五話
ミツハの人生は七年前にがらりと変わった。自身の立場と容姿が真っ先に変化したといっても良いだろう。毎日、丁寧にとかされ結われていた黒髪は見る影もなく短くなり傷んでいるし、体は良い意味で丈夫になったといえる。夏の暑さにも負けづらくなり冬の寒さにも耐えられるようになった。自分がいかに守られていたかを痛感した。
――人々の当たり前が自分には全くわかっていなかったことを。
それでも何も出来なかった自分を厳は見守り続けてくれたし、渓谷は知恵を授けてくれた。しぶきは自分が忘れてしまった感情を取り戻してくれた。
だから三人の印象が自分のせいで悪くならないように精一杯、努めなければ――。
「はぁ~。ミツハちゃん大丈夫かな? 重たい物を持って手を痛めていないかな? 怪我なんかしていないかな?」
心配が尽きないしぶきが部屋を徘徊していると一人の男が机を乱暴に叩いた。
「目障りだ。じっとしてろ」
ご立腹だったのは、この部屋の主である信康だ。怒鳴りこそしないが普段より低めの声色だ。
「ちょっと、言葉が違わない? ここは『そんなに心配なら様子を見に行け』じゃないの?」
反論するしぶきに渓谷と厳が援護するように言葉を続ける。
「本当に気が利かない男ですね」
「余裕がないの~」
ギロリと睨んできた信康を恐れもしない三人はなおも悪態をつく。
「ねぇ、仕事する気にならないから帰って良い?」
「では私も帰ります」
「わしも気分が乗らないから帰るとするかの?」
九割方、脱力気分の三人に声を荒げたのは信康では無く、家老だった。
「お前ら、いい加減にしろ!!」
主に従うどころか敬う素振りもしない三人を怒鳴りつける。
「なんでお前たちは、いつもいつも反抗的なんだ!?」
「だって、主じゃないもん」
「主と認めていないですからね」
「仕えていないからな~」
キッパリハッキリ言われた言葉に家老の顔がどんどん赤くなっていく。あちこちで揉め事を起こし、他の役職頭から泣きつかれたため自分の手元に置いたのだが、もう限界に近い。何度も信康様に三人の処罰をお願いしたのだが、返ってくる言葉はいつも同じ。
「……放っておけと言われたから放っておいたらこの始末。お前たちが信康様に手をかけてくれれば忠義の名のもと手打ちに出来るのに――」
深く長い溜息とともに吐き出された本音に三人は再び揶揄する。
「こわっ! 手打ちって酷くない!?」
「いやですね。あなたたちにバレるようなヘマをするわけないじゃないですか」
「あんまり悩みすぎるとハゲるぞ?」
「――お前たち……」
家老の普段より低い声で再び説教が始まるかと思われたが、この日は違った。
「仕事の邪魔だ。お前ら、部屋から出てけ」
いままで静観していた信康が口を開いた。普段なら三対一の口喧嘩を聞き流すのに、珍しく介入する。いつもと違う日常に家老は驚くが、三人は「待っていました!」と言わんばかりに素早く身支度を整え部屋から意気揚々と出ていった。
こうして、この日はいつもより早めに幕が閉じられたのだった。
机の上に置いてあるほとんど終わりかけの書類を見て家老は頭を抱えた。
「はぁ~。優秀なのに、なんであんなに性格に難があるんだ?」
(あの三人を御せる人間が存在するなら、お目にかかりたいものだな……)
――くすくす。
……ヒソヒソ。
二の丸御殿の廊下を歩いている伊織は自分に向けられる視線や態度が二種類あると感じていた。
一つは嘲笑。すれ違う女性の大半がこの態度をとる。
もう一つは瀬踏み。こちらは男性と女性で様子が違う。どちらかというと男性の方が警戒しているといった方が良いかもしれない。
(――なるほど。これはまた……)
伊織は自分の婚姻に反対勢力と保留、つまり今後の立ち振る舞い次第で意見が分かれる可能性があるのを悟った。
同時に一抹の不安がこみ上げる。
(この婚姻は信康様の独断なのかしら?)
