虐めに勤しむ操り人形達の噂話
――理想的なジャーナリズムとはなんだろう?
火田修平は時折そのような事を考える。ただし、彼が所属しているのは単なる大学の新聞サークルに過ぎない。だから、そのような事をかんがえる事自体が身の程知らずだとも思っていた。
が、それでも彼は思ってしまう。思わない訳にはいかなかった。
“――最近のマスコミ業界の態度は、やっぱり間違っている”
もう一度繰り返すが、彼は単なる大学の新聞サークルの一員に過ぎない。だから、最近のマスコミ業界も昔のマスコミ業界も知らない。では、どうしてそのように彼が思うのかと言えば、マスコミ業界は知らなくても、“マスコミ業界の外”ならば知っているからだ。
――つまり、マスコミ業界の置かれた環境が変わってしまっているのである。
だが、にも拘わらず、マスコミ業界の少なくとも一部はそれを分かっていない。特に雑誌社。週刊誌。
通常の犯罪者を裁く場合を考えてみよう。
まず、警察が捜査をする。その結果十分な証拠が集まったのなら起訴され、裁判が行われて、その模様はある程度は公にされ、有罪か無罪かの判決と量刑が行われ、その後で刑が執行される。
つまり、“犯罪者を裁く”という行為は様々な機関に分散されて行われているのだ。そして、それぞれの機関には力を制限する為の制約がある。
司法に限らず、人類社会の歴史上、社会の発展と共に様々な公権力は分散化と共に制限がかけられて来た。権力が集中する事自体が社会発展の妨げになり、また戦争を引き起こす原因にもなっている。だからそのような予防処置が社会制度に組み込まれているのには納得ができる。
それに対し、週刊誌が誰かターゲットを攻撃する場合には、このような予防処置がない。週刊誌が調査を行い、正しいかどうかの精査も独自の基準で週刊誌自身が行い、その過程は公にはされず(だから当然、第三者機関の監視もない)、そして勝手に断罪をしてしまう。
権力の分散も十分な制限もない。
つまり、無実の罪で誰かを糾弾できるし、仮に私利私欲の為にその力を使ったとしても明るみになり難い。
……暴走を許してしまう。
そのような状態でも、社会が今までこのようなマスコミを許容してしてきたのは、マスコミの影響力がそれほど大きくはなかったからだろう。
が、インターネットが普及し、個人がSNSや動画サイトなどで誰でも情報を発信できるようになるとそれが変わった。マスコミが流した情報を個人が再発信する事で情報が反響し、増幅をしてしまうという現象が起こるようになってしまったからだ。
つまり、週刊誌などのマスコミはこれまでにない大きな力を持つようになってしまったのである。
『大いなる力には大いなる責任が伴う』
アメリカンコミックの作品の一つ、“スパイダーマン”で有名になった格言だが、これはこの作品独自のものではなく、一般的な社会通念だ。また、“ノブレス・オブリージュ”という言葉もある。
強い力を持ったのなら、それに応じた責任や倫理観を週刊誌などのマスコミは持たなくてはいけないのだ。
最近、あるお笑い芸人の性的なスキャンダルが週刊誌により報じられて話題になった。性加害疑惑だから、刑事事件である。もし、本当なら大問題だ。が、奇妙な点があり、10人以上も被害者がいるというのに誰一人として警察には訴えておらず、報道以前には誰もSNS等でコメントもせず、暴露系動画チャンネルなどでの告白もない。しかし、週刊誌だけには告白をしている。
仮に被害女性達が脅されていたり、組織的にこの件が隠蔽されているような事があったのならば納得できるのだが、そのような話は今のところ聞かない。
不自然だ。
しかも、仲間のお笑い芸人から「事実と異なっている」という証拠を示しつつの反論があったりと、どうにも記事の真偽のほどが疑わしい。
週刊誌が名誉棄損で訴訟を受け、裁判が開かれると週刊誌が捏造した記事だったと判明した事件が過去に何度か起こっている。
仮に週刊誌の報道が正しいのであれば、真っ当な手続きで真っ当にそのお笑い芸人の罪を問えば良い。刑事事件なのだから、まずは警察の手に委ねるべきである(刑事事件は第三者でも告発が可能だ)。それができないというのなら、「週刊誌には何かしら後ろめたい事実があるのではないか?」と疑われても致し方ないだろう。
はっきり言って、週刊誌が自分達の力を制御できているようにはまったく思えない。この件で週刊誌は高い利益を上げているのだそうだ。私利私欲の為に力を使っていないと言い切れるのだろうか? 本来ならば、その力は、もっと他の、価値ある事に使うべきだ。
――そろそろ、マスコミの力を制限する何らかの措置が必要な時代ではないだろうか?
インターネットが普及した今の世の中に相応しい、その力に対する責任を果たそうとする職業倫理が、一部のマスコミには圧倒的に欠けている。
だから、彼、火田修平は思わない訳にはいかなかったのである。
“――最近のマスコミ業界の態度は、やっぱり間違っている”
と。
そして、そんな想いを抱えている火田の元に、ある日、英みふるという女学生が訪ねて来たのだった。
その時、彼は一人でサークル室にいて、新聞の編集作業を行っていた。この新聞サークルは、あまりやる気のあるサークルではない。それを言ってしまったのなら、やる気のあるサークルの方が少数派なのかもしれないが、とにかく、だからそれは決して珍しい状況ではなかった。頻繁にサークル室にいるメンバーといったら、後は佐野という人畜無害な男学生だけだが、今日はいない。彼は鈴谷という名の女生徒との接点を確保したいというのがサークル活動をしている理由の50%くらいを占めているので、その目的が果たせそうにない日にはあまり顔を出さない。今日、鈴谷は学校を休んでいるのだ。
だから、英というその女学生が、「あなたが火田君ね」と来るなり彼だと言い当てたのは、それほど不思議ではなかった。ただ、それでも火田がどんな男で、どういう態度で新聞作りを行っているのかくらいは調べているようだった。
何故なら彼女は、
「社会的に価値のあるネタを持った来たわよ」
と、彼に告げたからだ。
新聞サークルのサークル室は、大学のサークル棟にある一室だから当然狭い。しかも掃除も偶にしかしないから小汚い。その英という女性は、気の強そうな外見をしていて、化粧やファッションにかなり気を遣っているようだった。“周りから良く思われたい”という願望を隠そうともせずに見せびらかしている。少なくとも火田はそう感じた。そして、そんな彼女とこの狭く汚いサークル室は、決定的に相容れなかった。
“場違いだなぁ”
無意識に火田はそう思ってしまう。
部屋の雰囲気が全力で彼女を押し返そうとしているにもかかわらず、彼女は持ち前の厚顔さでそれを跳ね除けているように思えた。
