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第一章:重力という名の牢獄

 その女は空に恋をしていた。


 私の名前はアメリア・イアハート。世間の人々は私を英雄と呼ぶ。大西洋を一人で越えた最初の女。だが私は英雄ではない。私はただ重力という名の見えない鎖から逃れたかっただけだ。


 朝の支度をしながら鏡を見つめる。口紅はエリザベス・アーデンの「ヴィクトリー・レッド」。戦時中でも女性らしさを失わないよう作られた深紅の色合いが、私の意志の強さを表現してくれる。ココ・シャネルが「口紅は女性の武器」と言ったように、私にとってそれは空への挑戦状でもあった。


 髪は短く刈り込み、男性用の飛行帽が似合うようにカットしている。だが女性らしい柔らかなウェーブを残すのを忘れない。マルセル・ウェーブの技法で、ほんの少しだけ流れを作る。これは私なりの美学だった。空を征服する女でありながら、決して女性らしさを捨てない。


 地上の9.8メートル毎秒毎秒という加速度が私の魂を縛り付ける。ニュートンの万有引力の法則——質量を持つ物体同士が互いに引き合う力。地球の質量5.972×10²⁴キログラムが、私という取るに足らない60キログラムの肉体を地表に押し付け続ける。


 だがコックピットの中だけが違う。高度3000メートルで重力の影響は地表の99.9%に過ぎない。微々たる差だが私には解放を意味する。プラット・アンド・ホイットニー社製ワスプエンジンの550馬力が生み出すプロペラの回転——毎分2250回転が空気を後方に押し出し、ニュートンの第三法則に従って機体を前進させる。


 「準備はいい、アメリア?」


 航法士のフランセス・ヌーナンが振り返る。彼女は元海軍の天文航法官で、六分儀を使った天測航法では右に出る者がいない。褐色の瞳には常に星図が映っているかのようだ。


 フランは美しい女性だった。知的で冷静、そして何より空への憧憬を共有できる数少ない同性。私たちは言葉少なに理解し合う。女性同士だからこそ分かる微細な感情の動き。心配する時の眉の僅かな寄せ方。安堵した時の肩の力の抜け方。男性には決して見せない、女性だけの繊細な表情の変化。


 フランの手首には祖母から受け継いだ細いゴールドのブレスレットが光っている。フィリグリー細工の繊細な模様は、アイルランドの伝統工芸。彼女にとってそれは故郷との絆であり、同時に女性としてのアイデンティティを保つお守りでもあった。


 「ええ、いつでも」


 私たちが目指すのは伝説ではない。ただあの水平線の向こう側だ。地球の円周約4万キロメートルを私の航跡でなぞる旅。ロッキード・エレクトラ10Eの双発エンジンと私たちの意志だけを頼りに。


***


 1937年7月、私たちは赤道上空を東へ向かっていた。


 アフリカのサハラ砂漠を越え——その900万平方キロメートルの砂の海で、私は地球の自転を肌で感じた。コリオリ効果により北半球では右に、南半球では左に偏向する風の流れ。これはガスパール=ギュスターヴ・ド・コリオリが1835年に数学的に証明した現象だ。


 インドのモンスーンを抜け——6月から9月にかけて南西から吹く季節風が、インド洋の水蒸気を陸地に運ぶ。ヒンドゥー教では風の神ヴァーユが人々に恵みをもたらすと信じられている。私たちもその恵みを受けながら東進した。


 アジアの喧騒の上を飛び——人口密度の高い都市上空で、私は人間という種の愚かしさを再認識した。地上では戦争の影が濃くなりつつある。だが空の上では全てが平和だ。


 フランは黙々と計算を続けている。太陽の南中時刻から経度を割り出し、北極星の高度から緯度を求める。クロノメーターが示す協定世界時と観測した天体の位置を照合し、地球上における私たちの正確な座標を算出する。


 彼女の計算用紙には美しい筆跡で数式が並んでいる。女性らしい丸みを帯びた文字だが、内容は高度に専門的だ。これこそが私の求める女性像——知性と美しさを両立させた存在。


