03 火:攻めつづける
十二月がやってきた。街は浮かれている。私は相も変わらずバスで往復の毎日だ。そんな中、日曜の昼過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。出てみると、山崎さんが立っていた。もう一人は弁護士だという。近くの喫茶店ででもお話をさせていただきたいとのこと。
タートルネックのニットとデニムパンツにコートを羽織り、スリッポンを引っ掛けて出る。スッピンだ。化粧で待たせるわけにはいかない。弁護士の乗ってきた車に同乗して数分の場所だった。
四人掛けのテーブルに向かい合って座る。山崎さんが窓側で弁護士が通路側。私は山崎さんと相対する窓際だ。注文したコーヒーが運ばれ、ひと通りの挨拶の後、弁護士が口を開いた。
「お嬢さんに犯罪を仕掛けたことは、幾重にもお詫びします。もし、暴行を告訴したいとお考えでしたら、お受けします。慰謝料もお支払いします。どうとでも、お申し越しください」
山崎さんは神妙にうなだれている。弁護士に叱責されたのかもしれない。えっ、お嬢さん? 聞き間違い? 誰の事? あははは、私のことよね。35歳の老嬢……。面映ゆくて仕方がない。
実害が無かったし、もう済んだこと。誠実に対処していただけたので満足している。忘れたと応えた。
「大変に厚かましいのですが、実はもうひとつ、ご了承をいただきたいことがあります」
そう前置きして、弁護士が話し出した。
手短に言えばこうだ。山崎さんは奥さんの浮気を以前から疑っていて、一人しかできなかった子どもの父親は自分ではないと感じていた。試しに、髪の毛で遺伝子検査したらアウトだった。了解の無い採取だから証拠にはならないし、子どもに罪は無いと諦めた。二人目が自分の子ならそれでいいと考えていたけれど、いくら待っても出来ない。そんな中、自宅のゴミ箱に避妊薬の箱が捨てられていた。浮気相手との子を二度と孕まないためだと勘繰った。HIVの感染経路は、それしか考えられない。
離婚と、父子関係不存在確認の交渉をしたい。そこで、養育費とか、相続とかの問題のカタを付ける。
ただ、それでは相手が不憫すぎる。夫の赴任先へ付いていかずに子育てしていたのは、近くに住む実の両親の世話があったからだ。母子が住んでいるマンションはそのまま二人に譲りたい。それと、彼女の精神的な負い目を軽くしてやりたい。一度は愛を誓い合った仲だし、子どもは可愛いかったのだ。
そこで、こっちのハンデとして、好きな女性が出来たという設定を考えた。それを隣りに住む、私が引き受けてもらえないか。一度、彼女の目に触れているから、信じ込ませやすいだろうという話だ。
なんじゃい、そりゃあ。なんか、回りくどい話ではある。しかし、浮気で生はまずいよね。生は……。たぶん、もう一つの穴を使ったのだ。感染率が一桁以上違う。
山崎さんが口を開く。
「憎んで当たり前だとは思うのです。でも、ボクにとっては何年も一緒に暮らした掛け替えのない身内なのです。出来るだけ辛い思いをさせないで、彼女が納得できる形で別れたいんです。何から何まで貴女に甘えてしまい大変に申し訳ないのですが、他に頼る方がいません。どうかお願いします」
まあ、私には手間が無い。どうぞ、と言っておいた。
別れ際に菓子折りを渡された。とても上等な落雁だった。
◆
なにも私には関係ない話だと思いこんでいたのだけれど、年が明けてしばらくの日曜日だった。予告も無く彼女の襲来を受けた。玄関扉の外で話を聞いた。唇の鮮やかなローズレッドが印象的だった。
「彼が惚れた女を見たかったのよ。なんだ。こんな地味が趣味だったのね。ガッカリ」
そう言うや否や、バチーン。頬に平手が飛んできた。「泥棒ネコ!」だそうだ。私は「申し訳ありません」と頭を下げた。気が済んだのだろう。すっと帰って行った。なるほど、これを予想していたのか。聞いておいてよかった。以後は子どもに八つ当たりすることなく、穏やかに暮らしてほしいものだ。
山崎さんて優しいのだな。事なかれ主義では決してない。
一時間ほどしてまた来客があった。山崎さんだ。玄関口で話す。
「来たんだね。申し訳なかった。あっ、その左頬、やられたんだな。ごめんなさい。そういう奴なんだ」
「大丈夫ですよ。痛みもすぐに引きました。蚊ほども感じません」
まあ、少し響いたけど、心配させるわけにはいかない。
「お詫びに今度、ディナーでもご馳走させてください。お誘いします」
その場で携帯の電話番号とアドレスを交換させられた。
二月になって、次の金曜日の都合を尋ねてきた。オーケーを出すと、駅前のタクシー乗り場で待ち合わせることになった。
出勤時は、スカイブルーのニットにネイビーブルーのパンツ。これらは二十代後半に買って一度だけ袖を通したのみだ。こんなものを持っていたんだと驚く。少し若作りだけどまあいいか。ベージュのトレンチコートを羽織る。いつもの一張羅。これしか持っていない。足には、先日、新調したローファーを履いた。
退社時の更衣室でリップにローズブラウンを引いた。グロスだ。
着いた先は、先日ランチをいただいた店だった。
「ここ、好きなんだ。ビジネスでも使う」