もっとも、作業を中断されて機嫌が悪くなっている所為で、その時の彼にはそう思えていただけかもしれないのだが。
「社会的に価値のあるネタ?」
そう彼が尋ねると、いかにも自信がありそうな表情で彼女は「そ」と大きく頷いた。続けて、
「あなたはそういうネタが好きなのでしょう?」
と、訊いて来る。
“好き”という表現を使われた事に対して、彼は妙な悔しさを覚えた。“好き嫌い”という基準で新聞ネタを選んでいる訳ではない。が、否定するのも面倒だったので「ま、できればそういうネタを採用するようにはしているよ」と彼は続ける。
高が大学の新聞サークル。読者の数も少ない。新聞など時代遅れと馬鹿にする連中だっている。が、それでも、不特定多数の人間にそういうネタを読ませる事には意義があると彼は考えているのだ。
「じゃ、ピッタリのネタ」と、彼女はにんまりと笑ってから「“虐め”よ」と言った。
「虐め」と、彼は一言返す。そして、一呼吸の間の後で、ほぼ反射的に口を開いていた。
「それは慎重にならざるを得ないな」
「何でよ?」
「その話が本当かどうか分からないからだ」
“虐め”。それは虐めている誰かがいるという話でもある。そして、それをネタとして新聞で取り上げるというのは、その誰かを攻撃する事でもある。
もし仮に嘘情報だったなら、いや、噓情報じゃなかったとしても、この女性にその誰かを攻撃する意図があったのなら、それに手を貸す事になってしまう。
火田はその女性に鋭い視線を向けた。が、やはり面の皮が厚いのか、まったく届いてはいないようだった。彼は凶悪な面相をしているとよく言われる。自分ではあまりその自覚はないのだが、その彼の顔で睨んでもまったく動じないという事は何も後ろめたいところがないと彼女自身が思っているからなのかもしれない。
……少なくとも、自分ではその“虐め”の情報は正しいと思っているのか。
「それに、あんたの目的は何なんだ? どうしてこんなちっぽけな大学の新聞サークルにネタの提供をする?」
火田の質問を受けると、やや馬鹿にした感じで彼女は返した。
「あら? 目的が必要? 虐めはいけない事でしょう? そんな悪辣な連中は許せないわ。糾弾してやりたいじゃない。そうでしょう?」
火田は何も言わなかったが、“被害者を助けてあげたいって発想はないのだな”と心の中では反論していた。
英は口を開く。
「それに、もし載せてくれるのなら、私がその新聞を広めてあげる。新聞サークルとしては嬉しいでしょう?」
「別に俺らはそれで金を稼げる訳でも何でもないからよ、多少読者が増えたところで、そんなには嬉しくないよ」
もちろん、読者が多い方がやりがいは湧いて来る。が、どんな内容でも良いという訳ではない。仮に1億人に読まれたって、世の中に与えた影響がゼロならば価値はゼロだ。がしかし、読んだのがたった百人だったとしても、それで世の中に良い影響を与えられるのであれば価値はある。
彼はそのような考えの持ち主なのだ。
「そう。なら、このネタ、他に持っていこうかしらね。ネットでこういう話を効率良く拡散してくれる人とか、格安の業者とか、探せば見つかるかもしれないし」
彼女が言うのを聞いて、火田は少し迷ったが「分かったよ。教えてくれ」と告げる。根拠はないのだが、何か悪い予感がしたのだ。
「ただし、あんたの話をまるっとは信じない。取材はするぞ。裏は取る。当たり前だよな?」
ネットでネタを拡散するような人間の中には、情報の正しさをまったく疑わない者も多い。そういう態度を彼は常日頃から苦々しく思っているのだ。それを聞くと彼女は「もちろん」と嬉しそうににんまりと笑った。その顔を見て、火田は何かに似ていると思った。少しの間の後に“あ、そうか。狐に似ているんだ”と気が付く。
昔話に出てくるような意地悪な狐。
“おさん狐”という名前の狐が異様に多いという話を、以前に民俗文化研究会というサークルの所属している鈴谷という女学生から聞いていたのだが、それで何故かその話を彼は思い出した。
心の中で呟く。
“化かされないように、気を付けなくちゃいけねぇな”
口を開いた。
「それと、あんたの名前と連絡先を教えてくれ」
「あら? 本当に随分と慎重ね。……って、ナンパじゃないわよね?」
「新聞のネタにすれば、誰かを傷つけかねないんだ。名前も連絡先も知らない相手からの情報を信じられるか。当たり前だろうが」
「顔に似合わず、真面目なのね」
「よく言われるよ」
他の新聞サークルのメンバーも自分と同じくらい真面目だったらと、実は彼は常々思っていた。
それから英は“虐め”についての説明を始めた。大学の組織ではないのだが、この大学の生徒が多数在籍している劇団コトリホという名の劇団がある。この劇団は知名度はそこそこだが、演技力の高さに定評があり、業界内で徐々に注目されて来ているのだそうだ。つまりは、この劇団で活躍すれば役者にとっては良いアピールになるのだ。
しかし、だからこそ、先輩後輩や上下関係、派閥などの諍いが影では絶えないのだという。そして、立場が低い者に対し、その劇団内では“虐め”が横行しているらしいのだ。
「演技力が低かったり、演技力は高くても容姿がダメだったり、または実力はあっても政治的な駆け引きに疎い場合は、ターゲットにされ易いのよ」
と、英は語った。
ありがちな話だが、台本を隠されたり、小物に悪戯をされたり、ありもしない醜聞を言いふらされたりといった虐めが行われているのだとか。
火田はそういう業界についてはまったく知らないが、有り得そうな話だとは思った。ただし、それだけにネタとしてはつまらない。それでそう言ってみると、「あら、ライターらしくなってきたじゃない」などと彼女は言った。どうも彼女はライターに偏見を持っていそうな気もする。
「安心しなさいな。特別なやつがあるから」
そう言って嬉しそうに笑うと彼女は説明を始めた。
劇団コトリホで、子供向けの人形劇を開催したらしい。偶には趣向を変えて、そのような催し物も面白いだろうと誰かが言い、そして「どうせなら、普段、あまり目立った活躍をしていない団員達でやってはどうか?」という話にもなったらしい。実力不足だと思われている者や新入り、人間関係の立ち回りに難がある役者達。つまりは、普段虐められている劇団員達だ。
実を言うのなら、その催し物を劇団の花形の役者達は馬鹿にしていたらしい。“お前ら程度には、子供相手の人形遊びがお似合いだ”的なニュアンスで(語っている英がそのように言っただけで、本当かどうかは不明だが)。地味で目立たない森という女性の劇団員が、その人形劇のリーダーに任命されたらしい。彼女は引っ込み思案で、どう考えてもリーダー向きではない。恐らくはそれも嫌がらせの一環だったのではないか、という話だ。