 「次の燃料補給地点まであと847海里」


 フランの声は機械的だった。彼女の計算に間違いはない。だが私の直感が何かを察知していた。太平洋の広大さに対する本能的な恐怖。


 彼女が六分儀を調整する手つきには、ピアニストが鍵盤に触れる時のような優雅さがあった。技術と芸術の境界。科学と美の融合。女性が専門技術を極める時に現れる、独特の美しさ。


***


 そしてついに最後の海が来た。太平洋——地球表面の3分の1を占める1億6千万平方キロメートルの水の砂漠。フェルディナンド・マゼランが「平和な海(Mar Pacifico)」と名付けたが、それは皮肉としか思えない。


 私たちの次の目的地は地図上の針の先ほどの点——ハウランド島。北緯0度48分、西経176度38分。長さ2.6キロメートル、幅0.5キロメートルの珊瑚礁の島。アメリカ海軍が急造した滑走路がある。


 燃料は残り950リットル。エレクトラの燃料消費量は毎時150リットル。理論上は6時間20分の飛行が可能だが、これは無風状態での計算だ。実際には偏西風の影響で対地速度は大幅に低下する。


 気象データは最悪だった。低気圧が接近し雲高は300メートル以下。視界は1キロメートル未満。無線による方位測定も電離層の異常により困難な状況。


 フランが小さなコンパクトを取り出し、鏡で自分の顔を確認する。唇が乾いているのを気にして、リップクリームを塗り直す。極度の緊張状態でも女性としての身だしなみを忘れない。この小さな行為に私は彼女の強さを見た。


 「アメリア」フランの声に初めて不安の色が滲んだ。「天測不能。推測航法に頼るしかない」


 推測航法——Dead Reckoning。なんと不吉な名前だろう。既知の位置から速度と方位、経過時間を計算して現在位置を推定する方法。だが風向・風速の変化、コンパスの偏差、計器の誤差が累積し、誤差は時間と共に拡大する。


 私はフランの手を握った。細く繊細な指だが、六分儀を扱う時は驚くほど力強い。女性の手の美しさ——それは単なる外見ではなく、知性と技術が宿る道具としての美しさ。


***


 私たちは雲の中を飛んでいた。視界はゼロ。コックピット内は計器の微かな光だけが頼りだ。高度計が示すのは海抜900メートル。水銀気圧計による静圧とピトー管による動圧から算出された値。だが気圧の変化により実際の高度は±100メートルの誤差を含む可能性がある。


 無線からイタスカ号の声がノイズ混じりで聞こえてくる。周波数3105キロヘルツ、出力50ワットの短波無線機。電離層反射により理論上は数千キロメートルの通信が可能だが、太陽フレアの影響でしばしば通信障害が発生する。


 『エレクトラ、こちらイタスカ。現在位置を知らせ』


 「こちらエレクトラ。我々は線上を飛行中。方位157-337度。燃料残量低下」


 私は冷静に応答した。だが心臓は氷のように冷たくなっていた。アドレナリンが血管を収縮させ心拍数が上昇する。交感神経系の反応——生物が危機に直面した時の本能的反応。


 ジャイロコンパスが示す磁針路とフランが天測で求めた真針路に3度の誤差が生じていた。3度の誤差は1000海里の飛行で52海里のずれを意味する。ハウランド島の大きさを考えれば致命的な誤差だ。


 「フラン!計算を再確認して」


 だが振り返ると、フランは計器盤に突っ伏していた。過労と酸素不足で意識を失っている。高度900メートルでの酸素分圧は約90%。健康な人間なら問題ないが極度の疲労状態では意識障害を起こしうる。


 私は彼女の首筋に触れた。脈は弱いが規則的。呼吸も安定している。彼女の髪からは愛用のラベンダーの香水が微かに香る。グラース産のラベンダーオイルを使った、フランス製の高級品。戦時中でも女性らしさを保つための、彼女なりのこだわり。


 私は一人だった。この鉄の棺桶の中で。決断を下さなければならない。


 その時雲の切れ間から一瞬だけ下の海が見えた。そこにあるはずのない白い珊瑚礁の縁取りが。海図にない島だ。



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