プロローグ
それは、本当に些細な心境の変化だった。
散歩に出よう。
突然思い立ったら、どうしても出たくなってしまい、実行した。
敢えて理由をあげるのならば、留守の間に山のように積み上げられた書類や問題から逃げたかったのかも知れない。
ただ少し、外の空気を吸いに行きたかった。
空に一面に広がる曇天は、鬱々とした今の心境を見事に現していた。
かさり…、と音を立てた生き物の気配に目を向けて、信じられないものを見た気分になり目を見開く。
鬱蒼と茂る赤茶の植物の隙間からこちらを伺っていたのは、灰色と不可思議な黒い斑が入った毛並み。ピンと天を向く耳と尻尾。
珍しい、猫だ。
猫はこちらを伺うように木々の隙間から顔を覗かせ、そのまま氷漬いたように微動だにしない。
一見どこにでもいるような野良猫だが、特別に目を惹いたのは、その瞳だ。
日の光をたっぷりと浴びた葉のような緑色。
妙に心惹かれるその色を見詰めていると、途端、猫は弾かれたようにこちらへと駆け寄る。
足に軽い衝撃。
「にゃあん、にゃあん」
ぶつかるように足へと擦り寄ってきた。
何か懇願するように鳴きながら再び全身で足に擦り寄る。そして印象的なあの緑の瞳で見上げてきた。
恐らく地上界の猫だ。
随分と人懐っこいこの猫は、誤って空間の歪みに落ちてしまったのだろう。
良く見ると猫は全身至るところに怪我を負っていた。模様だと思った斑は血が乾燥し赤黒く固まってるものだったのだ。
地上に比べて、魔界の獣は血に飢えたものが多い。大型の猛獣や魔獣の類いならばまだしも、脆弱な魔力しか感じられない猫が今このときまで生き逃れたのは奇跡に等しい。
だからこそ、滑稽だ。
数々の手傷を負わせた血に飢えた獣よりも、比べ物にならない危険な存在がすぐ傍にいるというのに。
何の躊躇いもなく、猫がひたすら懸命に足に擦り寄る自分こそが、この魔界の頂点に君臨する王であるというのに。
この様は一体何だ?
隠しもしていない自分の内に存在する強大な魔力を感じられないのだろうか?
このまま猫を放置すれば、間違いなく数刻もしないうちに死んでしまうだろう。
手負いの猫が生き残れるほど、この世界はそれほど甘くはない。
―――だが、
あの緑の目の光が見れなくなるのは、余りにも惜しい。
そんな考えが浮かんだ自分に驚く。
戸惑いを覚えながらも、擦り寄る猫に手を伸ばすと、遠慮がちに顔を寄せてきた。それに答えて猫の頬を撫でる。すると猫は、大胆に甘えるように顔を擦り付ける。
抱き上げれば、か細く何度も鳴いて頬を舐める。
ザラリとした感触。
決して不快ではない感情が胸に渦巻いた。
「にー……」
やがて猫はゴロゴロと喉を鳴らし甘えるように一鳴きし、顔を抱き寄せた胸に擦り付け、そのままぐったりと目を閉じた。