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十七話

「ーー何なの、あの男......」

 令子は部屋に入るなり、文机に突っ伏した。

 もう顔も見たくない。話しもしたくない。

(私の気持ちも知らないで......)

 独りで冷めた料理を食べるのが良い? それのどこが良いの? 味の感想を伝えることも出来ず、日常の出来事について共有も出来ない事の何が良いの?

 令子の中で今まで耐えてきたものが、ガラガラと音を立て崩れていく気がした。

 自分は何のためにここにいるんだろう? 何をしに来たの?

 令子は引出しから筆と墨、そして半紙を取り、そのまま筆を走らせた。


『信康に二心あり』


 信康様は正室である私の事を蔑ろにして側室と仲良くやっています、という意味を書いた。

 いつも通りの短い文章だが、いつもより短い時間で書き終えた。

 それもそのはず。いつもは信康様のためを想って兄に当たり障りの無い文章を考えに考えて文を認めているからだ。

 でも今は違う。初めて信康様が困っても構わないという想いで書いた。

(これをお兄様に渡せば離縁させてくれるかしら?)

 お兄様の事だから初めは難色を示すかもしれない。でも、幕府に反旗を翻そうとしている国は他にもある。もっとも注意すべき国の一つである長州国の名をあげれば、ここを離れられるかもしれない。

 ーーだって、私は女だから。 どうせ政治の道具の一つにすぎないのだから。

 もう、心は決った。

(............ ここから離れよう)

 でも、実家より居心地が良かったこの場所を離れるのが辛いのは何でだろう……?

 一殺那、 襖の外から声がかけられた。

 令子は思わず書き終えたばかりの文を机の引き出しに仕舞い込んだ。

「令子様?」

 御年寄の蔭山が控えめに声をかけてきた。やっと帰ってきた部屋の主人の様子を伺いたいのだろうか。もう一度、主人の名を呼ぶ。

「令子様? 具合が悪いのですか?」

「...... 今日は一人で過ごすことにするわ」

「お加減が悪いようならお医者様お呼びしましょうか?」

「その必要はないわ。貴方たちに暇を与えるから、しばらくはここに近づかないでちょうだい」

「ですが......」

「命令よ。従いなさい!」

 語尾を強くし毅然たる態度を崩さない令子に蔭山は戸惑いを見せつつも従った。

「かしこまりました」

 蔭山の足音が遠ざかっていくのを確認し、令子は鏡に映る自分の姿を見た。

(一ー涙さえ出ないのね)

 令子は蔭山が来た事で一瞬で感情を切りかえられた自分に感服した。

 普段とは違う様子の主人に後ろ髪を引かれる思いで立ち去った蔭山は一度振り返った後、ある場所へ向かうべく足を進めた。




(ーー何故、殴られたんだ...?)

 信康は政務室の机の前で物思いに沈んでいた。思い返せば、ここまで辿り着いた記憶もない。

「書類に目を通した覚えがないから......今、ここに着いたばかりなのか?」

 政務机の上に置かれたままの手つかずの書類たちを見て、信康はそう判断した。

 だが――。

「ーー何で日が高いんだ……?」

 不思議な事に太陽が真上にあり影が短い。いくつかの違和感を覚えながらも、昼時を知らせる鐘が鳴ったので「今日はあいつらの話しが長かったから政務の時間がとれなかったんだな」と結論づけた。

 午後は集中しなければ……と気持ちを切り換え、信康は部屋を後にした。

 西の丸御殿に着いた信康は渓谷たちを見るや否や文句を言った。

「お前たちの話が長いせいで政務時間が短くなった」

 昼食の準備をしていた厳、渓谷、しぶきは一旦手を止める。「なんで喧嘩をふっかけられたんだ?」と考え込む事、数秒ーー。ブホォ〜と法螺貝が脳内で鳴り響き、各々戦闘体制に入った。

 まず先陣を切ったのは箸を並べていた渓谷だ。信康の足元に箸(物論、信康の)を手裏剣のように投げ畳に突き立てる。

「僕に喧嘩を売るとはいい度胸ですね」

 売られた喧嘩は全て買う主義の渓谷がとびっきりの笑顔で向かい撃つ。

 次いで次鋒のしぶきが台拭きを強く握りしめ逆切れしてきた信康に逆切れで対応する。

「今日こそ、その腐った根性たたき直してやる!」

 しぶきの怒号を聞きながら厳は卓袱台に置かれたおかず一品(勿論、信康の)を胃に収めた。無表情で無言なのが逆に恐い。

 理不尽な怒りを信康から向けられて黙っている事が出来ない三人と、いつもと違う自分に戸惑いを感じながら、この感情をどう処理すれば良いかわからず消化不良を起こしていた信康の面々はまさに一触即発の雰囲気だった。

 そんな殺伐とした空気に待ったをかけたのは伊織だった。

「信康様はいつもと同じ時間に政務室へ向かわれましたよ」

 四人の殺気に動じる事なく伊織は落ちていた声音で事実を伝える。

 そのおかげか冷静さを取り戻した信康は長い沈黙の後、「……そうなのか?」とミツハに聞き返した。黙ったまま頷くミツハに信康はようやく自分が変わらぬ日常を過ごしているのだと気づく。

「――そうか」と呟いたは良いが、どこか腑に落ちない様子の信康に伊織は席を勧める。

「信康様、とりあえず座りましょうか」

 勧められるがまま席に着く信康を見て、これはただ事ではないと考えた伊織はしばらくの間、信康を観察する。

(う〜ん……。 心、ここにあらずと言うよりも放心状態? ――いや傷心気味?)

