02 林:たくらみは深く静かに
次の日も、バスを降りて同じく六時にアパートの階段を昇る。おっと、山崎さんが立っていた。ギクリとする。昨日のようなことは無いよね。無いはずだ。いや、有り得ない。そう心に言い聞かせて、少し手前から声を掛ける。
「こんばんわ。今日も暑かったですねえ」
何気ない素振りを装う。すかさず、
「大学病院を予約したんだ。明後日。
一緒に付いてきてくれないかな」
ははははっ、甘えられてしまった。42歳の男に……。私は保護者か。この人、相手の話を冷静に聞ける状況ではないからなあ。心配だ。奥さんには頼めないか。私も昨日、行ってやると口を滑らせた手前がある。
「ええ、いいわよ。何時?」
「ここを朝八時半に出て、バスに乗る」
「分ったわ。八時半ね。準備しとく。おやすみなさい」
「ありがとう。おやすみ」
ふう、またお礼の言葉か。こんな時刻に家にいたということは、休んだのか。夕食はコンビニ弁当かな。
翌日、上司に有給休暇を頼む。「へー、和田さんが年休とは珍しいね」と減らず口を叩かれた。これといった用事が無いから消化率が悪い。夏や冬は会社にいれば空調代が節約できる。咄嗟に「新婚の妹のところへ」と返す。三か月前の結婚時に話題としたのだ。そのときは日祝を利用したから、会社は休んでいない。もちろん、明日の休みはオーケーをもらえた。
今日は朝から晩まで落ち着かなかった。何度もトイレへ行った。用は無かったけれど、体を動かしていたかった。昨日は殺されかけた翌日だったというのに平気で過ごした。おかしい。
当日となった。スマホにセットした時刻の少し前に目が覚めた。起床して、パンと牛乳で軽くお腹を満たし、支度する。いつもの出勤時と何ら変わらない。ただ、男の人との外出など、中学のときの弟と以来だ。緊張してしまう。
グレーのトップスに、黒のワイドパンツとパンプス。安物のエナメル・ハンドバッグ。目立たず周囲に溶け込むモノクロームの定番コーデだ。いつもはポロシャツだけれど、今日はブラウスとした。ドレープパンツならシルエットがスカートと見えなくもない。男性と並んで歩けるよね。リップはマットのオレンジページ。少しフォーマルな感じを醸し出す。
八時半になったので、玄関を出て鍵をかける。山崎さんも出てきた。朝の挨拶以外は無言で停留所まで歩く。バスに乗っても無言。大学病院前で降りる。
呼ばれて診察室に入る。白髪に眼鏡の、見るからにベテラン医師だ。
「奥さんですね」
ああ、そういう設定だったか。事がことだけに微妙な間合いだ。運転免許証が必要なのかな。内縁だと誤魔化そうか。
「はい、妻です。一緒に聞いてもらいます」
私はただ、コクリと頭を下げる。これだけで済んだようだ。『妻です』。この言葉を胸の中で反芻したとたんに、心臓がバクンと音を立てた。組み敷かれたときでさえ感じなかった衝撃だ。山崎さんの声がリフレインする。『妻です』『妻です』『妻です』……。
医師の話は、すでに知っていた範囲を出なかった。手渡された小冊子を手に山崎さんは、じっと聞いていた。これで私のような素人の話でも聞き入れる下地ができたということだ。
感染の確率について熱心に確認していた。そうだよ。一回では百分の一でも、十回なら単純に見積もって十倍の十分の一に上昇する。それに他の病気に罹患していて皮膚にキズがあればさらに十倍、二十倍だ。
続いて、治療計画の話になった。薬が大変だけれど効果は抜群で、きちんと服用すればウイルスの濃度は限りなく小さくなっていきエイズは発症しない。そして寿命は一般人と変わらない……などを納得したようだ。ほら、心配することなんて無かったじゃあないか。子作りに関してもウイルスから精子を分離する技術が開発されたので、大丈夫とのこと。良かったね。
