第4話「暗室の二人きり」
晴れて写真サークル「プリズム」の部員となった湊。
だが、入部したからといってすぐに蓮との距離が縮まるわけではなかった。
蓮は相変わらず無愛想で、部室にいてもイヤホンをして編集作業に没頭していることが多い。
湊は他の先輩たちにカメラの基本を教わりながら、遠巻きに蓮を観察する日々が続いていた。
そんなある日。
湊は暗室での作業を任されることになった。
フィルムカメラで撮影した写真を現像する体験だ。
デジタル全盛の時代にあえてフィルムを使うのが、このサークルのこだわりの一つらしい。
「赤いランプだけつけて、絶対にドアを開けないでね」
先輩の指示通り、湊は狭い暗室の中で作業を始めた。
独特の薬品の匂いが充満している。
静寂と暗闇。赤いセーフライトの光だけが、ぼんやりと手元を照らす。
不思議と落ち着く空間だった。
手順通りに印画紙を現像液に浸し、トングで揺らす。
白い紙の上に、じわじわと黒い像が浮かび上がってくる瞬間は、何度見ても魔法のようだ。
「お、うまくできてる……」
そうつぶやいたその時。
ガチャリ、とドアノブが回る音がした。
「わっ、開けちゃダメです!」
湊が叫ぶより早く、人影が入ってきて、素早くドアを閉めた。
一瞬入った光に目がくらむが、幸い印画紙は定着液の中だったので感光は免れたようだ。
「……あ、如月さん」
入ってきたのは蓮だった。
彼は手にネガのファイルを持っていて、湊がいることに気づいて少し驚いたようだった。
「お前か。……邪魔だったか」
「いえ! 全然。今ちょうど一枚終わったところです」
蓮は「そうか」と短く言うと、慣れた手つきで自分の作業を始めた。
狭い暗室に男二人。
距離が近い。
蓮が動くたびに、服が擦れる音や、微かな吐息が聞こえる。
薬品の匂いに混じって、蓮のつけている香水の香りが漂ってくる。
ムスク系の、落ち着いた大人の香りだ。
湊は緊張で手元がおぼつかなくなりかけた。
何を話せばいいのだろう。
沈黙が重い。
「……その構え方、変だぞ」
不意に蓮が言った。
見ると、湊のトングの持ち方がぎこちなかったらしい。
「あ、すみません。なんか難しくて」
「貸してみろ」
蓮が湊の隣に来る。
背中合わせではなく、横並び。
肩と肩が触れそうな距離だ。
蓮の手が伸びてきて、湊の手の上からトングを握った。
「っ……」
大きな手だった。
そして、体温が高い。
冷たい印象のある彼だが、触れた体温は驚くほど熱かった。
「手首を使うな。肘で揺らすんだ。こうやって」
蓮は湊の手を包み込んだまま、ゆっくりとトングを動かした。
現像液が静かに波紋を描く。
チャプ、チャプという水音だけが響く。
湊の心臓は破裂しそうだった。
近い。近すぎる。
蓮の顔がすぐそこにあって、長いまつげの影まで見える。
赤い光に照らされた蓮の横顔は、妖艶で、どこか非現実的な美しさがあった。
「……分かったか」
「は、はい……」
蓮が手を離そうとした時、ふと彼の視線が湊の顔で止まった。
「お前、顔赤いぞ」
「えっ! い、いや、これは赤いライトのせいで……」
湊は慌てて言い訳をするが、蓮はじっと湊を見つめたままだ。
暗がりの中、その瞳が熱を帯びているように見えるのは気のせいだろうか。
「……そうか」
蓮はふっと視線を外し、自分の作業に戻った。
だが、その耳が赤くなっているのを、湊は見逃さなかった。
もしかして、彼も意識しているのだろうか。
「あの、如月さん」
「なんだ」
「写真、教えてください。もっとうまくなりたいんです。如月さんみたいに」
その言葉は、媚びでもお世辞でもなく、湊の本心だった。
蓮が撮るような、人の心に触れる写真が撮りたい。
そして何より、この人ともっと関わりたい。
蓮の手が止まる。
彼はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……俺みたいになんてなるな」
「え?」
「俺は、撮ることでしか人と関われない。……お前は、もっと自由に撮ればいい」
その声には、微かな自嘲が含まれていた。
天才と呼ばれ、孤高を貫いているように見える彼も、何か悩みや孤独を抱えているのだろうか。
「俺は、如月さんの写真が好きです」
湊は真っ直ぐに言った。
暗闇だからこそ言える、素直な言葉。
「技術とか分からないけど、見てると胸がぎゅっとなるんです。だから、俺は好きです」
蓮がバッとこちらを見た。
驚いたような、何かを耐えるような顔をしている。
「……お前、そういうことを軽々しく言うな」
「軽々しくないです! 本気です」
「……っ」
蓮は手で顔を覆った。
長い沈黙の後、くぐもった声が聞こえた。
「……分かった。時間は作る。その代わり、泣き言は言うなよ」
「はい! ありがとうございます!」
湊が嬉しそうに答えると、蓮はボソッとつぶやいた。
「……調子狂う」
その声は優しく、暗室の空気は先ほどよりも甘く感じられた。
現像液の中に浮かび上がった写真は、まだ輪郭がぼやけていたが、二人の関係は確実に、少しずつピントが合い始めていた。




