第2話 子供の頃から、バースデーケーキが苦手だった
砂月は、会社を首になった日の夜、彼氏に振られた。
「好きな子が出来たんだ。だから別れて欲しい」
「分かった」
砂月は、いつも冷めていた。
好きと言われて付き合ったが、何も面白くなかったので、突然の別れ話も、すんなり受け入れられた。
目の前に運ばれて来たバースデーケーキを見て、うんざりしていた所に別れ話だった。
ハッピーバースデーと歌われる前に、ふられたが、悲しいという感情は湧かなかった。
性格は俺様な所があったが、頭脳明晰で容姿端麗、切れ長の目が、若い女性社員に受けていた。
彼女たちが言うには、どんな時も何があっても優しい温かな眼差しに、愛情を感じるらしい。
けれど、今夜は、凍りつくような冷たい瞳をしている。
砂月が、何も言わずにいると、誠司は先に席を立った。
「いつも通り、会計は済んでる」
それだけ言って、湯気の立つコーンポタージュまで残して店を出て行った。
「どうして、毎回ふられるのかな?告白してくるのは、あっちなのに」
砂月は、自分にも無関心だったので気付いていなかったが、容姿でモテるというのもある。
鼻筋は通って両目は、ぱっちり。ぷっくりとした唇は、リップを塗らずとも常にピンク色で、同性から見ても、ドキッとするくらい魅惑的なのだ。
「まあ、どうでもいい事だけど」
砂月が腰を浮かした時、馴染みのウエイターが、テーブルの上に白いハンカチをそっと置いた。
「ありがとう、でも泣けそうにないの。お食事を残してごめんなさい。食べられないわ」
砂月は、気持ちだけを受け取り謝罪して、フランス料理店を出ると呟いた。
「多分、もう二度と来ない。もともと、お寿司が好きなのよ」
砂月は、通りに出てタクシーを拾うと眠気に襲われたが、唇を噛んで耐えた。
そして、お化け屋敷のような古びたアパートに戻ると、錆び付いた鍵を差し込んで、今にも壊れそうなドアノブを回した。
「結局、帰る場所は、ここしかないのよね。いつも通り帰宅しちゃったけど……後、十日くらいなら住まわせてくれるかな?」
このおんぼろアパートは、誠司が借りている。家賃も光熱費も、その他諸々、誠司持ちだ。
真面目な誠司の事だ。今月の家賃は、既に払ってくれているだろう。
「よく考えると、私って、ヒモ女だったのね。なるほど、ふられるわけだ」
砂月は、謎が解けて、気持ちがすっきりした。今夜は、よく眠れそうだ。
「明日から、どうしようかな。まずは、仕事を探さないと」
砂月は、子供の頃から、バースデーケーキが苦手だった。
誕生日を祝ってくれる人がいるだけでも、有難い。
感謝しなければいけない事だと、頭では分かっている。
だけど、「誕生日だけ特別扱い」という雰囲気を醸し出されるのが、苦痛だった。
特別扱いの絶頂の瞬間が、バースデーケーキだ。
ハッピーバースデーと歌われる、それも嫌だった。
クラスの子の誕生日パーティーに呼ばれるのも、苦痛だった。
特別扱いされるのが当たり前という顔を見ると、げんなりした。
特別扱いを毎日されるわけでもないのに、「誕生日だけ特別」というのが、なぜか嫌だった。
生まれたことを祝われる日を、好きになれなかった。
「お店のバースデーケーキ、食べずに悪い事したかな……」
砂月は、何となく窓の外を見た。
その時だ。スマホが鳴って、母親から連絡を貰った。
「元気で、やってる?あのね、おじいちゃんが、亡くなったよ」
「なっ!うそ、何で……まだ元気だったのに」
涙が溢れて、砂月は、東京を後にした。
祖母が亡くなって、二十一年が過ぎる。
祖父は、享年八十九歳、長寿だった。
死因は、肺炎の悪化、叔母に看取られて逝ったのだ。
イギリスのオックスフォード大学に進んだ妹と、大英博物館で働く弟は、急な葬儀に間に合わなかったので、葬式後、砂月は一人寂しさが胸に溢れた。
彼氏に振られても、涙は一滴もこぼれなかったが、祖父が亡くなった事は、胸が張り裂けそうなほど辛かった。
主を失った家も、静かに息を引き取った。
砂月が一人で遺品整理をしていると、色褪せた細長い絵本を見付けた。
「この絵本、昔、おじいちゃんが読んでくれた絵本……『しじゅうくにちに、ばけねこの、ぶんかさい』だわ」
青い表紙には、真っ黒な化け猫が、右手に赤い蒲鉾と、左手に白い蒲鉾を持って、幸せそうに笑っている。砂月は、色褪せた表紙を捲って、絵本の出だしを視界に入れた。
【黒い化けねこは、やさしい男の子が、だいすきでした。だけど、黒い化けねこは、じゅみょうを終えてしまったので、天国に、かえらなければ、いけませんでした。だから、四十九日に一度だけ、男の子に、あいにきました。そこは、虹の下でした】
「懐かしい……」
思い出に浸ろうとした瞬間、激しい眠気に襲われて、砂月は、ぱたりと畳の上に倒れた。