だとしたら、正妻が自分にした対応も頷ける。敵意を向けられても仕方のないことだ。幕臣同士の婚姻は幕府に報告しなければならないのだが、例外が一つある。それは、側室あるいは愛人を囲う場合だ。正妻以外、誰と婚姻したか報告の義務はない。信康は、そこを上手く利用したのだ。でなければ、幕府が圧力をかけきれていない七大国との結びつきを許すはずがない。幕府を一枚岩にするべく血の濃さで結びつきを強化したいのに、それを覆す行動をしたのだから。
「あ、あの――……」
伊織が考え込んでいると、控えめに声がかけられた。声をかけてきたのは伊織の案内人として前方を歩いていたミツハだった。
「私と一緒に居るせいで貴方様に不快な思いをさせて申し訳ございません」
「え?」
小声だったのもあり、うまく聞き取れなかった伊織は思わず聞き返してしまった。
「――周りの人たちから良く思われていないのは私なんです」
「それは違いますよ」と否定したかった伊織だったが、その機会は部屋に到着したことで回ってこなかった。
「ミツハちゃん、お帰り~」
伊織とミツハは元気な挨拶とともに襖から飛び出してきた少年・しぶきによって迎えられたのだった。
「紹介する。お前の付き人となる侍女だ。あと、おまけで大中小が付く」
部屋に入った途端、伊織は信康から四人を紹介された。一人はこの部屋まで案内してくれた同年代の女の子。残りの三人はいずれも男性で女の子と知り合いのようだった。
信康から二の句が継げられるのを黙って待っていた伊織だったが、待てども待てども信康は口を開かない。ちなみに二日ぶりの再会なのだが、気遣う素振りもなければ微笑みすらない。表情筋が全く仕事をしていない。
(もしかして、これで終わり?)
信康のあまりにも簡潔すぎる紹介に部屋の中の空気が重たい……。
さて――。誰が「大」で、どの人が「小」なのか? そのそも区分として年齢なのか、背の高さなのか、はたまた力の強さなのか不明のままだ。
とりあえず何も情報が得られないのは避けたいと思い、先手必勝とばかりに自らの名前を告げたのだが、怒号でかき消されてしまった。
「伊織と申します。よろしく――……」
「ちょっと! 何、その雑な紹介!? 何にも情報が伝わってないじゃん! せめて名前ぐらい伝えてよ」
おまけ三人衆のひとり、一番若く背が低いしぶきが抗議する。
続けざまに残りの二人も口を出す。
「――おまけですか。……ふふ。良いでしょう。甘んじて、その役目を受けてあげましょう」
「ふむ。力で考えればわしが一番強いが、背の高さでいったら渓谷だし……年齢順ならわしが一番、歳が多いから、やはりわしが「大」か?」
どうやら紹介された側も納得のいく内容ではなかったらしい。
「七年も一緒に居て長所の一つも見つけられないの!?」
「口下手というより単なる職務怠慢ですね」
「何事にも興味を持った方が人生楽しみが増えるぞ?」
再度、三人は紹介のやり直しを信康に要求するが信康は聞く耳を持たない。どう紹介されるか面白半分で待つ三人と何も言うことは無いと拒否する信康の溝は埋まらない。
ついには、おまけ三人衆の五月蠅さに信康は眉をしかめた。そして、ぶっきらぼうに言い放つ。
「――これが、口煩いやつで……あっちが腹黒。残りの奴は質が悪い。以上だ」
「以上だ、じゃないわ! 人の悪口、言っただけじゃん! 短所じゃなくて長所を紹介しないでどうすんのさ!!」
「貴方に本質を見抜かれるんは心外ですね」
「ん? わし、質が悪いのか? まっすぐな性分なんじゃがなぁ~」
話がまとまる気配がない空気に伊織は困惑した。
どうにも口を挟める気がしない。
(――とりあえず、三人の人となりは何となくわかった気がする……)
「え~と……」
その辺で――と声をかけようとしたら隣から小さな声が聞こえた。
「しぶきと渓谷と厳です」
短い単語に伊織が「名前ですか?」と聞き返すとミツハは小さく頷いた。
名前がわかったのなら次は誰が誰なのかを確認したいので伊織はミツハに質問した。
「三人の中で一番背の低い方のお名前は?」
「しぶき」
「腰まである髪の長い人は?」
「渓谷」
「では、一番がたいの大きい人が――」
「厳」
「ようやくお名前とお顔が一致しました。ありがとうございます、ミツハさん」
笑顔を向けてお礼の言葉を述べた伊織にミツハは目を見開いた。まさか自分に対して心優しい対応をしてくれるとは思っていなかったからだ。罪人の娘として日陰を歩かなければと思っていた自分に伊織の笑顔は眩しすぎた。
(伊織様は私のことを知らないから、このような対応をしてくれるだ……)
主従の壁だけではない絶対的な越えてはいけない境界線をミツハは感じていた。