表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/20

02 林:たくらみは深く静かに

 次の日も、バスを降りて同じく六時にアパートの階段を昇る。おっと、山崎さんが立っていた。ギクリとする。昨日のようなことは無いよね。無いはずだ。いや、有り得ない。そう心に言い聞かせて、少し手前から声を掛ける。


「こんばんわ。今日も暑かったですねえ」


 何気ない素振りを(よそお)う。すかさず、


「大学病院を予約したんだ。明後日(あさって)

 一緒に付いてきてくれないかな」


 ははははっ、甘えられてしまった。42歳の男に……。私は保護者か。この人、相手の話を冷静に聞ける状況ではないからなあ。心配だ。奥さんには頼めないか。私も昨日、行ってやると口を滑らせた手前がある。


「ええ、いいわよ。何時?」 


「ここを朝八時半に出て、バスに乗る」


「分ったわ。八時半ね。準備しとく。おやすみなさい」


「ありがとう。おやすみ」


 ふう、またお礼の言葉か。こんな時刻に家にいたということは、休んだのか。夕食はコンビニ弁当かな。


 翌日、上司に有給休暇を頼む。「へー、和田さんが年休とは珍しいね」と減らず口を叩かれた。これといった用事が無いから消化率が悪い。夏や冬は会社にいれば空調代が節約できる。咄嗟に「新婚の妹のところへ」と返す。三か月前の結婚時に話題としたのだ。そのときは日祝を利用したから、会社は休んでいない。もちろん、明日の休みはオーケーをもらえた。

 今日は朝から晩まで落ち着かなかった。何度もトイレへ行った。用は無かったけれど、体を動かしていたかった。昨日は殺されかけた翌日だったというのに平気で過ごした。おかしい。


 当日となった。スマホにセットした時刻の少し前に目が覚めた。起床して、パンと牛乳で軽くお腹を満たし、支度する。いつもの出勤時と何ら変わらない。ただ、男の人との外出など、中学のときの弟と以来だ。緊張してしまう。

 グレーのトップスに、黒のワイドパンツとパンプス。安物のエナメル・ハンドバッグ。目立たず周囲に溶け込むモノクロームの定番コーデだ。いつもはポロシャツだけれど、今日はブラウスとした。ドレープパンツならシルエットがスカートと見えなくもない。男性と並んで歩けるよね。リップはマットのオレンジページ。少しフォーマルな感じを醸し出す。

 八時半になったので、玄関を出て鍵をかける。山崎さんも出てきた。朝の挨拶以外は無言で停留所まで歩く。バスに乗っても無言。大学病院前で降りる。


 呼ばれて診察室に入る。白髪に眼鏡の、見るからにベテラン医師だ。


「奥さんですね」


 ああ、そういう設定だったか。事がことだけに微妙な間合いだ。運転免許証が必要なのかな。内縁だと誤魔化そうか。


「はい、妻です。一緒に聞いてもらいます」


 私はただ、コクリと頭を下げる。これだけで済んだようだ。『妻です』。この言葉を胸の中で反芻したとたんに、心臓がバクンと音を立てた。組み敷かれたときでさえ感じなかった衝撃だ。山崎さんの声がリフレインする。『妻です』『妻です』『妻です』……。


 医師の話は、すでに知っていた範囲を出なかった。手渡された小冊子を手に山崎さんは、じっと聞いていた。これで私のような素人の話でも聞き入れる下地ができたということだ。

 感染の確率について熱心に確認していた。そうだよ。一回では百分の一でも、十回なら単純に見積もって十倍の十分の一に上昇する。それに他の病気に罹患(りかん)していて皮膚にキズがあればさらに十倍、二十倍だ。

 続いて、治療計画の話になった。薬が大変だけれど効果は抜群で、きちんと服用すればウイルスの濃度は限りなく小さくなっていきエイズは発症しない。そして寿命は一般人と変わらない……などを納得したようだ。ほら、心配することなんて無かったじゃあないか。子作りに関してもウイルスから精子を分離する技術が開発されたので、大丈夫とのこと。良かったね。


 説明を聞き終わると、お礼がしたいと昼食に誘われた。病院前に待機していたタクシーに乗って、小洒落たレストランへ連れていかれた。こんなところは初めてだ。

 ビーフステーキ・ランチがお勧めというので、小さめを頼んだ。山崎さんは、私の倍ほどの大きさだった。元気になってきたんだと確信する。

 あれこれ、雑談となった。店内は()いていたから、迷惑をかけていないよね。


 山崎さんの下の名前は、ハルノブ。漢字は、ヒガシに信用の信で、東信と書くという。「トウシン」としか読んでくれないとボヤく。

 私も本当はノリコなんだけど、徳用品の徳の字を使って徳子。みんなは知っていても「トクコ」としか呼ばない。妹はヨウコで、曜日の曜の字を使って、曜子。二人合わせてトクヨウヒン、実家が酒屋で『和田酒店のオトクヨウ姉妹』って呼ばれたんですよと、唇を尖らせて見せた。ああっ、笑った。良かった。これ、自己紹介の定番ネタだった。使ったのは、いつ以来だろう。