ところがだ。誠実で真面目な彼女は見事にリーダーの役割を果たしてしまったのだ。ただし、彼女がリーダーとして充分な実力を発揮したのかと言えばそれも違う。むしろ、リーダーとしては拙かったからこそ、上手くいったのだ。ひたむきで健気な彼女の態度に心を打たれた劇団員達は、積極的に彼女を支えようとしたのである。そして、その子供向け人形劇はかなりの評判になり、目出度く成功を収め、子供やその親達から大いに感謝をされた。気を良くした劇団のマネージャーは、「お陰で客層の幅を広げられた」と人形劇の第二弾も企画した。
――がしかし、そこで事件が起こってしまったのである。
「舞台で使う人形が壊されちゃったのよね」
と、英は言った。
「ほー」とそれに火田。
陰湿な話だ。
「それで人形劇はできなくなった。もちろん、犯人は二軍だと馬鹿にしていた彼らの活躍を快く思わない劇団の花形達よ。“生意気だ”とでも思ったのでしょうね。マネージャーも犯人は分かっているのでしょうけど、表沙汰にはしなかった。劇団の花形のイメージを悪くする訳にはいかないでしょう? だから隠したのよ」
少し考えると火田は尋ねた。
「証拠はあるのか?」
もしそれが事実なら、器物破損。もちろん、犯罪だ。
「証拠って言われるとあれだけど、状況から考えるのなら分かり切っているでしょう? ネットで調べてごらんなさい。まだ、人形劇の急遽中止に関する謝罪のページが残っているはずだから」
火田はそこで編集作業で使っていたパソコンで検索をかけてみた。彼女の言う通り、公演中止のページが残っている。
「なるほどな」
「それに、これ、ほとんど公然の秘密なのよ。劇団内部ではね」
「随分と詳しいんだな」
「ちょっと調べれば、誰でも分かる話なのよ」
「ほー」
火田は腕を組む。取材する為にどう調べたのかを訊こうかと少し思う。何らかの伝手があるのかもしれない。が、止めた。
まだこの英という女学生は信頼できない。できるだけ彼女の知らないところで動きたいと彼は思ったのだ。
その彼の様子をどう捉えたのか、英は「証拠がないのが不満なら、事実だけを書いてくれればいいわ」と言った。
「事実?」
「虐めがあるのはほぼ疑いない。そして、いじめられている劇団員達が成功させた人形劇の再演に邪魔が入ったのも間違いない。しかも、人形を壊すなんていう悪辣な手段で。後は読者のご想像にお任せしますって書きっぷりで言いて事よ。犯人は断定しなくて良い」
「なるほどな」
それだけでも充分に虐めの加害者連中には効き目があるだろう。絶対に読者は人形を壊した犯人は虐めの加害者達の犯行だと思う。スキャンダルだ。しかし彼女に言われるままに書く訳にもいかない。彼女の意見は、一方的な見方に過ぎないのだから。
「もう少し調べてみるよ。さっきも言ったが、あんたの話だけを信頼して記事を書く訳にはいかないからな」
それを聞くと「ご自由に」と言って英はにんまりと笑った。やっぱり狐のようだと火田は思った。
火田は英という女性が去り、編集作業を手早く済ませると、それから劇団コトリホの虐め問題について考え始めた。恐らく、この程度の話ならば掃いて捨てるほどあるのだろう。ただ、英の言う通り、“人形劇の人形の破壊”という、明らかに器物損壊罪に当たる行為が“人形劇の中止”という形で公にさらされている点がセンセーショナルではある。
編集作業を終えたばかりの、パソコン画面上に映し出されている新聞のデータを見ながら彼は呟いた。
「――これのレビューの時にでも、ちょっと小牧に何か知らないか訊いてみるか」
大学の新聞サークルが発行する新聞なのだから、それほど大した文章量ではなく、火田一人で編集作業を行う場合も多いのだが、それでも一応はチェックの意味を込めて、完成した内容のレビューは複数人で行うようにしている。そしてこの時だけは、有名無実と化している連中以外のサークルメンバーは、一応は大体顔を出す。
具体的には佐野と園田(通称ソゲキ)と小牧の三人だ。ただ、この三人のレビューはいつもパターンが決まっている上にあまり意味がない。佐野は「大体、良いのじゃない?」といった曖昧な肯定しかしないし、ソゲキは「うーん。ダメですね」と一度は否定するのだが、火田が「具体的にどこがダメで、どう直せば良いんだ?」と尋ねると「すいません。言ってみたかっただけです」などと返すという無意味なやり取りをし、そして小牧は「面白かったよ。特に資金の無駄遣いのところ! 確かに衛生管理最悪の中庭のトイレの改善の方が有意義だよねぇ」といった感じで何故か読者目線での感想しか言わない(しかも、あまり参考にならない)。
参加してくれるだけかなりマシなのだが、つまりは三人ともレビューに対してあまりやる気がないのである。
因みに、佐野はそれなりに原稿を書いてくれるが可もなく不可もなくといったクオリティで、ソゲキは少ししか書かない上にクオリティが低く、そして、小牧はソゲキに輪をかけて原稿を書かない。しかし、恐らく、この中で最も新聞サークルとして重宝するのは小牧だった。
「――ところで小牧、教えて欲しいことがあるんだ」
大体のレビューが終わると、そう言って火田は小牧に話しかけた。
「教えて欲しいこと? いいよ。何?」
いつも彼女はノリが軽い。
そこでソゲキが「スリーサイズとかですかね?」と茶々を入れる。それに「聞いても、あまり嬉しくはないな」と佐野が続け、「気を悪くするわよ?」と言って小牧は二人を睨む。小牧は痩せ型で決してプロポーションが良いとは言えないのだ。
「そういうの良いから、話させろ。こっちは真面目なんだよ」
火田が文句を言うと三人は黙ったので彼は質問を始めた。
「劇団コトリホって知っているか?」
「劇団コトリホ? ええ、知っているわよ。最近、ちょっと注目され始めている劇団よね。うちの生徒も在籍している」
小牧はコミュニケーション能力に妙に優れていて、大学近辺の噂話に精通しているのだ。だから、こういった調査には役に立つ。
「虐めの噂とかあるか?」
目を上に向けつつ小牧は「ああ、偶に聞くわね。でも、どこにでもあるようなやつよ。小道具を隠されたりとか」と彼女は答えた。
“なるほど。虐めの噂が、ある事はあるのか”
その点については予想していた通りではあるが、英の話の裏付けが少し取れた。
「なら、子供向けの人形劇が中止になった話は?」
次に火田がそう尋ねると、何故か彼女は目を輝かせた。
「ああ! それね! その話はちょっと面白いわよね!」
“――これも知っているのか……”と、それを聞いて火田は思いかけたのだが、彼の予想に反して小牧は妙な事を言うのだった
「人形達が楽屋で争い合っていたってやつでしょう? それで、人形が壊れちゃったって怪談」
――は?
