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十六話

 将軍の妹にして紀州国松平信康の正室である松平令子は幼少期より聡明さと思慮深さで人々を惹きつけてきた。それ故、才智が発揮される度に、「――男ならば、どんなに良かったか......」と言われてきた。

 それが令子にとって、どんなに屈辱だったことか――。


『世界は広いぞ。 いつか、その悩みを鼻で笑う時が来る』


 初恋の人がくれた言葉を胸に令子は視野を広げた。元々、天皇中心の強固な国をつくり、外敵を打ち払おうとする水戸学の教えを叩き込まれていたが、世界を知り列強国の存在を認識してから、自分の置かれている環境に疑問を持つようになった。だが、表立って動く勇気は無い。 ――ただ、憧れの人と同じ方向を見ている、という事実だけが自分の気持ちを少しだけ前向きにしてくれていた。

 時が経つにつれ、情勢は不安定になってきたというよりも複雑化したせいで安定しなくなったと言っても良いだろう。様々な思想が生まれ、人々が自己を主張するようになった。おかげで幕府は一枚岩では無くなり、頭角を現す国(人物)が出初めたのだ。

 商農業が盛んで幕府の覚えめでたい加賀国。琉球国との密貿易や西洋文化に力を入れた薩摩国。仙台米で市場を独占し海産物でも稼ぐ陸奥国。肥沃な大地を抱え新田開発で財政豊かな尾張国。そして天領である長崎の警備を任された肥前国に筑前国。これに信康が治める紀州国を含めた七国が他国から一目置かれている七大国である。一目置かれているということは別の見方をすれば最も警戒すべき相手でもあると言い変えられる。七大国のうち三国が将軍家と血の繋がりがあるが残りは利害関係で繋がっているにすぎない。

 もっとも血の繋がりがあったとしても後継者問題など身内同士で揉めることも少なからずあるため安心は出来ないのだが……。

 令子が信康の元に嫁いだ理由が、まさにこの不安要素に関係していた。年が近く従兄同士でもある信康と家鷹は何かと比べられてきた。似ている部分もあれば全く似ていない所もある。そのことが周りの評価を二分させた。

 ――本人達の預かり知らぬ所で......。

 周りが次期将軍を決めかねている時に、ついに事件は起こった。

 信康が父親に成り変り国主となったのだ。信康は自身の能力の高さを短期間で見せつけた。財政難だった国を立て直し、民の識字率を上げた。

 そして、どういう訳か信康が幕府を見限りるのも時間の問題だとさえ噂されるようになった。

 いつ牙を剥くかもわからない人物を野放しにしないため、監視という名の下に令子が嫁がされた。



 令子は西の丸御殿を眺め入っていた。

 ーー西の丸御殿。

 そこは信康の生活拠点だった。本来の居住空間である『奥』に住むのを拒否し、人目を避けるように移り住んだ完全なる私室。

(――私でも足を踏み入れた事がない御殿……)

 誰も立ち入る事が許されないと思っていた空間に最近、変化が起きた。

 一人の少女がもたらした転機は自分にどう関わってくるのだろうか……と最近、考えるようになった。

 脳裏に浮かぶのは彼女の笑顔。

(どうして、笑顔でいられるの?)

 初恋の人の元に嫁いだ時、私の心はどうだった?

(心は――踊らなかった......)

 昔のように会話が弾んだ事があった?

(喧嘩している時の方が会話が長く続いたわね......)

 信康様に求められ談笑している彼女とは、つくづく違うわねと物悲しい気分になる。

(――望んでいたことなのに......)

 父や兄、家臣に「見張れ」と言われたから?

 それとも、変ってしまった自分を見て欲しくないから?

 自問自答を繰り返すが、 いまだ納得の行く答えは得られていない。

「.......令子?」

 突然、名を呼ばれ振り向けば、ぐったりした顔の夫の姿が目に入った。令子は太陽の高さを確認し、そういえば政務の時間だったと理解すると同時に自分は何時間、この場に居たのだろうと頭を働かせる。

(まさか小一時間も時間が経っていたなんて……)

 独りの時間が欲しくて朝食後に生活空間である『奥』を何となく歩き回っていたが、まさか政務機関がある『表』の空間近くまで来ていたとは......。

(どう言い訳しようかしら?)

 そんな事を考えていると信康の方から言葉をかけてきた。

「何故、ここにいる?」

 いつも通りの高圧的な態度に令子は笑いを噛み殺す。

 無愛想に不機嫌。 それにつけ加えて独断専行。何故、私はこの男に魅了されてしまったのかと今更だが嘆く。

(――考えても仕方ない。私は私の役割を全うしよう)

 令子は短いため息をついた後、信康に向きあった。

「女は政治に参加するな、とおっしゃるんでしょう? 心得ておりますわ。 ですが、一つ苦言を呈しに参りました。伊織さんと仲睦しくなさるのは結構ですが、政務を疎かになさいませんように」

 正妻としての言葉なのか、将軍の妹という立場からの言葉なのか令子自身もはっきり線引きできないでいたが、言いたい事は言ったので、その場を立ち去ろうと踵を返そうとしたら、思いがけない言葉を耳にしたので思わず立ち止まってしまった。

「......それは俺に言ったのか?」

「はぁ?」

 いかなる時も冷静沈着を心がけていた令子だったが、この時ばかりは流石に素頓往な声を出してしまった。

「他に誰がいるとおっしゃるんです?」

「だから誰に言っているのかと聞いている」

「私の目の前には貴方しかおりませんが?」

「本当に俺に向かって言っているのか?」

「えぇ、そうです! 貴方に申しあげております!!」

(なんなの、この男!?)

 令子はこの不毛な会話の終りが見えず、ついに声を荒らげた。自分の私室に側室をあげ、食事を一緒にとり、談笑しあう姿を私に見せつけているのに自分の事だと思っていない? 馬鹿なの、この男は!? それとも私が馬鹿にされているの? 醜い嫉妬を見せるなと? 所詮、政略結婚だろと嘲笑われているの?

(こんな屈辱を味わうなんて――)

 令子は今すぐにでも、この場を去りたかった。

 だが長年の積り積った感情が今になって溢れ出す。このまま憎い感情を信康にぶつけてしまおうと睥睨した瞬間、思考が停止した。

(――なんなの? その表情は......)

 令子の目に映った信康は通常運転の無愛想な表情ではなく鳩が豆鉄砲を食ったかのような面持ちだった。どうやら、本当に自分の事だと理解出来ていない信康の様子に令子は侮蔑の視線を向ける。

「自覚が無いようなので、再度申しあげます。どこかの国のように女のせいで国を傾けるような疎かな真似はしませんように!」

 さすがに令子に面と向かった言われた信康は、今までの言葉が自分に向けられたものだと理解した。

 そして、次いで出た言葉が「食事は一人の方が良い」だった。


 バチン!


「ああ、そうですね! でしたら、いつも一人で食事をしている私は幸せ者ですね!!」

 昂る感情のまま、信康の頬を叩いた令子は一睨みした後、信康から離れた。 一刻も早く、この場から離れたい、あの男の顔を見たくない一心で令子は自室まで早足で立ち去ったのだった。


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