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黒革の日記帳5




ゆっくりと指に力を込める。

一本一本、丁寧に力を込めて締め上げる。

指から伝わる柔らかい感触の、なんて愛しいことだろう。

か細く震える睫毛は涙に濡れて、上質の金糸の如く煌めく。うっとりとその様を眺める。

少し力を緩めれば、うっすらと開かれる若葉のような瞳。

驚愕に歪められた瞳を覗き込めば、狂気に支配された自分の顔が映る。

彼女の視界は占めるのは、今、自分だけだ。

喩えようない歓喜に心が震える。

大丈夫、もう誰にも触れさせない。

動かなくなった身体は、時の干渉を受けない暗闇の空間に放り込んでずっと愛でよう。


ちがう、ちがうんだ!


それと同時に心が悲鳴を上がる。

こんなことをしたいのではない。

こんなはずじゃない。

花の蕾が膨らんだだとか、小鳥が巣立っただとか、たわいのない話をしながら笑って触れて、優しい満ち足りた時を過ごしたかった。

それなのに、なぜ。


矛盾した思い。


正気と狂気の狭間で揺れ動く理性。


ぐったりと力を無くす身体。



あああ、あああぁ




―――……ゃ




んにゃあ……




んにゃーん




ざらざらとした何かを、頬に、目蓋に、額に、顔中至るところに擦られる。

うっすらと目を開ければ、先ほどの緑色の瞳が目の前にあった。

ヒュッと小さく息を飲む。


全て、夢、では……


鼻の頭に、ざらりとした感触。舐められた。


…………れ、レディ?


それで漸く飼い猫の存在を思い出した。

不安そうに見詰めてくる緑色の瞳から目を離せずに、手だけ伸ばして確認すると、指先にふかっと暖かい毛皮の感触。


「にゃあん」


反応があった事を安心するように、レディは瞳を細めると額と額をすりすり擦り合わせてきた。

ふわふわした毛皮の感触に、いつの間にか痛いほどに顰められていた眉間が緩む。

しかし瞳は夢の中の色とあまりにも酷似していた。

不安に駆られて、胸に寄せる。小さな身体に頬を寄せれば……


―――……トクン、トクン


規則正しく脈打つ鼓動。命の音。それにひどく安心する。

どれ程の時間をこうしていたのか、しばらくしてレディが腕の中でもそもそと落ち着きなく動き出す。

自分の落ち着く体勢を見付けたのか、ようやく「ふー」と息を吐いた。吐息が首筋に触れて、くすぐったい。

一息をついた後、くりっと顔をこちらに向けた。


「……ああレディ、おはよう」


言葉にして気付いた。

宵の闇は明けてはいない。

朝と夜との区別がつかぬほどに混乱していたということか。

気恥ずかしさに再び心地よい温もりに顔を埋める。


彼女と同じ、蜂蜜色の。


…………“彼女”?


不意に浮かんだ夢の中の光景。

奇妙な夢は、いつも見ていた。

ただし抽象的で断片的なものばかりで、目を醒ましても、ここまではっきりとは覚えていた事はない。

それに、初めて現れた虹の都。

いつも見ていた夢が“彼女”についての夢だったことに、今やっと気付いたくらいだ。

不思議なことに、いくら思い出そうとしても、その“彼女”の顔にはぽっかりと闇が空いていた。

夢の内容を思い出し、ぞくりと肌が粟立つ。

その“彼女”の首を絞めたのは、一体誰だ。

だんだんと小さく揺れる命の灯火を嬉々として眺めたのは、一体誰だ。

指に残る生々しい感触。

夢のはずなのだ。あれは夢。


夢?


腕の中で苦し気に身を捩るレディに我に帰る。

無意識に力を込めすぎたようだ。

慌てて力を緩めると「まったく、もう」とでも言いたげに鼻を鳴らす。

それでも腕の中から出ようとはしなかった。


よかった。


四方から迫るような闇が恐い。

また、夢の中に引きずり込まれる。震えるような歓喜と恍惚とした狂気、そして救いのない正気。

荒れ狂う感情の波が押し寄せて、たちまち溺れてしまいそうだ。

腕の中のぬくもりだけが、現実へと繋ぎ止める。


恐い?


暗闇こそが我が力。一体なにを恐れる事がある?


いや。


自分の力こそ、恐ろしい。

時折、感情と共に噴き出す、制御できない己の力が怖い。

何年生きようが思い通りにならない力は、確実に心を蝕んでいった。


誰にも心は移さない。

何にも心は揺さない。


けれど、自分という存在は認められたい。


他者のために造った魔界は、誰よりも一番に自分のために造ったのだ。


寝台の隣に手を伸ばす。

目的の物はすぐに見付かった。

黒い革の手帳だ。

長すぎる生を綴ったもの。

パラパラと擦れる紙の音。


―――随分と長い、眠りについていたようだ。


手帳に記された一文を指でなぞる。

それ以前の記録は、眠るにつくまでのものだ。

眠っている間の記録は存在しない。

当然だ、眠っていてはペンは持てない。


ならば、何を思い煩う必要がある?

何故こんなにも、腑に落ちない?


果たして本当に眠りについていたのだろうか?


