十一話
嬉々として厨房に来た伊織の姿に驚いた料理番たちは何事かと思った。
一瞬、思考が停止したと言っても良いだろう。
そもそも身分の高い人間が裏方のような仕事場に現れないし、ましてや腕と足を出すといった飛脚さながらの格好で魚を担いで登場するなんて誰が想像出来ただろうか? それに伊織に遅れてやってきた男三人の顔があまりにも憔悴しきっていて正反対だったからだ。
おかげで、誰もがこの先の展開を読めなかった。
事実、料理番たちはこれから起こる出来事を一切知る事が出来なかった。何故なら、渓谷により早々に厨房を追い出されてしまったからである。後に料理番たちは語る。「こんなにも怖いもの見たさで仕事が手に付かなかったことはなかった」と……。
声のみの実況が想像力を掻き立てたのだった。
厨房から料理番たちを追い出した渓谷は、そのまま扉から離れず扉の木目を数えるという現実逃避で自らの精神を落ち着かせようとした。
すーはー。すーはー。
深呼吸する音が部屋に響く。
音を出していた人物が声を張り上げる。
「――では、料理を始めたいと思います。いざ!」
伊織は右手に持った包丁をまな板の上の鯉に振り下ろそうとした。
その刹那――。
「ちょっと待った〜!!」
しぶきの大絶叫が耳をつんざく。
「もう、何ですか!? しぶきさん!」
「何ですか、じゃないよ! 一度ちゃんと確認させて。伊織ちゃん、料理したことないよね!?」
「失礼ですね。料理ぐらいありますよ」
「質問を間違えた。包丁を使ったことある?」
しぶきの気迫に負けじと伊織も血走った目で答える。
「見様見真似で出来ます」
「それ、包丁を使った事が無いって事だよね!?」
「私、要領が良いので大丈夫です」
「答えになってないから! やっぱり料理初心者じゃん!」
「初心者じゃないです。お手伝いした事あります!」
伊織が力任せに包丁を振り下ろそうとした時、再びしぶきが絶叫した。
「ぎゃあ〜〜っ! 左手! 左手は猫の手で!!」
「ちゃんと猫の手してますよ! びっくりするので大きな声を出さないで下さい!」
「猫の手で魚を押さえてって言ってるの!」
そこまで言われて伊織は初めて自分の左手が体の横から離れていないのに気付いた。
「…………ご指摘ありがとうございます」
何事も無かったかのように伊織は鯉を手で押さえ、頭上から包丁を振り下ろした。
鯉の頭と胴体が切り離されたところで再び深呼吸をする。
すーはー。すーはー。
次の工程を考えていると横からしぶきと厳によって包丁と鯉、そしてまな板が奪われた。
「はい、しゅ〜りょ〜う! 伊織ちゃん、ありがとう。あとはこっちで捌くから見ていて」
ミツハに手を引かれ二人から遠ざけられた伊織は頬を膨らませた。
「むー。あんまりです……」
何がいけなかったのか分からないまま伊織は二人の様子を見守っていた。
「厳じいもしぶきも料理上手だから大丈夫です」
ミツハの言葉に頷きながらも手際良く下処理をする二人に伊織は尊敬の念を送った。しぶき達の「とりあえず挑戦させれば満足するだろう」という作戦が水面下であったことを知らないまま……。