第2話「部室の空気と被写体の条件」
一度意識してしまうと、人間というのは不思議なもので、その姿を無意識に探してしまうらしい。
キャンパス内でカメラを首から下げた学生を見るたび、湊の目は如月蓮の姿を追っていた。
しかし、あの長身で目つきの悪い男は、そう簡単に見つかるものではなかった。
数日後。
湊はなぜか、写真サークル「プリズム」の部室の前に立っていた。
友人に付き添いを頼まれたからだ。
「気になる子が入るかもしれないから、一緒に行ってくれ」という、よくあるダシに使われたわけだが、湊自身も断る理由がなかった。
いや、心のどこかで、あの男にもう一度会って確かめたいという気持ちがあったのかもしれない。
「失礼しまーす……」
恐る恐る扉を開けると、現像液特有の酸っぱいような匂いと、コーヒーの香りが混ざり合った空気が流れ出してきた。
部室は意外と広く、壁一面に大小様々な写真が飾られている。
風景、ポートレート、抽象的な光の軌跡。
どれもレベルが高く、素人の湊が見ても美しいと感じるものばかりだった。
「お、新入部員希望か?」
声をかけてきたのは、人の良さそうな丸眼鏡の先輩だった。
部長の佐伯だと名乗る彼は、友人の質問に丁寧に答えている。
湊はその間、手持ち無沙汰に壁の写真を眺めていた。
不意に、一枚の写真に目が留まった。
それは、モノクロで撮られた雨上がりの路地の写真だった。
水たまりに反射したネオンサインと、そこを横切る野良猫の後ろ姿。
派手な色はないのに、湿度や空気の冷たさ、そしてどこか切ないような孤独感が、強烈に伝わってくる。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
この写真からは、撮り手の感情が直接流れ込んでくるようだ。
静かで、寂しくて、でも優しい視線。
「見る目あるね、君」
背後から声がして、湊は振り返った。
そこには、いつの間にか部長の佐伯の隣に立っている男がいた。
少しボサボサの黒髪に、黒縁の眼鏡。そして不機嫌そうな目つき。
「あ……」
如月蓮だった。
彼は湊を見ると、わずかに眉を寄せた。
「お前、こないだの」
「あ、どうも……」
気まずい。
前回、「気持ち悪い」と言われた相手だ。どんな顔をすればいいのか分からない。
だが、蓮は湊のことなどどうでもいいとばかりに、視線を彼が見ていた写真へと移した。
「それ、俺が撮ったやつだ」
「えっ」
湊は驚いて、もう一度写真と蓮を見比べた。
あの冷徹な男が、こんなに情緒的な写真を撮るのか。
写真の中の世界は、彼が普段纏っている刺々しい空気とは真逆の、繊細な優しさに満ちていた。
「へえ、君が興味持ったのって蓮の写真だったんだ」
佐伯が面白そうに笑う。
「蓮の写真は技術もすごいけど、何より『被写体への愛』が重いって言われててさ。普段はこんなんだけど、ファインダー覗くと人が変わるんだよね」
「おい、佐伯。余計なこと言うな」
蓮が低い声で威嚇するが、佐伯は慣れた様子でかわす。
愛が重い? この人が?
湊の中で、如月蓮という人物の像が少しだけブレた。
「君、名前は?」
佐伯に聞かれ、湊は慌てて名乗る。
「経済学部二年の、東雲湊です」
「湊くんか。どう? 君も入ってみない? カメラ持ってなくても貸出機あるし」
「え、いや俺は……」
断ろうとした瞬間、蓮が口を開いた。
「やめとけ」
冷たい一言が、場の空気を凍らせた。
「こいつは無理だ。写真に向いてない」
「ちょっと蓮、それどういう意味だよ」
佐伯がたしなめるが、蓮は湊を真っ直ぐに見据えて言った。
「自分を持ってない人間に、いい写真は撮れない。カメラは嘘を映さないからな」
まただ。
また、この男は湊の痛いところを的確にえぐってくる。
初対面のときはショックで何も言えなかった。
でも、今日は違う。
理由の分からない怒りと、悔しさがこみ上げてきた。
何も知らないくせに。
たった数分話しただけで、俺の何が分かるんだ。
湊は拳を握りしめ、気がつけば蓮を睨み返していた。
いつもの愛想笑いは、どこかへ消え失せていた。
「……やってみなきゃ、分からないじゃないですか」
震える声で、けれどはっきりと反論した。
「俺だって、何かを見つけたくてここに来たのかもしれない。あんたに決めつけられる筋合いはないです」
部室内がシンと静まり返る。
友人が心配そうに湊の袖を引くが、湊の視線は蓮から外れなかった。
蓮は少しだけ目を見開き、それからふんと鼻を鳴らした。
「……威勢だけはいいな」
蓮は棚に並んでいたサークル貸出用の一眼レフを手に取ると、乱暴に湊の方へ差し出した。
「なら証明してみろ。一週間後、俺が認めるような写真を一枚でも撮ってきたら、入部を認めてやる」
「えっ、蓮、勝手なこと……」
「いいですよ、受けて立ちます」
湊は反射的にカメラを受け取っていた。
ずしりと重いその感触が、手のひらに沈み込む。
「条件は?」
「何でもいい。お前が『これだ』と思うものを撮ってこい」
蓮はそう言うと、興味を失ったように自分の作業デスクへと戻っていった。
こうして、写真のことなど何も知らない素人の湊と、絶対零度のエース・蓮との、奇妙な勝負が始まったのだった。
これが、湊の人生を大きく変えるシャッターチャンスになるとは、この時の彼はまだ知る由もなかった。




