第3話「ピントが合わない世界」
勢いでタンカを切ったものの、湊は途方に暮れていた。
借りてきたカメラは想像以上に高機能で、ダイヤルやボタンの数が多すぎる。
部長の佐伯が親切にもマニュアルと基本的な使い方のメモをくれたおかげで、なんとか電源の入れ方とシャッターの切り方は分かったが、それだけだ。
「『これだ』と思うもの、か……」
大学の帰り道、湊は首から下げたカメラの重みを感じながらつぶやいた。
一週間という期限は短いようで長い。
課題のレポートもあるし、バイトもある。
その合間を縫って、あの「如月蓮」を唸らせるような写真を撮らなければならない。
無理ゲーすぎる。
冷静になってみると、自分の無謀さに頭を抱えたくなった。
とりあえず、目につくものを片っ端から撮ってみることにした。
道端の花、ショーウィンドウに映る街並み、夕焼けの空。
カシャッ、カシャッという音は心地よいが、液晶画面に映し出される画像はどれも平凡で、どこかで見たことのあるような構図ばかりだった。
『自分を持ってない人間に、いい写真は撮れない』
蓮の言葉が呪いのようにリフレインする。
確かにそうかもしれない。
自分は何が好きなのか。何に心を動かされるのか。
周囲に合わせて「いいね」と言ってきた湊には、自分自身の「好き」という感覚が希薄だった。
三日が過ぎた。
SDカードの中には数百枚の写真が保存されていたが、どれ一つとして湊の心を震わせるものはなかった。
焦りを感じ始めたある日の夕方。
湊は気分転換に、大学近くの河川敷を歩いていた。
土手には散歩をする老人や、部活帰りの高校生たちがいる。
オレンジ色の夕陽が川面を染め、世界全体が琥珀色に輝くマジックアワー。
「綺麗だな……」
カメラを構える。
ファインダーを覗くと、世界が四角く切り取られる。
その枠の中に、一人の男の姿が入ってきた。
川辺のベンチに座り、何かをじっと見つめている男。
黒いパーカーを着て、猫背気味に座っている。
「あれ、如月さん……?」
間違いない。蓮だった。
彼はカメラを持っていなかった。ただ、ぼんやりと川の方を見ている。
普段の威圧的な雰囲気はなく、どこか寂しげで、無防備な横顔だった。
彼が見ている先には、二匹の猫がじゃれ合っていた。
蓮はポケットから何かを取り出し、そっと差し出す。
猫用のおやつだ。
警戒心の強そうな猫たちが、蓮の手から恐る恐るおやつを食べる。
その瞬間。
蓮の表情がふわりと緩んだ。
「え……」
湊は息を呑んだ。
見たことのない表情だった。
眉間のしわが消え、口元に穏やかな笑みが浮かんでいる。
あの氷のような瞳が、今は陽だまりのように温かい色を帯びていた。
まるで、迷子が安住の地を見つけたような、そんな無垢な笑顔。
ドキリと、心臓が大きく跳ねた。
「怖い人」というレッテルが、音を立てて崩れ落ちていく。
指が勝手に動いた。
構図も露出も何も考えていない。
ただ、その瞬間を逃してはいけないと本能が叫んだ。
カシャッ。
静寂の中に、シャッター音が大きく響いた。
蓮が驚いたようにこちらを振り向く。
笑顔は瞬時に消え、いつもの険しい表情に戻る。
だが、耳が少し赤くなっているのが見えた。
「……お前、何してる」
低い声だが、以前のような冷たさは感じられない。
どこか気まずそうだ。
「す、すみません! 盗撮するつもりじゃなくて、その……」
湊は慌ててカメラを下ろした。
怒られると思ったが、蓮は深くため息をついただけだった。
「ストーカーかよ」
「違いますって! たまたま通りかかったら、如月さんがいたから」
湊は恐る恐る蓮に近づいた。
猫たちは湊の足音に驚いて逃げてしまった。
「あ、猫……ごめんなさい」
「いい。もう食い終わってた」
蓮はベンチに座り直すと、空いたスペースを少し開けたような気がした。
座れということだろうか。
湊は少し迷ってから、距離を置いて隣に腰を下ろした。
沈黙が流れる。
だが、不思議と居心地の悪さはなかった。
川のせせらぎと、遠くで走る電車の音が聞こえるだけ。
「……写真、撮れたのか」
唐突に蓮が口を開いた。
視線は川面に向けられたままだ。
「いえ、全然。何が正解なのか分からなくて」
素直に答えると、蓮は鼻を鳴らした。
「正解なんてない。お前が何を感じたか、それだけだ」
「感じたこと……」
「綺麗だとか、汚いとか、悲しいとか。感情が乗ってない写真は、ただの記録だ」
蓮の言葉は厳しいが、真理をついているように思えた。
そして、その言葉の裏に、彼自身の写真に対する真摯な姿勢が見え隠れする。
「如月さんは、猫が好きなんですね」
「……別に」
「嘘だ。すごく優しい顔してましたよ」
「……うるさい」
蓮はそっぽを向いてしまったが、その反応がなんだか人間臭くて、湊はおかしくなった。
怖いと思っていた人が、急に身近に感じられる。
ギャップ萌え、というやつだろうか。いや、男相手に萌えてどうする。
ふと、湊はカメラの再生ボタンを押した。
先ほど撮った写真が液晶に映し出される。
夕陽をバックに、猫に微笑みかける蓮の横顔。
ピントは少し甘いし、露出も合っていない。
技術的には失敗作だろう。
けれど。
そこには、湊が初めて「撮りたい」と思った感情が確かに映っていた。
この人の、この隠された優しさを誰にも知られたくないような、でも誰かに伝えたいような、複雑な独占欲にも似た感情。
「……これ」
湊は意を決して、液晶画面を蓮に見せた。
「俺が撮りたかったの、これかもしれません」
蓮が画面を覗き込む。
数秒の沈黙。
湊は緊張で唾を飲み込んだ。
「下手くそ」「くだらない」と一蹴されるのを覚悟していた。
しかし、蓮は何も言わずにじっと画面を見つめていた。
そして、小さくつぶやいた。
「……悪くない」
「え?」
「技術は最悪だ。ブレてるし、構図も甘い。素人丸出しだ」
蓮は顔を上げ、湊を真っ直ぐに見た。
その瞳には、今までとは違う、認めるような色が宿っていた。
「だが、お前が何を撮りたかったかは伝わる。……合格だ」
「ほんと、ですか……!?」
湊の顔がパッと輝いた。
作り笑顔ではない、心からの喜びが溢れ出した。
その笑顔を見た瞬間、蓮がわずかに目を丸くし、それからすぐに手で口元を覆って視線を逸らした。
「……早く行け。暗くなる」
「はい! ありがとうございます!」
湊は立ち上がり、何度も頭を下げてその場を後にした。
足取りが軽い。
世界が少しだけ鮮やかに見えた。
背後で、蓮が耳まで真っ赤にしてうずくまっていることには、気づかないまま。
***
(なんだ今の……)
一人残された蓮は、自分の胸を押さえていた。
心臓がありえない速度で脈打っている。
ファインダー越しではない、生身の湊に向けられた無防備な笑顔。
それが、脳裏に焼き付いて離れない。
「……調子狂うな」
蓮は深いため息をつくと、空を見上げた。
一番星が光り始めていた。