と、火田の頭の上に大きなクエスチョンマークが浮かぶ。
「――なんだ、その話は?」
と、彼は言いかけたのだが、それよりも早く佐野が口を開いたので言えなかった。
「そんな話があるのなら、もっと早く教えてくれよ、小牧! 僕と鈴谷さんの仲を取り持つ気はあるのか?」
「いや、ないけど。なんで、わたしが佐野君の恋の応援をしなくちゃならないのよ」
「とにかく、もっと詳しくその話を教えてくれ!」
佐野は鈴谷という民俗文化研究会に所属している女学生に惚れている。だから、彼女が喜びそうな噂話を集めては、話しに行っているのだ。
「劇団コトリホで、子供向けの人形劇をやろうとしたのだけど、急遽中止になっちゃったのよ。人形が壊れちゃって。で、人形が壊れた原因が、夜中に人形達が勝手に動いて争い合って壊れたんだって噂があるのよ。しかも劇団関係者はそれを否定していない」
――は?
火田はその小牧の説明に軽く混乱していた。英から聞いていた話とはかなり違う。
“……いや、もしかしたら、噂は二種類あるのかもしれない”
そう思い、「人形が壊れたのが誰かの虐めだって話はないのか?」と尋ねてみる。すると小牧は不思議そうな表情を浮かべ、「どうして、劇団の催し物を劇団員が邪魔するのよ?」と尋ね返して来た。
人形劇が普段虐められている劇団の二軍達で行われていた事をどうやら彼女は知らないらしい。そこまでは噂になっていないのかもしれない。内部事情なのだから、知らなくても不思議ではないと、彼は納得しかけたのだがそこで疑問が浮かんだ。
――いや、待て、だとすれば、どうやって英はそれを知ったんだ?
火田が疑問に思っていると佐野が不意に立ち上がった。
「おい、火田。これでレビューはお終いだよな? なら、僕は抜けるぞ」
彼は「何処へ……」と言いかけて直ぐに気が付いた。
“そうか。早速、鈴谷の所に人形の怪談の話をしに行くつもりか”
佐野は浮き浮きとした足取りでサークル室を出て行った。“鈴谷か……”と、少し考えてから、彼はそれを追いかけた。
「なんで、お前まで来るんだよ?」
と、鈴谷のいる民俗文化研究会に入るなり佐野が不機嫌そうに言った。鈴谷は何も反応をしない。
「お前が鈴谷の所へ行ったからだよ。ついでだ」
「なんだ? 僕に何か話があるのか?」
「ないよ。話しがあるのは鈴谷にだよ」
「意味が分からない」
「お前、俺が鈴谷と二人きりで話したら、絶対に怒るだろうが。だから、お前がいる時の方が都合が良いと思ったんだよ」
そのくだらないやり取りが終わると、やや呆れた様子で「それで二人とも、何の用?」と鈴谷が訊いてきた。鈴谷はサークル室でいつも本を読んでいるのだが、今日も読んでいたようだった。
「ちょっとお前の意見が聞きたくてな」と火田は口を開く。
「意見?」
「人形劇に使う人形達が勝手に争って壊れたって怪談があるんだけどな」
「ふーん」
鈴谷は微かにその話に反応したようだった。肩口まで伸びている真っ直ぐな黒髪が揺れる。スレンダーな体型だが、小牧とは違ってスタイルが悪いという印象は受けない。眼鏡越しの眼光がちょっときつくなったように火田は感じた。
「なんでお前が話すんだよ! 僕が鈴谷さんに話すつもりだったのに!」
佐野が彼に子どのような抗議をして来たが、「知るか」と彼は構わずに続けた。
「例えば、そういう怪談が生まれる背景とか、文化とか、そういうのに特徴的な何かがあったりはしないか?」
妖怪や怪談には、それらが生まれた文化の特性が反映されるケースが多い。だから、何か参考になる話が聞けるかもしれないと彼は考えたのだ。
「似たような話ならたくさんあるわね。劇で使われる怪談が、夜中に取っ組み合っているっていう。でも、その手の人形が動き始める怪談っていうのはそれこそ古今東西世界中にあるから、その文化の特性と言われても直ぐには思い浮かばないわ」
「いや、それは分かるよ。でも、人形同士で争い合うとなると、また少し違っているだろう?」
夜中に動く。髪が伸びるといった類の人形の怪談ならばよく聞く。だが、人形同士が争い合うとなると珍しいような気が彼はしたのだ。必死な火田の様子に軽く首を傾げると鈴谷は口を開いた。
「あまり火田君らしくないわね。こういう話にはそれほど興味ないでしょう?」
火田は合理的な男だ。それを言うのなら、鈴谷も合理的なのだが、彼の場合は彼女とはまた少しタイプが異なっている。法律や物理法則といったより明確で分かり易いものを彼は好む傾向にあるのだ。
「何かあったの?」
火田を彼女が心配しているのを見て佐野が嫉妬をした。
「鈴谷さん、どうして火田をそんなに気にかけるのさ」
「火田君は新聞サークルをほとんど一人で支えているようなものじゃない。それに真面目だし」
佐野はそれに何も返せなかった。どうやら彼にも火田に負担をかけているという自覚はあるらしい。
火田はどう答えようかと悩んだのだが、「いや、ちょっと気になった事があってな」と詳しくは述べなかった。小牧も知らなかったとなると、劇団のプライバシーに関わる話になるのかもしれない。あまり多くの人に話さない方が良いと判断したのだ。
「そう」と言ってから鈴谷は続けた。
「操り人形が動く怪談なら、“劇と同じ扱いを普段から人形にさせる事で、自然と人の気が人形に満ちる”なんて話があるわね。だからその人形劇がそんな話だったなら、そういう怪談が生まれる背景にはなると思う。そんな話なの?」
「いや、違うみたいだな」と火田は返す。彼は前もって調べておいたのだが、子供向けの平和な内容のようだった。
「ふーん」とそれを聞くと彼女は言い、少し考えるとこう続けた。
「多分だけど、人形が人形を壊すような怪談は生まれ難いのよ。その人形が実際にある場合は特に」
「どうしてだ?」
「人形は人形を壊さないわ。動かないもの。だから簡単に違うってバレてしまう」
「いや、ま、それはそうなんだろうが」
“身も蓋もない事を言う”と彼は思った。
「仮に人形が壊されていたのだとすれば、その犯人はほぼ間違いなく人間よ。ただ、その人間が実は操り人形だったなんて可能性もあるとは思うけど」
そこで佐野が反応して「何の話?」と鈴谷に尋ねた。