 もともと口数が少ない信康だが、それでも嫌味を言われれば嫌味で返すくらいの気概はあった。だが、今はしぶきたちの止まる事ない小言が耳に入っていないのか無反応だ。

(――このまま、口を開くことは無さそうかな?)

 沈黙を続ける信康に伊織は声をかけた。

「この部屋を出た後、誰に会いましたか?」

 おそらく今の信康に「どうしましたか?」「何があったんですか?」と問いかけても答えられないだろうと考えた伊織は信康のこれまでの行動から原因を探ろうと試みる。

 だが、信康から返答はないままだ。

 伊織は根気強く問いかける。

「この部屋を出た後、二の丸御殿に行かれたんですよね?」

 まだ反応が無い信康に小刻みに行動を確認する。

「いつものように、ここで朝食を食べました。そして部屋を出ました。御橋廊下を渡って二の丸御殿に入って大奥に到着。 その後、中奥を通り政務室へと――」

「――――――――令子と会った……」

 伊織の言葉を遮り、信康がポツリと呟く。

 初めて反応してくれたことに伊織は思わず一驚するが、ここで大きな声を出してはいけないと思い一つ深呼吸する。

「まあ! 令子様とお会いになったんですね」

 なるべく落ちついた声音とゆっくりめの口調で返す。その甲斐があってか知らないが信康の方も整理がついたのか、衝撃的な一言を発した。

「殴られたんだ……令子に――」

 一拍の後、五人の反応はそれぞれ違った。

 伊織は仰天して開いた口元を両手で覆い隠し、ミツハは相変らず無口だったが、いつもより瞬きが多かった。

 女性陣は静かな反応を見せたのだが男性陣の反応は正反対だ。

「ヒュ~! やるね、お姫さん!!」

 しぶきが、よくやったと言わんばかりに口笛を吹く。

「なかなか見所がありますね」

 意味ありげな笑いを顔に浮かべる渓谷に何人の者が背筋が凍って動けなくなっていただろうか。

「踏み込む力はまだ弱いな。伊織嬢の方がその点では及第点か」

 武術指南をしていた過去を持つ厳は、信康の頬を見ながらつい指導者目線で感想を述べた。

 令子の意外な一面と信康の珍しい姿に話しが弾まないわけが無く……本人そっちのけで盛りあがる。

「腐っても鯛ってことか」

「単なるお飾りの姫ではなかったってことですね」

「でもさぁ~何で殴ったんだろうね?」

「どうせ、無神経な一言でも言ったんじゃないですかね〜?」

「うわ~ありえる!」

 しぶきと渓谷が正解を導き出そうとするが、当の本人が沈黙を貫いているので真実は分からない。ただ、厳によって意外な着眼点が見つかった。

「大して会ってもおらんのに殴られるとは、余程の事を言ったんじゃな」

 厳の一言でしぶきと渓谷が気づく。自分たちより付き合いが長く信康の性格を理解している令子を怒らす一言は何だったのかと。また、令子とはほぼ別居状態で会う機会も話す時間も無いのに、会って早々、喧嘩?

 ーーこれは、絶対この人関連だなと二人は伊織をチラリと見る。 正妻が側室を良く思わないなんて話はよくあるし、 信康が伊織と会っている回数の方がはるかに多い。

「……まあ、正妻の立場からしてみれば、面白くない状況だよね」

「そうですね。夫としても男としても最低最悪ですから、積り積った不満がここへ来て爆発したんでしょうね」

「これは仕方ないわ」

「ええ。遅かれ早かれ出る結末ですね」

 起るべくして起った出来事だと渓谷たちは結論づけた。問題なのは、ここから先だと渓谷は忠告する。

「一回、殴っただけで不満が収まるとは思いません。おそらく今後、伊織さんを標的にするでしょう」

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い――じゃな」

「その通りです。伊織さん、絶対に一人で行動しないで下さいね」

 渓谷は伊織に釘を刺した。令子があらゆる手段を使って牽制してきたら手に負えないからだ。おそらくお茶会のような忠告ではなく今度こそ、命の危険が伴うかもしれない。

 三人の真剣さに伊織は一瞬、考え込んだがこくりと頷いた。

 やや間があったのは、伊織なりに令子がそこまでしないだろうと思っていたからだ。

(――私の存在を邪魔だと思っているのは令子様じゃなく寧ろ……)

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