第三章:孤島の女たち
気がつくと私は青い空の下に横たわっていた。全身に打撲傷はあるが骨折はない。頸椎も無事だ。人間の身体は意外に頑丈にできている。
フランは息をしていなかった。胸部外傷による内出血。肋骨が肺を損傷したのだろう。彼女の手には六分儀がしっかりと握られていた。最後まで星々の位置を計算し続けていたのだ。
彼女の顔は安らかだった。死という最後の瞬間にも美しさを保っている。口紅は落ちているが、自然な血色が頬に残る。これが女性の強さ——どんな状況でも尊厳を失わない意志の力。
私は彼女のブレスレットを外し自分の手首に巻いた。フィリグリー細工の繊細な模様が私の肌に触れる。これで彼女の一部が私と共に生き続ける。女性同士の絆——血縁ではなく選択による姉妹関係。
エレクトラは無残な残骸と化していた。左翼は完全に折れ胴体にも亀裂が走っている。無線機は破損し外部との通信手段は絶たれた。
だが機体から使えるものを回収した。まず化粧品類。口紅は太陽光から唇を保護し、ファンデーションは紫外線を反射する。コンパクトの鏡はシグナルミラーとして使える。女性の化粧道具は実は優秀なサバイバルツールでもある。
フランの愛用していたラベンダーの香水瓶も無事だった。アルコール分が高いので消毒薬として使える。そして何より香りが心を落ち着かせる。嗅覚は脳の辺縁系に直結し、記憶と感情を呼び起こす。彼女の香りが私に勇気をくれる。
私はフランの遺体を砂に埋葬した。六分儀も一緒に。彼女は星に最も近い場所で眠るべきだ。
墓標代わりに彼女の髪留めを挿した。べっ甲製の美しい細工が施されたもの。これも女性らしさの象徴。実用性と美しさを兼ね備えた工芸品。
***
島の探索を始めた。全長約3キロメートル、最大幅800メートルの珊瑚礁。植生は乏しくココナッツヤシが数本と海草類が僅かに自生するのみ。淡水源は雨水に頼るしかない。
だが私は絶望しなかった。サバイバルの基本は「住居・水・食料・火」の確保。そして最も重要なのは「生きる意志」だ。
住居:エレクトラの残骸を利用して風雨を凌ぐシェルターを構築。アルミニウム製の外板は腐食に強く長期間の使用に耐える。
水:雨水を機体の凹みに溜め蒸留により塩分を除去。太陽熱を利用した単純な蒸留装置を製作。
食料:珊瑚礁周辺の魚類、海藻、貝類。釣り針は機体の金属部品から製作。
火:マグネシウム製の部品と火打ち石で着火。燃料は乾燥したココナッツの殻。
私は生き延びるための計算を続けた。人間の基礎代謝は1日約1200キロカロリー。魚100グラムで約200キロカロリー。つまり1日600グラムの魚を確保すれば理論上は生存可能。
だがこれは単なる生存ではない。私は初めて本当に自由になったのだ。誰の期待からも誰の物語からも。
夜になると私はフランのブレスレットを眺めた。月明かりに照らされた細工の美しさ。彼女が生前愛したものを身につけることで、孤独感が和らぐ。これも女性特有の感情——物に込められた記憶を大切にする心。
私は毎日髪を梳かすことを欠かさなかった。エレクトラから回収した小さな櫛で。髪を整えることは文明との繋がりを保つ行為。野生に戻らないための意志表示。ココ・シャネルが「髪は女の命」と言ったように、それは尊厳を保つ最後の砦。
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世界は私の死を報じるだろう。「太平洋で消息を絶った悲劇のヒロイン」として。私の伝説は完成しアメリア・イアハートという名前は永遠に空と結び付けられる。
それでいい。
私はここで一人で生きている。潮の満ち引きを観察し月の位置を記録し季節の変化を肌で感じている。これは驚くほど静かで満たされた日々だった。
島の周囲には時折銀色の機体が飛んでいくのが見える。捜索隊だろう。私は手を振らない。煙を上げることもしない。ただ黙って見送るだけだ。
私の物語は終わった。だが私の人生は続いている。
フランのラベンダーの香水を一滴だけ手首に付ける。彼女の記憶を呼び起こすための儀式。女性同士の友情は死を超えて続く。これも女性ならではの感情——失った人への想いを形にして表現する心。