第1話「ファインダー越しの初対面」
【登場人物紹介】
◆東雲湊
大学二年生(20歳)。経済学部。
人当たりが良く、常にニコニコしているが、それは本音を隠すための仮面。本当は自分の価値を見出せずにいる。
蓮の写真に心を奪われ、彼だけに見せる「本当の表情」を引き出されていく。
◆如月蓮
大学三年生(21歳)。芸術学部写真学科。
写真サークル「プリズム」のエースだが、口数が少なく目つきが悪いため、周囲から怖がられている。
実は極度の不器用で、心を許した相手にはとことん甘い一面を持つ。猫が好き。
大学のキャンパスは、春特有の浮かれた空気に包まれていた。
桜はとっくに散っているというのに、新入生を勧誘するサークルの呼び込みの声が、ピンク色のノイズとなって構内に満ちている。
東雲湊は、その喧騒から逃げるようにして、キャンパスの裏手にある旧校舎の階段に座り込んでいた。
「はあ……疲れた」
大きく息を吐き出し、膝に顔を埋める。
大学二年生になった湊だが、新歓の時期はどうにも苦手だった。
無理に作った笑顔の筋肉がピクピクと痙攣している気がする。
別に友達がいないわけではない。講義に出れば話す相手もいるし、飲み会に誘われれば断らない。
「ノリがいい」「いつも笑ってる」
それが湊に対する周囲の評価だ。
けれど、本当の自分はどこにもいないような気がして、ふとした瞬間に猛烈な虚無感に襲われることがあった。
今日もそうだった。
楽しげな輪の中にいることに耐えられなくなって、気がつけば人のいない場所を探していたのだ。
風が吹いて、頭上の木々がざわめく。
木漏れ日がちらちらと視界を揺らしたとき、不意に機械的な音が響いた。
カシャッ。
乾いたシャッター音。
湊は弾かれたように顔を上げた。
そこには、一人の男が立っていた。
旧校舎のレンガ壁に背を預け、黒い一眼レフカメラを構えている。
逆光で表情はよく見えないが、長めの前髪が風に揺れているのが分かった。
背が高い。細身だが、カメラを持つ腕にはしっかりとした筋肉がついている。
「え、あの……」
湊が声をかけようとすると、男がゆっくりとカメラを下ろした。
レンズの奥にあった瞳と目が合う。
鋭い、射抜くような視線だった。
切れ長の目はどこか不機嫌そうで、湊を見ているようでいて、もっと奥の何かを見透かしているようにも感じる。
「邪魔したか」
低く、けれど心地よく響く声だった。
男は謝罪の言葉を口にしながらも、その表情には一切の愛想がない。
むしろ、勝手にフレームインしてきたのはお前だと言わんばかりの威圧感がある。
「い、いえ! 俺が勝手にここにいただけなんで。あの、今の音……」
「猫だ」
「はい?」
「猫を撮ってた。お前が動いたから逃げた」
男は淡々と告げ、顎で階段の隅をしゃくった。
見ると、そこには茶色い野良猫がしっぽを揺らして茂みへと消えていくところだった。
どうやら自分は、決定的瞬間を邪魔してしまったらしい。
「す、すみません! 気づかなくて」
「別にいい。また来ればいいだけの話だ」
男はカメラのストラップを肩にかけ直すと、湊の方へと歩み寄ってきた。
近づくにつれて、その整った顔立ちがはっきりと分かる。
ただ、眉間には深いしわが刻まれていて、明らかに機嫌が悪そうだった。
湊は思わず身を固くする。
怒られるのだろうか。それとも因縁をつけられるのか。
反射的に、いつもの処世術である「愛想笑い」を浮かべようとした。
「あの、本当にごめんなさ――」
「笑うな」
冷や水を浴びせられたように、言葉が止まった。
男は湊の目の前で足を止め、じっと顔をのぞき込んでいる。
その瞳には、侮蔑も怒りもなかった。
ただ純粋に、何かを観察するような冷徹な光だけがあった。
「無理して笑うな。見てて気持ち悪い」
「え……」
湊の顔から血の気が引いた。
今まで誰にも言われたことのない言葉。
みんな、湊の笑顔を「感じがいい」と褒めてくれた。
それが作り物だと気づく人なんていなかったのに。
この男は、初対面で、しかもたった数秒で、湊の仮面を見抜いてしまった。
「あ……」
何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。
図星を突かれた動揺と、あまりにも遠慮のない物言いに、喉が張り付いたようになった。
男はそんな湊の反応など気にする様子もなく、ふいっと視線を逸らした。
「邪魔して悪かったな」
それだけ言い残して、男は旧校舎の角を曲がって去っていった。
残された湊は、呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
心臓が早鐘を打っている。
怒りではない。恐怖でもない。
ただ、見透かされたという衝撃が、体中を駆け巡っていた。
「……なんなんだよ、あいつ」
つぶやいた声は、自分が思っている以上に震えていた。
その日の午後。
湊は講義の空き時間に、友人に今の出来事を話していた。
もちろん、「気持ち悪い」と言われた部分は伏せて、「変な人に会った」という程度に。
「ああ、それって絶対、如月蓮だよ」
友人はポテトを口に運びながら、事も無げに言った。
「キサラギ……レン?」
「そ。芸術学部の三年生。写真サークル『プリズム』のエースなんだけどさ、超変わり者で有名なんだよ。通称『絶対零度の王様』」
「王様って……」
中二病のようなあだ名に、湊は苦笑する。
だが、あの冷たい視線を思い出せば、あながち間違っていないようにも思えた。
「写真はすごいらしいけど、性格が最悪って噂。気に入らない部員を何人も辞めさせたとか、モデルに暴言吐いて泣かせたとか」
友人の話を聞きながら、湊は無意識に自分の頬に触れた。
『無理して笑うな』
あの低い声が、まだ耳に残っている。
最悪な出会いだった。二度と関わりたくない。
そう思うはずなのに、なぜか湊の胸のざわめきは収まらなかった。
カメラを構えていた彼の姿が、レンズの奥から向けられたあの冷たい視線が、脳裏に焼き付いて離れない。
「写真サークル……か」
湊は窓の外、彼が消えていった旧校舎の方角をぼんやりと見つめた。
自分の中に、小さなひび割れが生じたような気がした。




