胸の痛み、頭に衝撃
覚悟していた事だけれど、やっぱり堪える。
ダーリンの寝室に逃げ込んだあたしは、ダーリンのマントをベッドの下に引っ張り込み、その上で丸まった。鬱々とした気分でひっそりと息を潜める。ベッド下という死角であっても、埃ひとつない羊美少年の完璧な仕事ぶりに、感心できる余裕は今のあたしには無かった。
エリーはもちろんのこと、誰とも会いたくない。
仄かに鼻を掠めるダーリンのニオイだけがあたしの唯一の慰めだ。
目蓋を閉じると、つい先ほどの出来事を思い出す。
エリーの一言を聞いた洗濯場の女の人は、血相を変えてエリーを個室へと引っ張りこんだ。
もちろん気になるあたしも、一緒にお邪魔した。すぐに近くの調度品の隙間に隠れ、息を潜める。
彼女らはあたしが部屋に潜り込んだことには、これっぽっちも気付かなかった。大きい洗濯女は大股で廊下を渡りながらも周囲の目を気にしていたし、誰にも聞かれないように注意は払って個室を選んだのだが、どこか気が急いていたのだ。
エリーのすぐ後ろで足音を立てずに付いてくるあたしを視認するには、幸か不幸か彼女の背丈はあまりにも高かったし、エリーも小柄ではあるが、あたしが隠れるには十分な背丈だったのである。エリーもエリーで、尋常ではない洗濯女の剣幕に気圧され、それどころではなかったのだ。
扉が音を立てて閉まり密室となった後、一人は何か言葉を探すように、一人は困惑からかどちらも黙りこんでしまった。
たっぷりと沈黙が部屋を支配したころ、口を開いたのは険しい表情の洗濯女の人だった。
「一体どこで魔王様と会ったんだい?」
「ああ、あ……の、」
可哀想に、エリーの声は震えて初めは言葉にはならなかった。
洗濯女の責めるような口調には、エリーでなくとも腰が退けてまう。
「昔、わ、私の住んでた所が魔物に襲われて、その時助けてくれた騎士様を率いていたのが、あの方で、」
あたしはすぐにピンときた。
エリーは騎士様と言っているが、実際にはその誰も騎士ではなかったはずだ。
ダーリンはあたしの国では身分を偽り、一兵士として何度か遠征にも行っていた。その頃、何の後ろ楯もないダーリンは、手柄を立てて騎士として受勲されるのはおろか、隊長職に就くことですら随分と苦労したのだ。
通常、騎士になるにはそれなりの身分である貴族の子弟で、かつ、手柄を立てたものだけがなれるという、非常に名誉ある事なのだ。
ダーリンのような一兵士が取り立てられる事は、殆ど例がなかった。
特にダーリンは黒髪黒目の容姿がまずかった。あたしの国ではまず見掛けないその色は、認められるのに随分と時間がかかったのである。
おそらく、お義父様―――ダーリンの後ろ楯となった伯爵様、魔界では剣術顧問役でもあるグルの一味のあの人も、ダーリンが並々ならぬ努力をしたからこそ、怪しまれずに後見につくことができたのだろう。
当時騎士ではなかったが、統一された隊服に身を包み見事魔物を追い払った彼らは、村人たちにとっては紛れもなく国を守る騎士様だったのだ。あたしは嬉しくなる。
ダーリンは誰よりも先に、守った人々によって認められていたのだ。
称号なんて、些末な事に過ぎない。
ちなみに、ダーリンが騎士となってからの遠征は数回しか行っていないが、あたしはその行き先をどれも把握している。
というのも、その頃には既にあたしはダーリンとラブラブとしていたわけです、はい。ダーリンの情報は逐一入手してましたとも。
なので、あたしが知らないということは、まだあたしが正式にダーリンと出会う前だろう。
ダーリンはいつでもカッコイイが、仕事中のダーリンは更に更に! カッコイイ。
つまりエリーが憧れに近い淡い恋心を抱くのも仕方がない事なのだ。
ほわほわと暖かい気持ちに包まれたあたしは『まあ、憧れならいいかなぁ』と当時のダーリンを思いだしながら、一人にゃふにゃふとしていた。つまり、両手で顔を押さえながら思い出し照れ笑いをしていたのだ。にゃふにゃふ。
ところがその後、そんな呑気な事もいってられない事態になってしまった。
―――いいかい、あんたはその事誰にも話しちゃいけないよ。
―――魔王陛下は、魔女にたぶらかされて呪われたのさ
―――まったく、なんてことだろうね。もしも見付けたらただじゃおかないよ
洗濯女の言葉に、エリーがどんな受け答えをしたのか。
あまりの衝撃に断片的にしか会話を覚えていない。
気が付けば部屋には誰もいなかった。
調度品の隙間から這い出たあたしのその後は、ただひたすらに安心できる場所、ダーリンの寝室目指して走ってはベッドの下に潜り込み、見えない憎悪から身を守るように、ただひたすらに丸まっていたのである。
一体こうして、どれ程の時間が経過したのか。
ベッドといっても半端なく大きい寝台は、ダーリンが人型のあたしを五人侍らしても余裕の広さだ。
すでに僅かに射し込んでいた光も今は届かない。
真っ暗闇の中でも夜目は利く。なんたって猫だからだ。
しかし、ダーリンのマントは闇色。気を抜けば、まわりに溶けて無くなるような錯覚にあたしは震える。這い上がる孤独感に一人耐えた。
魔女だって、あたし。……笑っちゃう
ある程度は覚悟していた。
けれど、実際にこの耳で聞いた言葉は想像以上にあたしの心を抉った。
救いは、あたしが猫で、女の人の憎悪対象は人のあたしだったことだ。
果たしてそれは、救い?