「役を演じさせられて、その役そのものになってしまうって事が、人間でも起こるって話よ、佐野君」
と、それに彼女は答える。
火田はその言葉にピクリと反応する。鈴谷凛子は勘が鋭い。恐らくは何かしら事情を察しての発言だろう。
「もし仮に、そんな怪談が生まれた文化的な背景があるとするのなら、きっとそういう点こそが肝要になると思う」
「つまり、人形を壊した誰かが、そんな怪談を流したって言っているのか? そして、その誰かは命令されてそれをやった」
「そうは言っていないわ」
一呼吸の間の後で、彼女は続ける。
「社会制度によって、人間は行動が大幅に変わってしまうものらしいわよ、火田君。専制的で優劣を重視する社会だと虐めがよく発生するけど、民主的で平等な社会だとあまり虐めは発生しない。私はそこまで詳しく知らないのだけど、劇団の世界ってどういう傾向があるのかしらね? 役者達って演技力を競い合っている訳でしょう? 誰がその役を獲得するのか。人間関係がシビアになるのは想像に難しくないと思うけど」
それを聞いて、火田は思い出していた。“人間には、役割を与えられるとそのように行動してしまうという特性があったはずだ”。それで何かを掴んだのか、
「なるほど。ありがとうな。ちょっと思っていたのとは違ったが参考になったぜ」
と、火田はお礼を言った。
劇団コトリホを火田は訪ねていた。
劇団コトリホはインディーズの劇団なので、劇場を持っている訳ではない。所在地となっているそこは明らかに人家だった。大き目ではあったが、劇団の施設だとは普通は思わないだろう一般的な建築物。劇団で借りているのか、或いはメンバーの誰かの家なのかもしれない。
その家の前で、この場所で本当に良いのかと彼はしばし悩んでいたのだが、迷っていてもどうにもならないと思い切ってベルを鳴らすと、中から好々爺然とした老人が出て来た。劇団の一員なのか何なのかは分からないが、新聞サークルの取材だと告げると、「聞いています」と応え、その老人はそのまま裏手にある倉庫のような場所にまで彼を案内した。倉庫と表現するよりは、土蔵と表現した方が良いような外観をしている古めかしい建物だった。
新聞サークルとして、火田が「人形劇についての取材がしたい」と劇団にメールを入れると、快くかどうかは分からないが、意外にも呆気なくOKの返事が来たのだった。恐らくは触れて欲しくない話題だろうが、断ったら何を言われるか分からない。今はSNSで容易に個人が醜聞をまき散らせる時代だ。取材を受け、当たり障りのない対応をする方が無難だと判断したのだろう。
倉庫の中には、大道具の類が置かれてあって奥の方からは何やら物音が聞こえて来た。老人がその物音の方に向かって「森さん、お客さんですよ。大学の新聞サークルの方です」と声をかけると「はーい」という返事が聞こえて来た。変な響き方をする。声の張りに対して声量が少ない気がしたが、気の所為かもしれない。
しばらく待つと、何かを動かすような物音がした後で中から女性が出て来た。いかにも大人しそうな女性だった。彼女が恐らくは“森さん”なのだろう。恐らく、人形劇チームのリーダーだと英から教えられた女性だ。火田が“人形劇の話が聞きたい”とメールしたので彼女が相手をする事になったのだと彼は考えた。
「すいません。お待たせしました」
彼女に落ち度があるとも思えないのだが、出て来るなり彼女は大袈裟に頭を下げた。
「奥で作業をしていたものですから」
火田は少し申し訳なくなる。
「いや、無理言って取材を申し込んだのはこっちなので、気を遣わないでください。この度は取材を受け入れてくれてありがとうございます」
そう言って頭を下げた。彼にはそれほどの自覚はないのだが、佐野に言わせれば火田は凶暴な面相をしているらしい。安心させる為にも、必要以上に礼儀正しくした方が良いと思ったのだ。もっとも“必要な礼儀正しさ”の相場を彼はあまり把握していなかったのだが。
「時間を取らせるのも申し訳ないので、作業をしながらでも構わないです。こっちはちんけな大学サークルなんで。奥に行きましょう」
それを聞くと「はあ」とやや森は困ったような顔を見せた。しかし、それから案内して来た老人が去ると、「それでは、奥で」と言って倉庫の奥に進んでいった。火田はそれを追いかける。森の足は遅くて、油断すると追い抜いてしまいそうだった。
倉庫の奥にも劇の舞台装置や道具類が収められてあった。雑然としているようで、意外に整理されているように見える。少し探すと人形やぬいぐるみが何体か隅の方に置かれてあった。件の人形かもしれない。人形が人形を壊してしまったという。
火田の視線に気が付いたのだろう。森は口を開いた。
「確か人形劇についての取材でしたよね? そうです。あれが人形劇で使われていた人形です。ご存知でしょうが、今は壊れてしまっています」
目をやると、彼女はどうも大道具を作っている最中のようだった。作業途中なのだろう道具が置かれてある。
「うちの劇団、そんなにお金に余裕がないものですから、作れる道具は劇団員が作っているんですよ」
はにかみながら森はそう説明した。
「なるほど」
一人でやっているのは、やっぱり虐められているからなのだろうか、と彼は邪推しかけたのだが、そこでまるで彼の心中を読んでいるかのように彼女は説明をして来た。
「今日は、本当は休みだったのですが、取材を受けてくれと頼まれたので、ついでに作業を進めていたのです」
火田はそれを聞いて頭を掻く。
「休日だったんですか? それは悪い事をしました」
また申し訳なく思った。休日だったなら、別の日にしてもらっても良かったのに、と。彼としては時間の都合は劇団に合わせるつもりでいたのだ。
「いえいえ、どうせわたし、他にやる事もないですから」
慌てて彼女は彼に気を遣わせまいとしているのか、そう言って来た。困ったように笑っている。笑いが顔から消えると軽く気落ちしているような様子で口を開いた。
或いは、火田からどんな質問をされるのか不安でいるのかもしれない。“これはいけないな”と彼は思った。
「もしかしたら、あの人形も自分達で作ったのですか? 凄いですね」
