第一章 ⑩
河原に小さな背中を見つけたとき、そこにたんぽぽが咲いているのかと思った。
可愛らしいそれはたんぽぽではなく、彼だった。
本当にいた! と、胸が高鳴った。
その小さな背中が、今、見えなくなる。
心陽はそれ以上動けなかった。
緊張と憂懼に震えそうな中、平静を保つのに必死だった。
これまでになく、心の鼓動が激しく脈打っている。
彼から明確な答えは聞けなかったが、心陽は確信した。
彼も、前世の記憶を持っている。
わたしの推測は、正しかった。
転生人。
彼は、間違いなく【彼】だ。
去り行く背中へ伸ばしかけた右手を、心陽は胸の前で握りしめる。
静かなはずの川の流れが、このときばかりはざわついている気がした。
ふと空を見上げると、一機の飛行船が、動画広告を映しながらゆったりと飛んでいた。
心陽の目に、成果が伸び悩む【ユウタ】を自慢の弟子だと語る、ヒーローランキング元一位【雷拳のアイル】のインタビュー動画が映る。
『ランキング最下位の弟子をどう思うかだと? どうとも思わん。頑張っても結果が振るわな
いことなんてザラだろう?』
藍色をしたセミショートの髪をサイドで一つに結わえ、頭頂からは猫耳を生やした、見た目十二歳くらいの少女が、にかりと笑っている。
『世の中の脳死どもは勘違いしているらしいが、批難すべきは、口だけで何もやろうとしない奴とか、途中で諦めて口だけに成り下がった奴だ』
この少女然とした人物こそ、勇太の師匠であり、六歳だった彼を養護施設から引き取った育ての親。【雷拳のアイル】その人だ。
アイルが身に着けているのは、上は白と赤を基調とした巫女装束、下はショートスカート、足には足袋と草履という、和洋折衷といった印象のものである。さらに、脛、膝、胸、そして前腕から甲にかけて、銀に鈍く光る金属製のプロテクターを装備していることから、彼女が格闘タイプのヒーローであることがわかる。
心陽が身に着けた格闘術も、アイルから受け継いだものだ。
『弟子のSNSでよくあるらしいが、頑張り続けている者をなぜ批難するのか、私には理解できないな。――なに? 視聴者の反感を買う? それが恐くて、ヒーローなどやれはしないさ』
アイルは質問に答えると、不敵に微笑んだ。
「わたし、バカだ。……卑怯者だ。けど、あなたは違う」
目を閉じた心陽の前には、勇太が立っていた。
「あなたが頑張って歩いてきたの、見てる人はいるんだよ? ユータン」
と、心陽は小さく言った。
☆
家に帰った勇太は、アイルに電話を掛けた。
「師匠? 勇太です」
『夕方は大変だったみたいだな』
返ってきたのは中学生くらいの、滑らかで無垢な少女の声。
「ナックル・スターが来てくれて、あとはお約束って感じでした。それより、今日は神社に行けなくてすみませんでした」
『事情が事情だ。私を待たせた罰は半殺しで勘弁してやろう』
アイルは可愛らしい声で、平然と物騒なことを言う。
「半殺しにはするんですね」
『それはそうと、どうした? 手合わせの予定を組み直すか?』
「手合わせもそうなんですけど、さっき心陽――じゃない、ナックル・スターにばったり会って、妙なことを聞かれたんです。その相談で」
『ほう? お前いつの間に、スターの本名が心陽だと知った?』
「えっ、師匠も知ってたんですか?」
『お前には話してなかったか。私はお前が巣立ったあと、心陽に格闘の手ほどきをしたし、何度も食事をした仲でな』
確かに初耳ではあるが、勇太としては、アイルが心陽と親しいほうが話は早い。
「俺は今日、初めて彼女と二人で話して、同業者のよしみで互いに名乗り合ったんです。問題はそこじゃなくて」
勇太は、心陽に聞かれたことをアイルに話した。
『ふむ。前世と剣の持ち主について、か。……お前は心陽のことをどう見る?』
「俺は、ですか」
そう聞かれると返答に困る勇太。
「……健気で、よく笑って、俺みたいな奴にも優しくて、良い子だと思います。けど、あまりにもピンポイントなことを聞かれたので、戸惑ってもいます。心陽は一体、何者なんですか?」
『勇太。お前が前世の記憶を残した【転生人】だと知っているのは私と、政府のごく僅かな人間だけだ。お前が危惧しているのは、前の世界でお前の母国を滅ぼした【魔王】が、こっちの
世界まで追ってくることだろう?」
「もし魔王が追ってきたら、この世界も終わる」
『だから、心陽が魔王絡みの人間なのではないかと、心配しているわけだ』
「そうです。彼女には悪いけど」
『安心しろ。心陽は敵じゃない』
勇太とて、安心したいのは山々だった。
「どうして言い切れるんですか? 心陽は、会いたい人がいるとも言ってました。仮に彼女が剣の持ち主――俺の正体に気付いて、真相を確かめるために接触してきたとしたら、彼女が魔王の手先で、魔王が俺を探しているという可能性も……」
『落ち着け。それでは心陽も、お前と同じ異世界からこっちへ来たことになる』
「彼女、ご両親いたと思いますけど、本当に血のつながった家族でしょうか?」
『DNA鑑定したわけじゃないが、そのはずだ。疑い過ぎだぞ、勇太』
「ならどうして、このタイミングで俺に前世と剣の話を……?」
『勇太』
アイルが声を低めて、勇太の名を呼んだ。真剣な話をしているときの癖だ。
『ここは私を信じて、任せてくれないか?』
「任せる?」
『心陽のことをだ。あいつはここ最近、ヒーローの活動で各地を文字通り飛び回っている。表には出さないが、かなり疲れているはずだ』
勇太は、心陽ことナックル・スターが、背負った魔導ブースターで音速を超えた移動ができ
ることを思い出した。
心陽の性格なら、高速移動を活かして、遠方の人々も助けに行きたがるのは明白だ。
「わかりますけど、それと俺への質問はまったく関係が――」
『お前が不安なのはわかった。だから私に少し時間をくれ。明日の夜までに心陽と連絡を取り、事情を聞いてみる』
勇太の言を遮るかたちで、アイルが言った。
勇太としても、現状は彼女に頼らざるを得ない。
「師匠が言うなら、……すみませんが、お願いします」
ヒーローたちの緊急用グループラインはあるが、自分で直接心陽を呼び出して聞くよりも、第三者を挟んだほうがリスクは小さい。
心陽が何らかの形で魔王に絡んでいた場合、勇太の身が危険に陥る。
逆に、心陽が勇太にした質問に深い意味は無く、勇太の完全なる誤解だった場合、心陽を傷付けかねない。
『勇太。ヒーローが陥ってはいけない事はなんだと思う?』
「陥ってはいけない……?」
考えてみる勇太だが、すぐには答えが出ない。
アイルはこう言った。
『疑心暗鬼だ。お前の事情はわかっているが、断ち切らない限り、その苦しみは消えない』