物思いに耽る。


「んにゃ、にゃん、うにゃん」


気の抜けた鳴き声に視線をレディに移す。

膝にくたりと身体を預けながらもごもごと口を動かし、なにやら「うにゃうにゃ」と呟いている。


……寝言だ。


自然と頬が緩む。

そういえば、まだ夜は明けてはいなかった。

朝までぐっすりと休みたかったろうに。眠たいところを起こしてしまい悪い事をした。

そっと撫でようと手を伸ばし、止まる。


……そよ風?


レディのひげの辺りから、なんとも心地よい風が流れてくる。

春の陽射しの木漏れを揺らす様な暖かい微風が辺りを包み込む。

戸惑いながらも興味に駆られ、レディを“視”る。

風は確かに、レディから流れているようだ。寝ぼけながら無意識に周囲に魔力を広げては働きかけ、心地よい空間を造り出している。

確かに、拾った当時には欠片も無かった魔力が、最近では目を見張る速度で増えている。といっても現時点では、そこらの猫と比べると高い魔力の貯蓄量だが、程度としては魔界に住む一般人と同じくらいで、人型となれる“二つの姿持ち”と比べれば少ないくらいだ。


寝惚けて自然に発動するなんて、元々そんな力を持って生まれたという事だろうか?


更によく“視”ると、気になる事を発見した。

レディには何か術が掛かっている。

そっと背中に指を這わせ、何かを摘まみ上げる動作をすると、レディに絡み付いていた術式の一部が姿を現す。


「なんだ、この術式は」


それは古の時代に作られた、対象を知性も何も無い醜い獣へと変貌させる邪術だった。

古き時代の悪しき産物。

悪趣味な輩が面白半分に使用した、道徳なき魔術。


こんなものが、なぜレディに?



よく解読すると、知っているものとは少し違う。

描き換えた跡がある。


この魔力。これは、レディの仕業だ。


それにしても、無理やり魔力を捩じ込んで別の術式に変えるなんて、レディはよっぽど猫になりたかったのだろうかと……


いや、違う。


これは邪術に抵抗した跡だ。

つまりレディは、以前それなりの力を持っていた魔術師で、それも知識はかなり豊富かもしれない。知らなければ古の邪術を描き換えるなんて、そんなことは不可能に近い。

しかし、古の時代に触れることができる者など限られて……




―――聖女が行方不明に、




脳裏にシュベルの報告が甦る。

一つの可能性に胸が冷える。


聖女とは、全てに愛され全てを愛す、世界に祝福されし祈りの乙女。

聖女は聖王の、神の代行者。

地上の民に親身になって触れ合う彼女は、彼らにとって一番に親しみ深い信仰の対象だ。

確かに聖地に住まう聖女ならば、古の時代を知る機会は沢山存在するはず。


聖女?


まさか。


たった今、寝返りをうち、急所を無防備に晒け出し腹を見せる、普段は賢く、影に隠れて絶妙な悪戯をしでかし、時折大失態をやらかす少々間の抜けた、この猫が?


いや、しかし、レディが聖女だなんて、それはあまりにも突拍子すぎる。


けれど万が一、もしそうならば、聖女は聖地へと帰さなければならない。


どちらにせよ、レディの意に添わぬ形で猫になってしまったに違いない。


いったい地上で何が?


忌まわしい呪術が初めて目の前で使用された日の事は、千年以上経った今でもはっきりと覚えいる。


病んだ父王と狂った高官が、諫言した勇士に施した惨い仕打ち事を見たのは、当時年端もいかぬ少年時代。

知性なき卑しい獣の振る舞いに、そのほとんどが嘲笑し、侮蔑の眼差しを向けた狂宴の広間。

吐き気がする。


こんな術をレディに使用するとは、使用者には虫酸が走る。もしも会う事があれば、自分の犯した罪を嫌というほど後悔させてやる。


決して楽に輪廻の流れに乗れると思うな。


不意に心地よい風が止む。


恐る恐るこちらを伺う上目遣いのレディだった。


しまった……!


起こすつもりは無かったが、古い記憶に気が高ぶり直ぐ傍で寝息を立てるレディへの配慮を怠ってしまった。

慌てて小さな額を擽ると、気持ち良さそうに目を細めた。





「魔王陛下、地上より世界会議の知らせが届いております」


翌朝、執務室でシュベルから恭しく手渡された書簡に目を通す。

そろそろかと思ってはいたが、非常に良いタイミングだ。

年に数回の聖王が主催する、世界各地に散らばる“同盟”を結ぶ実力者たちの話し合い場が設けられるらしい。

もっとも、ここ数百年は参加していないし、向こうも出席するとは考えてはいない、形だけの案内だが。


「出席する」


「はい、では通常通りに断りの返書を……、って、え」


書状を片手に固まるシュベルに畳み掛ける。

シュベルには、これから急いで準備に奔走してもらう事になるので、固まって貰っては困る。


「連れていくのは、フレイル、オックスゲヴァルト、……それとサンドレオールのは、まだ城内にいたな」


「は、はい」


「使いを出せ、連れていく」


「ええーーっ!」


気になる事が多すぎる。


“火”と“水”の関係悪化。

地上への侵略の上奏。

不可解な夢。

消えた聖女。

堕ちた勇者。

そして、もうひとつ、気になる報告。


すべては地上に、鍵がある。





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