だから、“柄じゃない”とは思いつつも、褒めてリラックスさせようとそう言った。すると彼女は軽く笑って口を開く。
「はい。自分達で作りました。こういった類の人形は高いですから。と言っても、全て作った訳じゃなく、既製品に手を加えたのですが」
彼の勘違いでなければ彼女は嬉しそうにしているように思えた。
「それでも充分に凄いですよ」
と彼が続けると彼女は益々嬉しそうにした。自分達の努力を認めてもらえるのが嬉しいのは人間ならば当たり前の反応だろう。ただ、それから冷静になったのか、急速に寂しそうな表情を浮かべると彼女はこう言った。
「手作りですから、元々、壊れやすいのですよ。だからきっと人形達が壊れたのは事故だったのだと思います。何かの拍子で壊れてしまって、壊してしまった人はそれに気が付いていないのかもしれません」
明らかに人形を壊した誰かを庇っている。
恐らく、火田がそれを訊きに来たのだと予想していたのだろう。少し迷ったが、探りを入れるつもりで彼はこう尋ねた。
「どうして、そんな事をわざわざ言うのですか?」
彼女の目が泳いだのが分かった。おずおずとした様子で口を開く。
「あなたは虐めの噂を聞いて、取材を申し込んで来たのでしょう?」
“やっぱりか”と彼は思った。
「という事は、虐めの噂は本当なのですね?」
「それは……、あるにはあります。でも、噂には尾ひれがつくものですよね? 噂になっている程、酷くはないのです。全然、許される範囲内で……」
ただの印象でしかない。が、少なくとも火田には彼女の必死そうな様子から“言わされている”という印象は感じられなかった。恐らく、本心から彼女は劇団を守りたいと思っているのだろう。
「安心してください。劇団を攻撃するつもりはないですから」
そう言うと、彼女はようやく安心したようだった。とても真面目で誠実な女性のようだ。しかしだとすれば、だからこそ許せないとも彼は思っていた。虐めている連中は、彼女のその真面目さと誠実さに付け込んでいるのかもしれない。
「劇団を退団するのは自由ですよね? もし、そんな苛烈な虐めが加えられたなら、退団してしまえば良いだけです」
彼女を更に安心させようと彼はそう続けた。ただ、そう言いながら“そんなにシンプルなものではない”とも彼は思っていたのだが。所属欲求。承認欲求。一度形成された人間関係を全て捨て去るのは意外に難しい。その集団に縛られてしまったなら、人間は大きく行動を制限されてしまうものなのだ。
「はあ……」と、それが分かっているからなのか曖昧に彼女は返事をした。心の何処かでは、劇団内の虐めを告発したいと思っているのではないかと火田はそれで勘ぐった。もっとも気が付かない振りをしたが。再び口を開く。
「それと、どうも世間的には、“虐めで人形を壊された”とはなっていないようですよ」
それを聞くと彼女は目を大きくした。
「そうなんですか?」
「はい。どうも“人形同士が勝手に争い合って壊れてしまった”という怪談の方が有名なようですね」
もし仮に“虐めで壊された”という噂が広まっていたのなら、小牧が知らないはずがない。仮にそっちも噂されているのだとしても、それほど広まってはいないはずだ。
その彼の説明に彼女は瞳を上に向けて一瞬固まった。そしてそれから、
「ああ、それですか…… 」
などと言って逡巡するような仕草を見せる。
「どうかしたのですか?」
「いえ、多分その“人形の怪談”の噂話、わたしが原因なんです」
「あなたが?」
どういう事だろう?
火田は首を傾げる。
「はい。劇が中止になって、子供達があまりに残念がるものですから、説明する為に“お人形さん達が喧嘩しちゃってね”って言ったんです。多分、そこから……。その……、変な噂話が立つのも嫌でしたから、何か言わなくちゃと思って」
“なるほど”とそれを聞いて火田は思う。彼女はさっきと同じ様に虐めの噂が広まるのを防ごうとしたのだ。
そこで火田は少し話を整理した。
森の話し振りからいって、恐らく劇団内では“虐めの一環で人形が壊された”と疑われている。しかし世間では恐らくその方が面白いからだろうが、“人形達が勝手に争い合って壊れた”という怪談の方が広まっている。
そう考えると疑問が残った。
どうして、情報を提供して来た英は、“虐めの一環で人形が壊された”という噂の方しか知らなかったのだろう? 知っていて敢えて話さなかった可能性もあるが、そんな理由はなさそうに思える。
――ならば、と火田は思った。
英は劇団内部の者達から直接この話を聞いた可能性が高い事になる。
「ところで、もしかしたらと思ったので聞いてみるのですが、英という女性を知っていますか? 珍しい苗字なので、そんなにはいないと思うのですが」
「英さんですか? 知っていますよ。劇団員ではないのですが、時々、差し入れなどを持ってきてくれたりします。わたし達のことも気にかけてくれたり。良い方です」
それを聞いて火田は“ほー”と思った。だから英は劇団の情報を色々と知っていたのだ。そんな印象は受けなかったのだが、もしかしたら英は本当に虐められている森達を心配して、新聞サークルに情報をリークしたのかもしれない。
ただ、ちょっとばかり気になった。どうして劇団員と知り合いである事を、彼女は火田に伝えなかったのだろう? その方が彼女からの情報の信頼性が上がると思うのだが。
……それに、彼女の情報リークで劇団が不人気になれば、虐められている森達も傷つくのではないだろうか?
そう彼が疑問に思ったタイミングで、森は口を開いた。
「英さんは、元々は駒根さんのお知り合いだったはずです」
「駒根?」
「はい。劇団の花形の一人ですね。とてもお綺麗な方ですよ」
そう言われて火田は思い出していた。確か劇団コトリホのサイトに写真入りで紹介されてあったような気がする。小顔の女性という印象くらいしか残っていないが。
「英さんは、駒根さんの事をとても高く評価していたそうで、この劇団に入るべきだと勧めたのも彼女だったと聞いています」
その説明に、火田は違和感を覚えた。
“高く評価している元からの知り合いが入っている劇団、しかも、自分の勧めで入れた劇団を貶めるような事を普通するか?”