また雑談を重ねた。奥さんとは話が付いて、手続きが進行中だという。一緒になったのは27歳のときで、彼女は取引先の社員だった。強烈なアプローチを受けたという。彼女の憧れの三高、高身長、高学歴、高収入にドはまりだったらしい。山崎さんにとっても、美人だし、子どもの容姿が期待出来ると考えたんだとか。ははっ、話を単純化している風ではある。事実はもう少し複雑なはずだ。
チリ産だという赤ワインをいただいた。美味しかったのでオカワリをお願いしてしまった。山崎さんも強いようだ。
帰りもタクシーに乗った。行き先が同じだからね。運転手さんには夫婦と思われたかもしれない。ふふっ! ワイパーが忙しなく雪を拭っていた。
その後、金曜毎に誘われた。まあ、お好み焼きとか、ラーメンだけどね。その後は決まってスナック。お洒落なカウンターの、とある店が行きつけになった。カクテルの味も覚えた。そしてタクシーに同乗して帰宅。何度か続いた。
歳は七つも離れているけれど、こりゃあ期待させる流れだ。しかし私は傷物だ。堕胎経験者だから子どもは難しいかもしれない。華の無い容姿もコンプレックスだ。なんといっても相手はハイスペックなのだ。この時代、年齢差は問題ではないだろうが……。
私は男女交際……ふるー……なんて初めての経験だから浮かれていた。この関係を、もう少しだけ楽しみたい、もう少し、もう少しと先延ばしにしてしまった。お断りするタイミングを失した。
◆
四月になって、また誘われた。土曜日にドライブしようと言い出した。
私は意を決した。今日こそ、伝える。通勤と同じ地味な上下にオレンジのカーデガンを引っ掛けた。
レンタカーは、ファミリー向けのフォードア・セダンだった。これしか空いていなかったといった。行き先は、前から観たかったというカタクリの花の群生地。今が見頃らしい。
目的地には一時間ほどで着いた。疎らに木が生える林の地面に絨毯のように広がる赤紫が見事だった。可憐な花がウナダれているように感じた。ははっ、私みたい。
群生地に程近いレストランで昼食をとった。その駐車場の車へ戻ったときだった。ハンドルを握ったのに、なかなか出発しない。後部座席を振り向いたと思たら、ハンドバックを出してきた。ベージュにブラウンの縁取り。一目でブランドものと判る。あー、しまった。断るわけにもいかない。
「君に似合うと思ったんだ。もらってくれ」
私は十秒ほど固まっていた。口を開く。
「ありがとうございます。本当にうれしいです。これから毎日使います。ただ、もうコレッキリにお願いします。私は……」
ここで詰まった。山崎さんが、小さく唸る。
「なぜだ。理由を聞かせてくれ」
「自惚れていて恥ずかしいのですが、山崎さんは私に気がありますよね。私、その価値、ありません」
「どう、無いというのだ。具体的に教えてくれ」
「私、高二のときに堕胎しています。身体が完全ではないのです」
無言が車内を包む。言ってしまおう。
「強姦されたんです。さらに二十三のときにも襲われました。このときは緊急避妊薬のお世話になりました。ですから、あのとき、落ち着いていられたんです。ハスッパなんです」
んっ、と一呼吸を空けただけで、怒鳴り声が降ってきた。
「じゃあ、身体が大丈夫だったら、いいんだな」
そう言うなり、スマホを出して、どこかに掛けた。
「知り合いの産婦人科へ行く。今から向かう。そこで診てもらえ」
この人、ほんとに思考、即実行だ。一時間ほど走って、大きな病院に到着した。確かに看板には産婦人科とある。駐車場に着くなり、ドアを開けて、手首を掴まれ、引っ張り出された。ははっ、手が触れるのはあの日以来だ。裏口から入った。来るのは慣れている風だ。銀行の関係だろうか。院長室と書かれたドアをノックして入ると、貫禄のある女医が座っていた。傍らに看護師が立っている。
「単刀直入に言います。この女人と思い合っていて一緒になりたいのです。ですが二つ、障害があります。一つはボクで、HIV陽性なんです。これは、感染直後からそこの大学病院に診てもらっています。もう一つは彼女で、若い頃に堕胎した経験があります。それで妊娠できるかと心配しています。診てもらえますか」
一気にまくしたてた。えー、思い合っているのかー。合っているかなあ。
「担当医は誰なの。じゃあ大学病院からデータをもらうわ。いいわよね。ウチでスペルマの採取から濾過までできるの。任せなさい。特別病室が空いていたわね。あなた、そこで待ってて。お嬢さんはこっちよ」
ははっ、ここでも老嬢になってしまった。隣室に案内されて、とんでもない格好をさせられたり、採血もあった。月経についても尋ねられた。
「正確には経過を観察する必要があるけれど、今のところ、何も問題は無いわ。子宮は無キズよ。手際のよい医者で良かったじゃない。何人も産めるわよ。じゃあ、彼のところへ行ってよく話し合いなさい」
お礼を言って、教わった最上階の特別病室に向かう。応接セットに座り、結果を報告すると、
「よし、明日、君のご両親に会いに行く。どこだ」
絶縁状態であることを伝える。
「じゃあ、ボクの実家へ行こう。明朝八時に出発する。車はレンタル延長だ」
ああー、いつの間にか既成事実になっている。男女の始まりってこんなものなのだろうか。
「この部屋、たぶんだけど、採取に使うんじゃないか。あそこに窓がある。ベッドはキングサイズだ」
何だか分からないけれど、顔面の温度が上がった。
産婦人科の特別病室は、妄想以外の何物でもありません。
カタクリの花言葉は「初恋」「寂しさに耐える」とのことです。