七話
伊織が嫁いできて早々、信康の来訪が大奥中に知れ渡った。
時間としてはたったの数分の出来事だったが、それでも城内の者たちには右往左往する程の大騒ぎだった。今まで絶対的な地位に君臨していた正室・松平令子にも成しえなかった出来事だったからだ。おかげで松平令子という存在が霞みつつあった。
信康が治める紀州国の家臣の割合は令子が輿入れとともに連れてきた将軍の息がかかった家臣団が8割。そして先代国主からの家臣が1割。残りの1割は浮浪人という構成だ。何故、令子が半分以上の家臣を連れてきたのか? それは信康による国主入替騒動があったからである。信康の父である先代国主は浪費家であった。そのうえ、紀州国は気候は比較的温暖であるが土地が痩せていたため、これといった特産物な無く常に財政難状態。そのおかげで幕府に依存しきっていた。そんな自国を変えようと動いたのが信康だった。だが、信康の改革に異を唱えたのが父を初め家臣たちだった。すでに幕府の操り人形となっていた先代たちは幕府に言われるまま信康を疎んだ。その結果、信康は反乱分子として幽閉されそうになったが情勢の傾きにより難を逃れた。激動の時代に救われたと言っても良い。異国船襲来に京での反乱。つまり内憂外患だ。このどさくさに紛れて信康は先代を蟄居させ、自分が国主に成り代わった。寝耳に水の幕府は焦った。将軍家に近い血筋の者が反旗を翻したのだから。
幕府はいち早く信康を危険分子と認め、監視を付けることにした。それが将軍の妹である令子だった。表向きは婚礼として令子を送り込み、裏では信康を監視する目的で家臣団を令子の護衛として送った。
「令子様、将軍様からお手紙が届いております。」
「――お兄様から?」
一瞬だが、令子の体が硬直した。
3つ年上の兄。遊んでもらった記憶はほぼ無い。どちらかというと兄の家鷹に会いに来る信康の方が言葉を交わす事が多かったので親しみを持っていた。
だからといって仲が悪い兄妹では無い……と思う。
――――ただ少しだけ。ほんの少しだけ苦手ってだけ。
「令子様?」
いつまでも手紙を受け取らない令子に御年寄の蔭山が声をかけた。
「拝見するわ」
令子は何事もなかったように振舞い手紙に目を通した。
やはりというべきか。内容は信康と先日、迎え入れた側室の件だった。
妹の健康を確認するでもなく心情を心配することさえしない。
ただ一言。
『鍋島伊織の行動を報告せよ』
――これだけだった。
私を体の良い密偵としか思っていないのだろう。
ならば、やることは一つ。
「――動くわ」
令子の声に反応して蔭山が頭を垂れた。
処世術の一つに長い物には巻かれ、という諺がある。
主人の敵は自分の敵と思わなければならない。
それが縦社会で生き抜くための術なのだから……。
「――準備は整いましたか?」
蔭山の号令に大広間の下座で待っていた侍女たちが畳に両手をつき一斉に恭しく一礼する。
緊張と不安が鬩ぎあう瞬間だ。
それを見届けた蔭山は令子に辞宣をした。
――パチン。
扇子の閉じられた音。それが合図だった。
「では、始めましょう」
令子の起立により、侍女たちも立ちあがる。横一列に並んでいた侍女たちが上座に近い者から順に両脇により、令子のための道を作る。
侍女たちの間を通った令子は大広間を出て左に曲がり、蔭山たちは主人とは反対の廊下を進んだ。