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透明になる前に、手をつないだ

作者: 星恋
掲載日:2026/05/10

言葉にしなくても伝わってしまうことがある。

触れそうで触れない距離が、いちばん正直に心を暴いてしまうこともある。


これは、放課後の美術室という小さな世界で、

まだ名前のついていない気持ちが少しずつ形を持ちはじめる話。

放課後の美術室は、光だけがやけに正直だった。


カーテンの隙間から落ちる夕方の光が、机の上の絵の具をゆっくりと溶かしていく。

赤も青も、乾きかけた色たちが、光の中でだけ少しだけやわらかく見えた。


この時間が好きだった。


誰の声もしないのに、ちゃんと世界が生きている気がするから。


「まだ残ってたんだ」


振り向くと、彼女が立っていた。


白いシャツの袖を少しだけまくっていて、手には何も持っていない。

ただ、そこに来ただけの人みたいに自然で、だからこそ少しだけ現実感が薄い。


「うん。もう少しだけ」


「そっか」


それだけ言って、彼女は当然みたいに隣の椅子に座る。


近いのに、触れない距離。

でも最近、その距離がいちばん落ち着く。


沈黙が怖くない相手がいるというのは、思っていたより大きなことだった。


キャンバスの上には、まだ途中の風景。


空を描いているつもりなのに、筆を置くたびに、彼女の気配が色の隙間に混ざっていく。

気づけば、空の色は少しだけやさしくなっていた。


「この絵さ」


彼女が小さく指を伸ばす。


「空、優しいね」


「そう?」


「うん。怒ってない空って感じ」


怒っていない空。


その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。


怒っていない空は、誰かに見せてもいい空。

そんな気がした。


「ねえ」


彼女がスケッチブックを閉じる音が、やけに近く響く。


「ここってさ、静かすぎて怖くなるときない?」


「あるかも」


「でも嫌いじゃないでしょ?」


「……うん」


即答できなかったのは、正確に当たっていたからだ。


静かすぎる場所は、ときどき自分の心の音が大きくなりすぎる。

でも彼女がいると、その音は少しだけ形を変える。


うるささではなく、ただの“存在”になる。


「じゃあさ」


彼女が少しだけ笑う。


その笑い方は、何かを試す前の顔だった。


「もしこのまま、私たちだけ透明になったらどうする?」


「透明?」


「うん。誰にも見えなくなるやつ」


想像してみる。


この部屋に自分ひとりだけ残っていて、彼女の気配だけが消えている光景。

それは静かというより、空白だった。


でも本当に怖かったのは、その逆だった。


彼女だけが消えてしまうこと。


「嫌だ」


思ったより早く、言葉が出ていた。


「なんで?」


彼女がこちらを見る。


視線がまっすぐで、逃げ場がないのに、不思議と嫌じゃない。


「……見えなくなるの、嫌だから」


理由になっていない理由だった。

でもそれ以上の説明は、まだ自分の中にもなかった。


彼女は少しだけ黙って、それから小さく息を吐く。


「そっか」


その一言だけで、空気の温度が少しだけ変わる。


怒っていないのに、確かに何かが動いた気がした。


彼女は椅子から立ち上がる。


ゆっくりと机の端へ寄って、キャンバスの前に立つ。


「じゃあさ」


声が少しだけ軽くなる。


でも軽さの奥に、逃げない重さがあった。


「透明になる前に、ひとつだけしとこうか」


「なにを?」


返事より先に、彼女の手が伸びる。


ためらいもなく、でも急ぎもしない指先。


そのまま、ほんの少しだけ触れた。


指と指が、世界の境目みたいに重なる。


それだけで、美術室の輪郭がはっきりする。

音も光も、急に“そこにあるもの”として意識される。


「……手、つないでみる」


声は小さいのに、やけに確かだった。


拒む理由は、最初からどこにもなかった。


ゆっくり指を絡めると、さっきまでの距離が嘘みたいに消える。


代わりに残るのは、少しだけ速くなる自分の呼吸。


「これで透明になっても大丈夫?」


彼女が少し笑う。


「たぶん無理」


「なんで?」


「見えなくなっても、絶対気づくから」


「どうして?」


「手、覚えてると思う」


その言葉で、彼女が一瞬だけ目を細める。


夕方の光が傾く。


キャンバスの空に、影がゆっくり伸びていく。


でも不思議と、暗くなっているのに怖くなかった。

むしろ、少しだけ完成に近づいている気がした。


「ねえ」


彼女がぽつりと言う。


「このままさ、帰る時間遅くなったらどうする?」


「怒られる」


「だよね」


「でも」


少し間を置いて、続ける。


「もう少しここにいたい」


彼女は何も言わない。


ただ、手を離さなかった。


その沈黙が、答えだった。


美術室の静けさは変わらない。

でもその中に、ひとつだけ増えた音がある。


つないだ手の、確かな気配。


キャンバスの空はもう途中じゃない。

誰かと並んで見上げる前提で描かれた、ひとつの景色になっていた。

百合って、「好き」と言う前にもう全部バレてる時間がいちばん綺麗だと思う!

触れた瞬間に関係が変わるのに、言葉だけがまだ追いつかない感じ。

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