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一話

「令子! この請求書は何だ!? お前はどれだけ人の金を使い込めば気が済むんだ?」

 大奥の一室に怒鳴り込んできたのは齢25歳にして紀州国の主、松平信康だった。将軍家に近い血筋の良さと精悍な顔立ち、細身ではあるが程よく付いた筋肉を華美ではないが質の良い小袖で隠している彼は本来、女性に人気があるはずなのだが、気性の荒さで自身の人気を下げていた。――最も、5年前に起きた浪費家である父親を押込(幽閉)した当主入れ替わり事件の冷酷無情な対応が原因なのだが……。

 そんな人物に臆する事なく松平令子は優雅にお茶を飲んでいた。

「令子!」

 再び夫に名前を呼ばれた令子は飲みかけの湯呑みを机の上に置く。

「あら? 私の名前をご存知だったんですね?」

 口元を扇で隠し、ゆったりとした口調で話す姿はまさに姫そのものだ。磨き上げられた美貌で笑みを作り信康に向ける。

 結婚してから5年振りに見る夫に盛大な嫌味をつけて――。

「話を逸らすな!」

 ――だが、信康には効果が無かった。登場した時と同じ声量で言葉を続ける。

「何でこんなに買い付けた!? しかも同じ種類のものを?」

「あら? 新しく側室を迎えるのでしょ? 私、何も聞かされていないので、その方の趣味がわかりませんもの」

 だから様々な種類の物を色違いで用意しましたのよ、と悪びれずに言い放った。

 十人十色。10人居れば10人分の好みがある。筆一本とっても毛の長さや硬さで好みが別れるのだ。それを会った事もない人物の好みを、どう把握すれば良いのかしら? と言外に含ませる。

「――私は、ここの主。ここでの事は私に一任なさるとお約束されましたよね?」

「一任をしたが全権を与えた覚えてはない!」

「ふふっ。嫌ですわ。私、そこまで強欲ではありませんわ。――ですが、女の事は女である私がよく知っているのですから、手を差し伸べてさし上げるのは当然の事ではなくて?」

「手を差し伸べるだと?」

 信康は眉をひそめ聞き返した。言葉通り受け取っていけない事ぐらい世論を見ていればわかる。男だって地位・権力・財力で争うのだ。女同士だからといって平和に事が運ぶとは思えない。

 信康は令子の思惑を図るため言葉を続けようとした瞬間――。

 パチリ。

 令子が扇を閉じた音だけが部屋に響いた。

 部屋の外で待機していた侍女たちは襖を開け信康に向かって頭を下げた。これ以上の長居は無用とばかりに退室を促す。

 ここは大奥という独特な空間であり、令子は将軍・松平家鷹の妹である。対して信康は一国の主だが、幕臣の身だ。否応なしに上下関係を認めざるを得ない。そのため信康は将軍家に楯突く事が出来ず歯を食いしばりながら、その場を後にした。



 令子と口論した数日後、信康は船上にいた。向かう先は本州から離れた場所にある肥前国。国内で外国との貿易を許された港を警備している大国の一つである。

「信康様、あと数時間で肥前国に到着いたします」

「わかった。下船したら、直ぐに築地に向かう」

「えっ!? 築地ですか?」

 当初の計画と違う目的地を伝えられた侍従は驚きの声を上げた。今回の肥前国訪問は公式訪問ではない為、必要最低限の同行者しかいない。そのため計画を変更されると道中の危険に対処できない確率が上がる可能性があるのだ。それを踏まえて侍従は行先変更の理由を尋ねた。

「築地に何かあるのですか?」

 肥前国訪問にあたって一通り地理は把握してきたつもりだ。

 (確か肥前城の北西に位置していたような……)

 何となく場所は把握出来たが、そこに何があるのかと問われても直ぐには思い出せない。仕方なく侍従は信康の言葉を待っていたのだが、沈黙が続いただけだった。横目に主人を見ても視線が合う事はなく、口を開く気も無いようだ。口数少ない主人の性格を知っていた侍従はこれ以上の追及を諦め、計画の練り直しを考えるのに専念する事にした。



 (――結局、何だったんだ?)

 信康に振り回れっぱなしの侍従は肥前城のとある一室にいた。

 信康に「ここで待ってろ」と言われ置き去りにされたのは、まだ良い。だって、お茶とお茶菓子があるから空腹にはならない。

 ――だけど、一人は寂しい!

 いつまでここに居れば良いのかも何をしに来たのかも知らないまま置き去りにされ、話し相手もいない空間でどうやって時間を潰せば良いのか、さっぱりわからない。幸い、糖分を摂ったせいか頭の回転は早くなったと思う。ここらで家老である父親から口酸っぱく言われている「三手先を読め」を真剣に実行してみようと思う。

 (築地に寄ったは良いが、周辺を彷徨くだけで何かをする事もなく人の往来を見ては早々に引き上げたんだよな〜)

 信康様に何度「あの〜」と声を掛けただろうか。だが、信康から返答は無く予定を変更してまで赴いた理由も必要性も全く思いつかない。

「……そもそも何でここなんだろう?」

 肥前国は確かに貿易で栄えている。だが、他にも外国と接触している国はある。肥前国と同じ長崎警備を任された筑前国。琉球王国と交流している薩摩国。朝鮮と付き合いが長い対馬国。蝦夷地との交易を独占している松前国。この中で大国として他の国から一目置かれているのは薩摩と筑前。他の大国はというと、陸奥国、加賀国、尾張国に自国の紀州国がある。どこも独自の政策で財政を立て直し幕府に依存しなくなったので一目置かれている。

「そういえば信康様が国主になってから活気に溢れるようになった気が……?」

 侍従はふと思い返した。ついこの間まで限られた食材しか市場に出回らなかった事を。

 (あの干し鮑、美味しかったなぁ〜)

 あれも食べたい。これも食べたいと考えていると廊下が騒がしいのに気づく。

「どうしたんだろう?」

 一瞬、「信康様が何かしでかしたのか?」と失礼な考えが頭をよぎったが近づいてくる女性同士の会話で杞憂だったと知る。

『姫様、お早く!!』

『やっぱり、これしか無いと思うの』

『駄目です! 絶対、駄目です!!』

『え〜』

『不貞腐れていないで、お急ぎ下さい!』

『だって、急いでいるんでしょ? なら、この方が――』

 襖越しに聞き耳を立てていたが、何とも賑やかな会話である。自分と信康様では、こんなに会話が続かないと断言できる。もはや、一言も交わさない時だってあるくらいなのに。

 侍従の興味は、すっかり外の世界に移ってしまった。女性達の様子を観察しようと襖を少し開けたら、自分より少し若い年齢の少女と目があった。

 同時に「あっ」と声を出す。

 次の瞬間、侍女が少女がたくし上げていた着物の裾を急いで下ろした。

「無礼者!」の掛け声とともに睨まれた侍従は「すみません!」と謝りながら襖を勢い良く閉めた。

 (どこにでも主人に振り回される人っているんだなぁ〜)

 侍従は慌しく遠ざかっていく足音を聞きながら同じ立場の侍女に、こっそり声援を送った。



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