第90話 三帝②
「に、逃げるんだ! 早く!」
百戦錬磨のセイドルの足が震えていた。
足がすくんで動けない者もいた。
目の前の魔物は、それだけの強者なのだ。
「わあ……脳みそ、いっぱい」
ドットルの嬉しそうな声。
「喰うのは、皆殺しにしてからだ」
それをダールが嗜める。
戦闘前の会話とは思えない、軽い口調だった。
「ぼくも……たべる……」
大きく口を開いて、ヂュラルも言う。
閉じていた口が一気に開く姿に、多くの人間たちはそれだけで気圧された。
失禁しているのもひとりやふたりではない。
「それにしても、この程度の者たちだったとは……これなら、百足公と戦っていたあの人間の方が、まだ強そうではないか」
ダールは呆れたように言う。
「だが、逃げないとはいい度胸だ……早速始めるとしよう」
正しくは『逃げられない』のだが、そんなことを指摘する者——できる者はここにはいなかった。
「好きなようにすると良い。ドットル、ヂュラル」
「……えぇ」
「……むぅ」
それが合図だった。
「〈神速〉」
ダールは自身がもつEXスキル〈神速〉を発動させる。
文字通り『目にも止まらぬ』速度で、ダールは人間たちに迫る。
人間たちは、ダールが迫ってくるのにさえ気づくことなく、死んでいく。
角で腹を突き刺し、後ろ蹴りで内臓を四散させた。
なす術はなかった。
「ぶぉおおおおおおおおおおおお!!!」
今度はヂュラルだ。
3メートルにも迫ろうかという大きな大きな口をいっぱいに開けて轟音を鳴らす。
ヂュラルが極めたスキル〈咆哮〉である。
もちろん、ただ音が大きいだけではない。
それは人間たちの心をポッキリと折った。
身体の奥底——芯の部分が震え上がり、悲鳴をあげるのを人間たちは感じた。
もはや冷や汗すら出ない。
このまま卒倒できればどれだけ楽だろうか。
だが、ヂュラルはそれすら許さない。意識すら逃がさない。相手に徹底的に絶望を与えるために極めてきた〈咆哮〉なのだから。
意識は妙にはっきりしている。この絶望を受け入れろと、ヂュラルは言っているのだ。心を壊すという最後にして最悪の逃げ道すら、ヂュラルは塞ぐ。
倒れてしまいたい。早く殺してほしい。
そんな願いすら、ヂュラルは聞き入れないのだ。
人間の絶望は、ヂュラルには愉悦だった。
ヂュラルはすっかり上機嫌になった。
ゆっくりと、人間たちに近づく。
〈糸操作〉
そして口から糸をだし、5人ほどを捉えて口に運ぶ。
ヂュラルはゆっくりと口を閉じると、今度は動かなくなった。
だが、僅かだが表情が綻んでいる。
ヂュラルは口の中で、生きたまま人間をゆっくりと溶かしているのである。
噛み砕くでもなく、飲み込むでもなく、大きな舌の上でじっくり溶かして楽しんでいるのだ。
絶望だった。
なす術はなかった。
ドットルは、脳啜りの種族スキル〈悪夢〉を発動させた。
〈悪夢〉は、相手にとって最悪の幻覚を見せるスキルだ。
相手の苦手なものや嫌悪するものを幻覚として見せる。
幻術ではなく幻覚。
だから、人それぞれ見えるものは違う。
だが全員が絶望を味わう。
〈悪夢〉というスキルはそれだけで終わりではない。
むしろここからが最も悪辣。
幻覚で見せられた絶望から逃れる術を与えるのだ。
逃れる術——それはドットル。
敵であるはずの術者を、自分を救ってくれる救世主かのように錯覚させるのだ。
すると——
「た、助けてください……あぁ、たすけて!」
「あぁ、もうだめ! 助けて! お願い!」
「だずげでっ! だずげでっ!!」
「あぁぁぁっいやだっ! いやだぁっ!」
『救い』を求めて、ドットルに寄ってくるのだ。
縋り付くように、人間たちはドットルまでやってくる。
「ひとりずつ、ね」
優しい口調は、間違いなく人間たちに安心感を与えたはずだ。
ドットルの脳みそがパカっと開き、イカの触手のように枝分かれする。
触手は人間の頭を包み込み——
「ぢゅるぢゅるるるるっ!」
脳みそを吸い上げる。
そこでようやく、人間は状況を理解し、最も深い絶望に陥る。
脳を吸われる間は、自分という存在がなくなっていく圧倒的な喪失感と、単純な激痛を感じる。
その一部始終を見ていた人間たちは、それでもなお、ドットルに助けを乞うのだ。
異様な光景だった。
なす術はなかった。
*
十数分も経てば、そこには人間はひとりも残されていなかった。
「全く……ヂュラルもドットルも、少し遊びすぎだぞ。時間がかかりすぎてしまった」
「……生きたまま……美味しいから……」
親に言い訳をする子どものような口調だった。
「……おいし、かった」
ヂュラルはどこか上の空で、先ほどまでの余韻に浸っているようだった。
「まったく……」
『やれやれ』とでも言いたげなダールだったが、彼が本気で怒ってなどいないことは、誰の目から見ても明らかだった。
「さて、仕事は終わったし、観戦にでも行くか」
「……かんせん?」
「あぁ。さっきの百足公の観戦だよ。彼、なかなか見込みがありそうだ」
ダールはニヤリと笑って言った。