仮に虐め問題をなんとかしなくてはならないと思っていたのだとしても、いきなり新聞サークルに情報をリークするような真似はしないだろう。
それから、彼は英から感じた狐のような雰囲気を思い出す。
“これは、また小牧辺りに訊いてみる必要がありそうだな”
そして、彼はそう思ったのだった。
「――駒根って女生徒を知っているか? 劇団コトリホに所属しているらしいんだが」
火田が小牧にそう尋ねた。
都合よく、彼女が気まぐれで新聞サークルに顔を出してくれたのでちょうど良いと思ったからだ。
すると、やはり彼女は駒根を知っていた。
「駒根さん? ああ、知っているわよ。有名だもの」
得意分野だと言わんばかりに口角を上げて話し始める。
「彼女、美人よね~。ひょっとして火田君も気になっちゃたりしているの? ライバル、多いらしいわよ」
「いや、そーいうんじゃねーよ。取材対象だ」
「取材?」
と、訊かれて火田は事情を話そうかと少し悩んで結局止めた。小牧は情報収集能力も高いが情報拡散能力も高い。伝えてしまったら、“人形の虐めによる破壊”の噂が広まってしまいそうだ。まだそうするべきネタかどうかは分からない。彼は「いや、ちょっとな」と言葉を濁す。小牧はやや怪訝そうな顔をしていたが特に気にしてはいないようだった。
「その話からして、やっぱり駒根はモテるんだろうな」
「そりゃね」
「将来的には芸能界を目指していたりするのか?」
美人として有名で劇団に所属していて花形の一員とくれば当然そうなるだろうと彼は思ったのだ。ところがそれを聞くと「ん~ どうなのかしらねぇ?」などと小牧は言うのだった。
「違うのか?」
「いや、わたしだってそこまで詳しくは知らないけどさ、劇をやり始めたきっかけは、高校の時の文化祭らしいわよ。ジャンケンで負けてヒロイン役をやって、周りから褒められたんだって。演劇の才能はあるのかもしれないけど、本気で芸能界を目指しているのだったらもっとちゃんとした道を選ぶのじゃない?」
その説明で火田は“確か、駒根が劇団コトリホに入ったのは英から勧められたからだったよな”と森から聞いた話を思い出す。それで、
「英って女生徒を知っているか? 駒根の知り合いらしいんだが」
「はなぶさ? ああ、なんとなく覚えがあるわね。珍しい苗字だから。その人がどうかしたの?」
「駒根が劇団コトリホに入ったのは、その英に勧められたかららしいんだ」
それを聞くと感心した様子で「へー」と小牧は頷いた。
「なるほど。納得できるわ」
「納得できるのか?」
「聞いている話だと、駒根さん、それほど演劇に興味があったとは思えないのよね。でも、周囲の影響を簡単に受けちゃうタイプらしくて。主体性がないって言うか。だからその人から勧められるままに入団しちゃったんじゃないの?」
「ほー」とそれに火田は返す。
「ところで、駒根は嫉妬もされていたりするのか? 周りの女達から」
「あー、そーいう話も聞くわねぇ。モテるから。嫌な話だけど」
「ふーん」
火田は思い浮かべていた。英みふるのまるで狐のような印象を。単なる印象に過ぎない。そう思いつつも、彼はこう考えていた。
“――俺があいつを狐のようだと感じたのは、あいつのあの時の顔が、誰かを利用したり騙したりするのを楽しんでいるように思えたからだ”
もちろん確証はない。
“……しかし、それならばどちらでも構わない記事にすれば良いんじゃないか?”
そのように火田は考えたのだった。
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大学新聞。
いじめっ子役を演じてしまう役者達。
――或いは、人間は根っからの役者であるのかもしれない。警察という役、犯罪者という役、会社員という役、親という役、子供という役。皆、それらを演じているに過ぎず、本当の自分などないのではないだろうか?
監獄実験という有名な心理学の実験がある。
刑務所を模した舞台を用意し、雇った人間達にそこで受刑者役、看守役を演じもらう。すると、役者達はあたかも本物の受刑者や看守のように振舞い始め、遂には実験の継続は危険であると判断され中止されるに至った……
この実験は実は近年では信頼性が疑われている。特に看守役の行動は指示や命令に基づくものであったという証拠の録音テープが残っており、所謂、疑似科学の類である可能性が出て来た。
――ただし、それでもこのような発想は我々にとって大きな警告の意味があるのではないかと筆者は考える。そのような性質が人間には少なからずあると感じているからこそ、このような実験が我々の中でリアリティあるものとして受け入れられて来たとも言えるからだ。
スタンレー・ミルグラムによる権威への服従実験では、偽の電気ショック装置のボタンを死の危険があると説明されたレベルにまで多くの人間が押してしまったという結果が出ている。つまり、人間は権威ある者から命令されれば殺人ですら容易に犯してしまいかねない事が示されたのだ。そして、実際、人類史を振り返れば、一部の権力者からの命令に従い、何の変哲もない普通の人間が大量虐殺を行ってしまった事例がある。
所属する個人に優劣を競い合わせる小社会。例えば、レギュラーの座を部内で互いに競い合わせる野球やサッカーなどの部活動では虐めが起こり易いというイメージがあるのではないだろうか? 優劣を競い合わせているのだから、劣等感や嫉妬、蔑視などの負の感情が発生し易くなるのは当然の話で、その結果として、虐めが起こり易くなるのではないかと簡単に想像ができる。
そして、そのような虐めが発生し易い小社会の一つには、“劇役者”の世界があるだろう。演技力の高さや、客からの人気を競い合い、役者達は重要な役の獲得を目指す。そこでは恐らくは政治的な駆け引きも頻繁に行われているのだろう。派閥争い、醜聞の流し合い、権威、スポンサーへの媚びへつらい。日々、役者達がライバルを貶める為に切磋琢磨しているだろう事は容易に察せられる。
もちろん、そこには“虐め”も含まれている。
そして、残酷で愚かで醜いと、恐らくは誰もが思うだろうそのような社会内では、意味があるとは思えない、多くの不幸が生まれてしまうのである。
――が、逆を言えば、それは“個人”に虐めの責任はないとも言えるのではないだろうか?
