秘境の冬季分校
川瀬正行は東京に住む会社員。ドライブが趣味だ。今年のゴールデンウィークを利用して、車でどこかに行こうと思っていた。行こうと思ったのが、桧谷という秘境の集落だ。東北の豪雪地帯にあるこの集落は、かつて100人ぐらいが暮らしたそうだが、現在は数えるほどしかいないという。そんな場所に、冬季分校と言われる冬だけの分校を再利用した簡易宿泊所があるという。その簡易宿泊所は、トイレがリニューアルされているものの、教室などその他の部屋がそのままに残されているという。教室は現在、宿泊者の2段ベッドが並んでいるという。
「この道を右っと」
正行は山道を走っていた。とても険しい山道だ。民家が全く見当たらない。本当にここにあるんだろうか? 疑わしくなった。だが、地図によるとその先に桧谷という集落があるらしい。こんな険しい所に集落があるとは。ここで暮らす人々は、とても厳しい環境の中、一生懸命に生きていたんだろうな。
「何もないな・・・。本当にこの先にあるんだろうか?」
だが、いくら行っても、見えるのは山林だけだ。民家が全く見えない。山道はその先にも続いていて、上り坂になっている。道は細く、つづら折りになっている。対向車がすれ違うための退避スペースは所々にあるが、もし対向車が現れたらどうしよう。延々バックはこりごりだ。
「本当にこの先に集落があったんだろうか?」
数十分走っても、なかなか見えない。本当にあるんだろうか? 正行は首をかしげた。
だが、徐々にではあるが、目の前に家々が見えてきた。これが桧谷だろうか? 古そうな民家だ。いつの時代からあるんだろうか?
「見えてきた!」
見えてくると、正行の気持ちが高ぶった。もうすぐ、桧谷に着く。どんな風景だろうか? 噂によると、ここから見る風景は絶景で、特に夏は素晴らしいそうだ。
正行は桧谷の集落の入り口にやって来た。だが、そこに人の姿は見当たらない。もう誰も住んでいないんだろうか? まだだれかが住んでいると言われているんだが。もう死んだんだろうか? 家々の多くは朽ち果てていて、崩壊を待つだけになっている。あと何年、これらの民家がその姿をとどめているんだろう。いつ倒壊するかわからないぐらいだ。この姿を目にとどめておくなら、今しかないだろう。
「廃墟ばかりだな。もう人が住んでないみたいだな」
もう誰も人が住んでいないように見える。果たしてここには、どんな人々の営みがあったんだろう。厳しい環境だけど、きっと素晴らしい自然が見れたんだろうな。
「みんなそうなのかな?」
しばらく走っていると、茶色い建物が見えてきた。この建物は、いくつか新しそうな部分がある。ある程度リフォームをしたようだ。
「あっ、この建物かな?」
正行はその横で車を停めた。そして、看板を確認した。簡易宿泊所『冬季分校』だ。冬季分校とは何だろう。正行は首をかしげた。だが、分校と言っているのだから、冬季分校というのを再利用したものなんだろう。
「これだこれだ!」
正行は駐車場の車を停めた。と、正行は何かに気付いた。それは、運動場を再利用したようだ。正行の他に、車は1台もない。誰も泊まっていないようだ。
「すごいなー。これが冬季分校の校舎を再利用した簡易宿泊所なのか」
正行は中に入った。入口には、中年の女性がいる。その女性が女将のようだ。
「すいませーん、今日、予約しておりました、川瀬正行と申します」
「あっ、今日予約の方でしたね。お待ちしておりましたー」
正行の姿を見て、女将は笑みを浮かべた。予約が来て、嬉しいようだ。
女将は宿泊する部屋に案内した。この宿泊所は1つの部屋を何人かでシェアするようだ。
「こちらでございます」
女将は部屋の扉を開けた。扉は教室のようなスライド式で、それだけでここは教室だったと思わせる。正行は辺りを見渡した。そこには誰も泊まっていない。とても静かだ。
「ありがとうございます」
「すっげー! これが教室を再利用した部屋なのか」
正行は感動していた。こんな山奥の冬季分校を再利用して、簡易宿泊所を作るって、すごいな。でも、どうしてこんな山奥でしようと思ったんだろう。
「すごいでしょ? ここは教室だったんですよ」
「へぇ」
女将は笑みを浮かべている。再利用して簡易宿泊所を作った事を誇りに思っているようだ。
「分校っての、珍しいけど、冬季分校ってのはもっと珍しいでしょ?」
「はい」
確かにそうだ。分校ってのは聞いた事がある。山奥にあるが、最近は過疎化などで姿を消している。だけど、冬季分校ってのは聞いた事がない。だけど、冬季っていうのだから、冬しか開かないって想像はできる。
「こんな学校もあったんですよ。もうあるかどうか」
女将は思っている。もう冬季分校なんて、残っていないんじゃないかと。
