二十二話
無事に部屋を出て新鮮な空気を吸い込み落ちつきを取り戻した令子は再び取り乱した。
「これはどういう事ですの?」
目の前には信康を初め伊織とその従者たちが勢揃いしている。警戒している令子の前に伊織が少し焦げた秋刀魚を差し出した。
「一緒に食事をしましょう、令子様」
まさに青天の霹靂だった。
嫁いでから言葉を交わす事は疎か食事もしたことがなかった夫と、その夫が連れてきた恋敵とまさか一緒に食事をするとは……。
「さあさあ、令子様。 こちらにお座り下さい」
「――ここ……?」
令子は思わず声をあげる。先程、連れ出された部屋から一歩も動いていないからだ。紛れも無くここは廊下。なんなら未だ魚の臭いが抜けきっていない状態だ。産れてこのかた廊下で食事をした経験がない令子は現実を受けとめられないでいた。
「廊下で景色を見ながら食べるのも乙ですよ」
「それなら雪見窓からでも良いんじゃ……」
「確かにそれも素敵ですが、 食事を運ぶ手間があるので今日はこの方法です! さあ、座りましょう!!」
「そ、そう……」
笑顔で押し切られた令子は勘念したのか予め敷れていた座布団の上に座りはじめた。そから先は早かった。何でこんな事に――と考える暇も無いぐらいに目の前に茶卓が置かれその上に食事が置かれ、あれよこれよという間に全員が茶卓を囲み「いただきます」をしていた。
いつもより遅い速度で食事をしていたら、信康に声をかけられた。
「好物は何だ?」
突拍子のない質問に令子の「え?」は普段の声音より低い。
(食事が進んでいないから質問したのかしら?)
令子にとって、質問の意図がわからなかったが無視するわけにもいかないので大雑破に答えるだけにした。
「え~と……甘いものが好きですわ」
「そうか。なら嫌いな食べ物は何だ?」
「そうですわね。 生魚は少し……」
「わかった」
信康はそれだけいうと塩辛い秋刀魚を口に運んだ。
二人の会話はこれで終了したが、伊織たちが賑やかにに会話を拡げる。
「甘いものがお好きなんですね! お饅頭は粒餡派ですか? それとも、こし餡派? おはぎは餡子ですか? それともきな粉? 胡麻も良いですよね!」
「僕はやっぱり粒餡派! 食べ応えがあって良いよね。」
「私はこし餡ですね。たまに口の中に残る皮の存在が嫌なんですよね」
「存在って……でも渓兄のそういう所、なんかわかる〜」
「わしは粒だな。この年になるときな粉が生命を脅かすからな~」
「それもわかる! いつだったか厳じい、咽せてたもんね」
「ああ! ありましたね~そんな事が。盛大に咽せてきな粉を部屋中にぶちまけた事件が」
「わかりますよ、厳さん。きな粉を食べる時に飲み物は必須ですよね。それで令子様は粒餡派ですか? こし餡派ですか?」
「――こし餡……かしら?」
問われた令子は、何とか言葉を捻り出した。よくここまで会話を広げられるわねと感心する。
そんな矢先、 信康がため息混じりに話しかけてきた。
「煩いだろ? こいつら……」
「えぇ、そうですわね」
「ちんたら食べているとおかずを持ってかれるぞ」
「え?」
(他人のおかずを持っていくって、どういう事?)
令子にとって初めて聞く言葉だった。目の前に自分の分が用意されているのに他人の分を欲しがるの?
令子が理解に苦しむこと――数秒……。
「このひじきの白和え、おいしい〜。 ほら、ミツハちゃんも食べてみてよ」
小さく頷いてからミツハが白和えを口に運ぶ。何回かの咀嚼を繰り返し飲み込んだ後、「美味しい」と小声で感想を言った。その言葉で伊織としぶきが笑顔になり渓谷が「もう少し食べますか?」と聞き、厳が信康に無断で口をつけていない白和えが入った小鉢をミツハの前に置いた。
「残すぐらいなら誰かに食べてもらった方が良いじゃろ」
「おい」
残したんじゃない。今から食べようと思っていたんだと信康が目で訴えるが、しぶきたちにはその思いは届かない。
ミツハが「これで大丈夫」と言って受けとり拒否をすると厳が自分の胃に収めてしまった。
「令子も早く食べろ。あいつらに取られるぞ。――本来、食事はゆっくり静かに食べるものなのに……」
信康の愚痴に令子は笑ってしまった。
「ふふっ」
(久しぶりに笑った気がするわ)
信康が表情豊かに拗ねてる姿や大人数で食卓を 囲む事。何気ない会話で盛りあがる事。 どれも経験した事がなかった。
初めは戸惑っていた令子だったが、今は新鮮で心が温るこの時間が苦ではなかっ た。
(――また、経験出来るのかしら?)
だが、令子の想いは届かず、この体験は最初で最後のものとなった。