虐めを個人に行わせているのは、その社会なのだ。誰でも一度は経験があるだろう。皆で誰かの悪口を言い合う場面。誰かを貶すと気分が良く、どす黒い快感に支配され、しかも皆にそれを認めてもらえ、共感し、所属欲求や承認欲求が満たされる。
その“場の空気”に逆らい、「悪口を言うのは止めようよ」と皆を注意できるほどの勇気を持った者は滅多にいない。もし言えば、今度は自分がターゲットにされる事は目に見えているからだ。
だから“間違っている”と思っても、黙っているか、その場から離れる事くらいしかできない。
さて。
最近、とある劇団に“虐め”の噂がある。その劇団では花形のチームと、それ以外の2軍のチームに分けられ、2軍のチームは華やかな役は一切与えられず、大道具の整備や作成などの仕事も押し付けられている。しかし、その2軍のチームにもある時チャンスが与えられた。小規模ではあるが、子供向けの劇の公演が任されたのだ。
2軍チームは恐らくは懸命に努力をしたのだろう。その興行は見事に成功し、好評を博した。そして第二弾の企画が進められていた。
ところがだ。そこで妨害が入ってしまったのだった。重要な劇の道具が壊され、公演が不可能になってしまったのである。
確証はない。
がしかし、劇団内では2軍チームの成功をやっかんだ花形チームの妨害であるという噂が流れている。
もちろん、これが本当ならば間違った事だ。犯人は責められるべきだし、虐め問題の是正だってしなくてはならない。
ただ、これが“個人の責任”へと帰結すべき問題であるのかどうかについては筆者は大いに疑問を抱いている。
実はこの事件を筆者はとある情報提供者の手によって知る事になった。その情報提供者が本当に虐め問題に心を痛め、情報をリークした可能性はもちろんある。だが、それ以外の可能性も筆者は疑っている。
“朱に交われば赤くなる”
これは人間の抗い難い本能だろう。
だから、虐めを行う社会に所属してしまったのなら、ほとんどの人は虐めを行うか黙認してしまうようになるのだ。
そして、その情報提供者は自分の知り合いに、この虐め事件の起こった劇団への入団を勧めている事が取材を通じて発覚した。しかも、その劇団員は異性から人気があり、同性から嫉妬されてもいるのだという。更に、どうもこの役者は周囲の影響を強く受ける性格をしているらしい。
周囲の人間が虐めも行っていれば、それに従って、自分も虐めに参加してしまう可能性はかなり高いと予想できる。
筆者は、この役者を“虐めの加害者”として陥れる為に、情報提供者は情報をリークしたのではないかと疑っている。
仮にその疑念が間違いであったとしても、虐め問題で個人を責めるべきではないだろう。反省すべきなのは、虐めを行うような文化を醸成してしまっている社会であり、必要なのはそれを予防する為の文化を醸成する方策なのだから……
「何よ、この記事は!」
新聞を発行した次の日、サークル室に英が怒鳴り込んで来た。幸いと言うべきか、それとも予め他のメンバーがいない時間帯を彼女が狙ったのかは分からないが、火田以外には誰もいなかった。
「随分と怒っているなぁ」
「怒って当然でしょうが! まさか、こんな記事を書くなんて思っていなかったわ」
「俺はあんたの思っている通りの記事を書くなんて一言も言ってないぜ」
それを聞いて一瞬彼女は返答に窮したようだったが直ぐにこう続ける。
「あんた、こんな事をやっていたら、情報をリークする人がいなくなるわよ?」
火田は肩を竦めた。
「おいおい、うちは高が大学の新聞サークルだぜ? 元々情報をリークする奴なんてほとんどいないよ。別に金を稼いでいる訳でもないからそれでも困らないしな」
“……そして、だからこそ公平な新聞を書けるとも言える”と、彼は思ったがそれは口には出さなかった。
英は苛立ちを隠せない。
「いいわよ。そっちがその気なら、別の所に持っていって……、いいえ、私自身が虐めの実態を暴露してもいいわ」
などと訴えて来た。
「ほー、本当に良いのか?」と、それに火田は返す。
「“良いのか?”って何がよ?」
「この新聞記事で、俺は“虐めの犯人にする為に情報をリークした奴がいる”って書いたんだぞ? そんな事をすればお前がその情報提供者だって分かっちまうだろうが」
彼女は「なっ!」と言って目を見開いた。
「なら、他の所に持っていくわよ。私の名前を出さないでってお願いして」
「そうか? でも、うちには小牧っていう噂話好きがいてな? そんな事をしたら、あちこちで噂しちまうかもしれないぞ。お前が情報をリークしたって直ぐに皆に伝わると思うけどな」
その火田の言葉を聞いて彼女は黙る。しばらくすると彼を睨みつけながら口を開いた。
「あんたね…… 虐めを放置する気? ジャーナリストなんでしょう? 弱者の為に真実を伝えなさいよ」
「なんだ、あんた、さては途中までしか記事を読んでいないな? ちゃんと最後まで読んでから来いよ。俺にはあんたが思っているようなジャーナリスト魂なんてものはないがな、それでもメッセージを込めて新聞を作っているつもりだよ」
……近年に入り、社会全体でハラスメントへの問題意識が高まっている。それと共に一般企業でも対策が求められるようになって来た。そしてそういった社会的な動きに合わせ、一部企業では“人権意識の教育”や、“ハラスメント対策委員会”の設立などの対策が行われるようになって来ている。
“人権意識の教育”については説明するまでもないだろう。何が人権を侵害する行為に当たるのか、つまり、何がハラスメント行為に当たるのかを教え、そのような行為を慎むように諭すのだ。ただ、もう一つの“ハラスメント対策委員会”の設立については説明が必要かもしれない。
まずはある程度の発言力のある強い立場の者をハラスメント対策委員に指名する。そうでなければ、ハラスメントが行われていると報告を受けても対処ができないからだ。次にハラスメント対策が人事評価に直結する仕組みを作る。もし仮にハラスメントの報告を受けていながらそれを無視するような事があったなら、その社員の評価を下げ、反対にもし解決したなら評価を上げるのである。
このような試みに、全ての企業で成果があった訳ではないが、それでも成功例はあるらしい。
――つまり、少なくとも虐め問題は解決が可能なのだ。もちろんこれは虐め問題を“個人の問題”として扱っていない。その社会内全体の問題として受け止め、“虐めが発生しない文化”を醸成するよう努めているのである。或いは、学校教育の場でも、生徒達にそのような文化を醸成させる能力を養うような指導が求められるのかもしれない。
「――この新聞は劇団コトリホにも送ってあってな、返事もちゃんといただいている。劇団内での虐めが噂になっていると強調したからなんだろうが、参考にさせもらうってよ。その後、ちょっと調べてみたんだが、本当にハラスメント対策委員会を劇団は設立したらしい」
そこで言葉を一度止めると、火田は新聞を見せながらこう続けた。
「さっきあんたは、ジャーナリストだかなんだか言っていたがな、ジャーナリズムに適っていたっていたずらに他人を傷つけて良いって訳じゃないと思うぜ? 個人的な悪意の乗った記事なんてもっての外だ。できる限り多くの人にとって良い結末になるような記事を目指すべきだろう?
少なくとも、俺にとっちゃ、新聞ってぇのはその為のメッセージだ」
そう語り終える彼を英みふるは悔しそうに顔でじっと見つめていた。それから何かを言いかけたが、結局は止めると無言のまま外へと出て行ってしまう。
廊下の向こうへと彼女は消え、ドアが閉まる。それを見やりながら、「ふー」と彼はため息を漏らした。
“虐め”は社会現象。彼は今でもそう思っている。ただ、そこには個人の醜い感情が関わっているのもまた事実だ。
だからきっと社会的に対策を講じるだけでは足りないのだろう。個人への働きかけ、ケアだって重要になって来る。
英みふるのような人間を見て、彼は心からそう思っていた。
“どうすれば、虐めをしないでいられる人間を育てられるんだろうな?”
それから、もし、それが可能なのだとしても、それはきっと新聞だけの役割ではないのだろうなと彼はそう考えた。