「昔はもっと子供がいたんですけど、今はもういなくなったんですよ。そして、この桧谷に住んでいる人はもう数えるほどしかないんですよ」
この桧谷冬季分校は、かつては桧谷分校という1年中使われている学校だった。だが、道路が整備され、スクールバスがここを通れるようになると、冬季分校となった。冬季分校となったのは、この辺りが豪雪地帯で、冬になると雪に閉ざされ、道路が通れなくなる。そして、バスが来れなくなる。なので、冬季分校として残す事になったのだ。だが、ここの子供たちが全くいなくなり、冬季分校は閉校になった。
「そうなんですか・・・」
「私の父は、この分校に通っていた最後の子供の1人なんですよ。そんな父が、がんで余命半年を宣告されまして、亡くなったんです。そんな父が最後に願ってたのは、桧谷冬季分校をもう一度見る事だったんです。でも、かなわなかったんです」
女将の父は、桧谷冬季分校に通った最後の小学生で、何年か前にがんで亡くなったという。その父の願いが、桧谷冬季分校を残してほしいという事だ。倒壊の危険があり、解体する予定だった。だが、父が残してほしい、何らかの形で再び使ってほしいと願っていた。なので、桧谷冬季分校の校舎を再利用して、簡易宿泊所を作ったという。
「そんな過去があったんですか」
「今では結婚して、1人息子は東京で暮らしているんです」
女将はすでに結婚していて、夫がこの簡易宿泊所の管理人だ。2人には息子がいて、現在は東京で会社員をしているという。
ふと、正行は思った。その子供は、将来ここを継ごうと思っているんだろうか? こんな山奥にあるのに、やりたいと思っているんだろうか?
「そうなんですか。息子さんはここを継ごうと思ってるんですか?」
「思ってるらしいですよ。おじいちゃんの思い出の場所をこういった形で残してるのって、すごいと思ってね」
それは驚いた。継ごうと思っているとは。ここはとても過酷な環境だ、本当にやろうと思っているんだろうか?
「頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」
そして、正行は部屋に入った。女将は部屋の出入り口を閉めて、フロントに戻っていった。
その夜、正行は眠れなくて、外に出てきた。外はとても静かだ。明かりは全く見えない。この辺りに住んでいる人はほとんどいないが、そのほとんどは寝て、電気を消したんだろうか?
正行は考えた。最も栄えていた頃には、どんな夜景が広がっていたんだろうか? 東京ほどではないが、とても輝いていたんだろうな。
「どうしたんですか?」
正行は振り向いた。そこには女将がいる。
「昔はもっと多くの人が暮らしてたんですか?」
「はい。とっても賑やかだったらしいですよ」
女将はここで生まれていない。東京生まれだ。だが、父から桧谷の事を聞いた。秘境にあり、過酷な環境だったそうだ。だが、自然の神秘が見られる場所として知られていた。今ではその素晴らしさを見るために、好きな人がやって来るらしい。
「そうですか。やっぱり豊かな生活を求めて、ここを離れてくんでしょうか?」
「そうですね。ここは豪雪地帯で、冬になると何もかも閉ざされるんですよ。なので、冬はここはやってないんです。で、別の家で暮らしているんです」
やっぱりそうなのか。人間って、豊かさを求めて田舎を離れ、都会に向かうんだな。そして、田舎は過疎化が進み、そして消えてしまうんだな。ここは全国屈指の豪雪地帯で、とても厳しい環境だ。でも、だからこそここには寒さにも負けない温もりがある。それを知ってほしいな。
「そんなに厳しい環境なんですね」
「だから、冬季分校があったんですよ」
「いつまでも、この思い出の場所が残っていてほしいですね」
「ありがとうございます」
ちょっと眠たくなってきた。もう寝よう。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そして、正行は寝室に向かった。女将は正行の後ろ姿をじっと見ている。
翌日、チェックアウトする日になった。1泊だけだったけど、とても楽しかったな。また行きたいな。都会の忙しさに疲れたら、ここでのんびり過ごすってのもありだな。
「おはようございます」
「おはようございます」
正行は荷物をまとめて、歯を磨いたら、1階に向かった。1階の入り口には、女将がいる。
「昨夜はありがとうございました」
「いえいえ、また来てくださいね」
正行は一礼をして、簡易宿泊所を後にした。女将が正行の後ろ姿を見ていた。
正行は桧谷を後にした。廃屋だらけの桧谷を見て、正行は思った。これらの家屋は、あと何年この姿をとどめていられるんだろう。そして、あの宿泊所は、いつまで続けられるんだろう。だけど、こんな秘境の集落に、こんな分校があったんだというのを知ってほしいな。