまして? 今の貴女は侍女服。わたくしはドレス。下着泥棒には勿体ない、これ以上無い配役ですわ」
名前を忘れてポロっと侍女その①と言ってしまった事に対する逆襲なのか、そうなのか。
しっかりと下克上されてしまった次第なのである。
「それと、首のリボンを外しなさいな。貴女、そのリボンでわたくしは猫ですと広言しているようなものですのよ」
おっ?
よく考えれば、ダーリンの愛の結晶を首から着けたままだった。もしかして、マリベールにバレたのはコレのせい?
いそいそと取り外し、尻尾に付け替える。スカートの裾に隠れてこれで分からないはず。
早速情報収集に出掛けたわけだ。
主の斜め一歩後ろを保ちながら歩くのが付き人の鉄則なのだが、……リボンが気になって気になって、我慢の末に『も、もうダメっ』マリベールの背中を目指して飛び掛かること数十回。
怒って扇子を振り回すマリベールを避けて、カーテンをつたって逃げようとすること数十回。
今回も飛び掛かっては、追い掛けるマリベールを避けて壷の中に顔を突っ込む。
「あなた、やる気はありますの!?」
これでも、あるのです。
壺から丸出しの下半身から生える尻尾を振って返事する。
「ならどうして真面目にやりませんの!」
これ以上ないくらいの危機感と真面目さを持って取り組んでいるはずなのに、何故か身体が言うことを聴かない。
「にー……」
ションボリとした猫の鳴き声が壷の中でこだました。
壷の外では、だらーんとなる尻尾。それを見たマリベールは、あたしが反省していると知ったのだろう、先ほどよりも幾分か優しい声で話し掛ける。
「あ……、ま、ぁ、反省しているのでしたらいいの」
それにしても、やっぱり変だ。
どうも人に変身してから、考えが上手く纏まらないようになった。
猫の時ならば、あれこれと悶々考え悩ませる事なく、次の行動をすんなりと決めたはずなのに。かと思えば、今のように大胆に猫な行動をしてしまう。でも直ぐに我に返る。
猫の時の指テケテケなんかは、すぐに目が釘付けになって、しばらく我を忘れて猫パンチを繰り出しひっ捕まえては噛み噛みしたりしたのに。
一体、これの意味するところは?
スポッと壷から出たあたしはマリベールに向き直り質問する。
活躍するのはもちろん魔術板だ。
【猫好きのマリベールに質問】
「わっ、わたくしは別に猫なんて」
【否定しても、無駄無駄。貴様の趣向はとっくの昔にお見通しだ。いつだったか、あたしとガウディを熱い視線で見てたことといい、仔虎ちゃんを見てワキワキと手を怪しく動かしたり触ろうとしてエネリから牙を向けられても、それ見てうっとりしてたり】
「そんなのはデタラメですわ!」
【……ふっ、悪あがきを。ドレスの下に隠し武器ならぬ隠し猫じゃらしを持っているのも最初からお見通しなのよ】
「くっ」
悔しそうに顔をしかめながらマリベールがドレスの裾に手を入れれば、出てきたのは案の定、細長い棒の先にボンボンが取り付けられた猫じゃらしが出てきた。
フっと諦めたように笑う。
「……わたくしは伯爵令嬢として生まれ、人が羨む恵まれた暮らしてましたわ。でも、あるときふと気がつきましたの。気ままに屋敷の塀を歩くにゃんこを見て、わたくしは自由ではないと。それからも、毎日にゃんこが塀の上を歩く姿を見ていましたわ。そしてわたくしは気が付けば、あのにくきゅう、柔らかいふにゃふにゃの身体に見いられ、引き返せないくらいの虜に……!」
うむ、今考えると初めて会った時の熱視線の正体は、「好き好き大好き、今すぐ触りたぁい」って意味だったのか。
まあ、魔王陛下やその他大勢の前でにゃんにゃんゴロゴロと戯れるなんで、伯爵令嬢のプライドが許せなかったのだろう。
「笑いたければ笑いなさいっ。ううっお父様にさえ隠し通して屋敷の外れに猫別荘まで造ったというのに。……良ければ猫に戻るのなら招待して差し上げてもよろしくてよ?」
顔を覆い悲劇のヒロインよろしく泣き崩れていたマリベールは、最後だけはキラリと瞳を輝かせた。
【……そ、それは、またの機会に。ところで、猫の生態なんか知ってたら教えて欲しいんだけど】
「そうですわねぇ、野生の猫は基本的に単独行動をしますわ。あの誇り高い佇まいが素敵ですの! 飼い猫の場合、大人になっても飼い主に甘えるのは仔猫の気分か抜けないから、とか聞いたことがありますけれど、あれも可愛くて堪りませんわ! あなたのお母様はここにいますわ、わたくしですのよ、という気分になります!」
ど、どうやら不味い所をツツイてしまったらしい。
しかし、今の話で考えてみると……
つまり、あたしは幼児後退していた訳なの!?
確かにエネリの毛皮に丸まって、ゴロゴロゴロゴロ……
やってたわ、思いっきりやってわよ……。
「あとは、猫に関わらず獣が第一に心配するのはその日の糧という所かしら? 他には子孫を残したり、とか……。でも飼い猫はその心配は余り無いから、時折残酷になるって聞いたこともありますわね」
ひょっとして、あたしのこの呪いは、思った以上に厄介で深刻な問題なのかも知れない。
猫と人の頭の大きさは違う。
あたしの小さい猫の頭では、将来の伴侶ダーリンの事と食べ物の事が大半に占められていた。
猫にとって、獣として生きるに不必要で後回しにした事を、いつの間にか忘れている。
そして忘れていたことさえ、忘れていた。
人になって、頭に余裕が出来て、初めて気が付いた。
猫の頃は悩まなかった、だなんて、あたしったら悩む事柄自体を忘れていたなんて!
それに、猫になっている期間が長ければ長いほど、そう、当初よりも猫っぽい行動が増えている!
人型になってからの葛藤は、まさしく、猫の本能と人の理性が頭の中でぶつかり合っていたのだ。
しかも、猫期間の長かった今では、すべて猫本能に軍配があがっている状態だ。これはマズイ。
もしも、このまま猫のままで過ごしていたらと考えると、ゾッとする。
見えないところで、呪いはしっかりとじわじわ進行していた訳である。