否定される人のあたし。ますます戻れなくなってしまった。
ダーリンは、あたしの事をどう思ってるのかしら?
いくら情報を制限しているといっても、きっと疑問くらいは抱いているはず。
それに、噂話も聞いているかも知れない。
その手の話を好む者はどこにでも存在するのだ。口を塞ぐことなど不可能に近い。
―――ダーリンまで、もしかしたらあたしの事を……
突如、綺麗な光があたしを包む。。
驚いた。跳び跳ねそうになった足に、力を込めてその場に留まる。
不思議と恐怖は感じない。目も眩まない。澄んだ青色は柔らかくあたしを照らした。
光の出所はすぐにわかった。
ダーリンからのプレゼント、リボンについた小さな石だ。
『?、??』
足でツンツンと続いてみるも、ただ淡く光るだけで、それ以外の反応は示さない。
チカチカと瞬いてはやがて静かに光は終息した。
な、何だったの?
首を傾げる。
青い清浄な光はほんの少しだけ、あたしの心の闇を洗い流してくれた。
『……!』
突如ピンと耳が立つ。
物音を聞き付けたのだ。誰かが真っ直ぐにこの部屋に向かっている。
カチャリと開く扉に、それ以外の音を拾おうとあたしは耳を澄ませた。
誰かが動く端切れの音。
「レディ」
『!!』
ダーリンだわ、ダーリンがあたしを呼んでる!
心地よい低さの声は、とても近くから聞こえた。
会いたい。
けれど、今は会いたくはない。もしもダーリンにまで本来のあたしを否定されたら。そんなことは無いとはないとは思うが、もしも魔界に名高い悪女があたしだと知られてしまったら。
不安に思うあたしがとった行動は、嵐が過ぎるのを待つように、じっと動かず息を潜めることだった。
会いたい、会いたい。でも、自分からは行けない。
気付いて欲しい、でも、嫌。
ところがそんなあたしの心の葛藤も知らずに、ダーリンはあっさりあたしの場所を見破った。
足音はベッドのすぐ隣で止まったかと思えば、次の瞬間には黒い瞳がベッドの隙間からあたしを覗く。
あたしはギョッとして目を見張った。
魔王陛下に膝を付かずなんて、とんでもない!
慌ててベッドの下から飛び出そうとするあたしは、更なる災難に襲われる。
急いで跳び跳ねてしまったあたしの頭が、ゴチンッ! と鈍い音を立てた。
「きゅぅ!?」
思わずあたしの口から鋭い悲鳴が上がる。
……いいぃ、いたいぃ
木から落ちる。
袋詰め。
隠れ家ごと落下。
ヒゲ引っ張り。
魔界にきて、受けた暴行、数あれど、……今まで一番の衝撃だ。一番痛かったのはもちろんヒゲ。
でも痛い。一番ではないけれど、痛い。それ以上に頭がぐわんぐわんする。口から手を突っ込まれて脳天が揺さぶられたような衝撃だ。いい音がしたから当然だ。
結局痛みに悶絶するあたしに、見兼ねたダーリンがベッドの下に潜って救出される結果となってしまった。……もちろん、膝を付かせた挙げ句に四つん這いをさせてしまった。ダーリン、ごめんなさい。
ダーリンはあたしの身体を寄せると、ぶつけた部分を優しく撫で撫でしてくれた。
ダーリンの剣胝ができた手のひらは、ゴツゴツとしていて撫でられ心地はあまり良ろしくないが、あたしにとっては何よりの薬だ。
ゴロゴロと喉を鳴らす。我ながら現金な猫だ。先ほどの葛藤もダーリンの撫で撫で技能の前には何の意味もなさない、気もする。
「お前はやはり、人間臭いな。……こんな間抜けな猫は聞いたことも見たこともない」
うう、バカ猫の次はマヌケですか。
ダーリンったら手厳しい……
声をだすと、まだぐわんぐわんしている頭に響きそうなので、とりあえず尻尾を降って返事する。
「それに、警戒心もない。秘境の民の獣人ならば、もっと慎重だろう」
……面目ないです、はい。
「レディ」
よく透るダーリンの低い声に、あたしの背筋が自然と伸びる。
深い深い漆黒の瞳が、探るように静かに光を湛える。ダーリンの瞳は真っ黒だが、唯一光の反射で煌めく一部分が更に闇の深さを強調する。
あまりの深さにあたしは溺れてしまいそうだ。
「お前は、元は人だな」
疑問では無く、確信に満ちた声音にあたしは目を見開く。
イヤだ、違う。
「にゃぁぁぁ!」
違う、違う、
「ぅにゃぁぁああ!」
あたしは、違う!
「ふんにゃぁぁぁあああ!」
「レディ、レディ! 大丈夫だ、……すまない」
頭を振って必死に否定するあたしを、ダーリンは胸に抱えて落ち着くように背中をゆっくり何度も撫でる。
ゴロゴロ。……どんなときでもダーリンの抱擁は嬉しいのです。
ダーリンの不意討ち質問に、思わず取り乱してしまった。
『ごめんね』の意味を込めてダーリンの頬を目指して擦り擦りする。半分以上はあたしがしたいからだ。にゃんにゃん、擦り擦り、ゴロゴロ。
あたしが落ち着いてきたのを見計らってダーリンが口を開く。
またもや不意討ち、衝撃発言に再びあたしは取り乱すのだった。
「しばらく、留守にする。いい子で留守番できるな」
なんですって、いやだにゃーーん!