説明を聞き終わると、お礼がしたいと昼食に誘われた。病院前に待機していたタクシーに乗って、小洒落たレストランへ連れていかれた。こんなところは初めてだ。
ビーフステーキ・ランチがお勧めというので、小さめを頼んだ。山崎さんは、私の倍ほどの大きさだった。元気になってきたんだと確信する。
あれこれ、雑談となった。店内は空いていたから、迷惑をかけていないよね。
山崎さんの下の名前は、ハルノブ。漢字は、ヒガシに信用の信で、東信と書くという。「トウシン」としか読んでくれないとボヤく。
私も本当はノリコなんだけど、徳用品の徳の字を使って徳子。みんなは知っていても「トクコ」としか呼ばない。妹はヨウコで、曜日の曜の字を使って、曜子。二人合わせてトクヨウヒン、実家が酒屋で『和田酒店のオトクヨウ姉妹』って呼ばれたんですよと、唇を尖らせて見せた。ああっ、笑った。良かった。これ、自己紹介の定番ネタだった。使ったのは、いつ以来だろう。
銀行に顔を出すという山崎さんと別れて、近くのショッピングモールを覗いてみる。近年は通販ばかりで、こういう街歩きは久しぶりだ。スーツを新調することにした。
◆
いろいろ、昔のことを思い出したら、三か月前に結婚した妹の声を聴きたくなった。年休取得の言い訳にも使ったしな。裏付けを取っておくか。式と披露宴に出席したのだけれど、家族の誰とも喋らなかったのだ。ただ、顔を合わせただけ。唯一、話の出来る妹とも疎遠というのは流石に気が滅入る。メールで「都合のいい時に電話して」と送ったら、すぐさま掛かってきた。
直接、会いたい。明日、新居に来い。日帰りは無理だから泊って行け。お姉ちゃんが寝れる部屋ぐらいは用意する等と言い張る。確かに旦那さんは稼ぎが良くて、おまけに共働きだ。マンションでも広めの間取りらしい。たまにはいいか。明日は土曜日だ。オヨバレすることにした。
昼前にアパートを出る。白と黒の横じまのTシャツにグレーのカーデガンを羽織る。あとは通勤時と一緒だ。バスと電車と、さらに新幹線を乗り継いで、新婚家庭への到着は五時となった。夕飯は手のかからないピザを取ってくれた。重荷を感じないようにという気づかいが嬉しい。ビールで乾杯した。妹はイケる口。なにせ酒屋の娘なのだ。旦那さんは早々に音を上げた。私は近年、アルコールに御無沙汰だったけれど、ソコソコの相手が務まった。血筋なのだろう。というわけで姉妹で盛り上がった。
実家の商売は、酒類を縮小して清涼飲料水の自販機ベンダーへ舵を切っている。大手がひしめく市場に食い込めているらしい。相変わらず母が仕切っているという。ちなみに、姉妹の名前の徳子と曜子を名付けたのは母だ。いろいろと細かいタチなのだ。父は三年前に浮気がバレて、今は小判鮫のような生活。なにせ金を持たせてもらえない。ははっ、懲りない奴だ。その内、またぞろ仕出かすのだろう。
弟は、大学院で天体か何かを研究している。実家を継ぐつもりはないらしい。まあ皆さん、それなりだ。
お姉ちゃんに浮いた話は無いのかと聞かれて、どきりとした。「ないない、人生、フェードアウトの途上だよ」と即答しておいた。その後、共通の友人で盛り上がり、夜も更けた。子ども用に考えているという部屋で寝させてもらった。
翌朝は十時に起き出した。頭が少し痛い。旦那さんに新幹線の駅まで送ってもらった。乗り継いで最寄り駅に着いたら九時、コンビニで弁当を買った。作る気にはなれない。アパートの山崎さんの部屋は暗かった。
珍しく他人と触れ合った五日間だった。
確率の1/100が10回重なると、正確には1-(1-0.01)^10=0.096です。まあ、1/10といっても差し支えない数字でしょう。