 銀行に顔を出すという山崎さんと別れて、近くのショッピングモールを覗いてみる。近年は通販ばかりで、こういう街歩きは久しぶりだ。スーツを新調することにした。


         ◆


 いろいろ、昔のことを思い出したら、三か月前に結婚した妹の声を聴きたくなった。年休取得の言い訳にも使ったしな。裏付けを取っておくか。式と披露宴に出席したのだけれど、家族の誰とも喋らなかったのだ。ただ、顔を合わせただけ。唯一、話の出来る妹とも疎遠というのは流石に気が滅入る。メールで「都合のいい時に電話して」と送ったら、すぐさま掛かってきた。

 直接、会いたい。明日、新居に来い。日帰りは無理だから泊って行け。お姉ちゃんが寝れる部屋ぐらいは用意する等と言い張る。確かに旦那さんは稼ぎが良くて、おまけに共働きだ。マンションでも広めの間取りらしい。たまにはいいか。明日は土曜日だ。オヨバレすることにした。


 昼前にアパートを出る。白と黒の横じまのTシャツにグレーのカーデガンを羽織る。あとは通勤時と一緒だ。バスと電車と、さらに新幹線を乗り継いで、新婚家庭への到着は五時となった。夕飯は手のかからないピザを取ってくれた。重荷を感じないようにという気づかいが嬉しい。ビールで乾杯した。妹はイケる口。なにせ酒屋の娘なのだ。旦那さんは早々に音を上げた。私は近年、アルコールに御無沙汰だったけれど、ソコソコの相手が務まった。血筋なのだろう。というわけで姉妹で盛り上がった。

 実家の商売は、酒類を縮小して清涼飲料水の自販機ベンダーへ舵を切っている。大手がひしめく市場に食い込めているらしい。相変わらず母が仕切っているという。ちなみに、姉妹の名前の徳子と曜子を名付けたのは母だ。いろいろと細かいタチなのだ。父は三年前に浮気がバレて、今は小判鮫のような生活。なにせ金を持たせてもらえない。ははっ、懲りない奴だ。その内、またぞろ仕出かすのだろう。

 弟は、大学院で天体か何かを研究している。実家を継ぐつもりはないらしい。まあ皆さん、それなりだ。

 お姉ちゃんに浮いた話は無いのかと聞かれて、どきりとした。「ないない、人生、フェードアウトの途上だよ」と即答しておいた。その後、共通の友人で盛り上がり、夜も更けた。子ども用に考えているという部屋で寝させてもらった。

 翌朝は十時に起き出した。頭が少し痛い。旦那さんに新幹線の駅まで送ってもらった。乗り継いで最寄り駅に着いたら九時、コンビニで弁当を買った。作る気にはなれない。アパートの山崎さんの部屋は暗かった。

 珍しく他人と触れ合った五日間だった。

確率の1/100が10回重なると、正確には1-(1-0.01)^10=0.096です。まあ、1/10といっても差し支えない数字でしょう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小説家になろう【全年齢版】での同一作者の作品


前世もちのガラポン聖女はノダメ王子にスカウトされる(144分)
転生した先は魔力が存在しない似非中世欧州風異世界。そこで、名ばかりの聖女に当選してしまう。折につけて思い出す前世ニホンの知識を活かして職務に精進するも、お給金をアップしてもらえない。一方、ヘタレな第2王子は、ひたむきな彼女に惹かていく。そんな二人を引っ付けようと聖女の侍女と、王子の護衛がヤキモキ‥‥。◆敵役は出てこず、ぬるーい展開です。完結していますが、侍女と護衛の視点をところどころに追加中です。全体的に理屈っぽくて抹香臭いのは親からの遺伝です。特に17~19話の特別講義は読み飛ばしてください。20話は作者自身の転生願望です。


元気な入院患者たちによる雑談、奇談、猥談、艶談あれこれ ~502号室は今日も空っぽ:ギックリ腰入院日記~(74分)
父が1か月ほど、ギックリ腰で入院したことがありました。その折、同じ病室となった方々と懇意にしていただき、面白いお話を伺えたといいます。父はただ動けないだけで、頭と上半身は冴えているという状態だったので、ワープロを持ち込んで記録したんです。そして退院後、あることないことを織り込んでオムニバス小説に仕立て、200冊ほどを印刷して様々な方々に差し上げました。データが残っていたので、暇つぶしにお読みいただければとアップします。当時とは医療事情などがだいぶ変わっているかもしれません。辛気臭い書きぶりはまさに人柄で、見逃してやってください。題名に込められた揶揄は、整形外科の入院患者は身体の一部が不自由なだけで、他は元気いっぱい。いつも病室を抜け出してウロウロしているといったあたりです。


郭公の棲む家(16分)
里子として少女時代を過ごした女性が婚家でも虐げられ、渡り鳥のカッコウが托卵する習性に己が身を重ねる◆父がその母親の文章に手を入れたものです。何かのコンクールの第1次予選に通ったけれど、結局は落選だったと言っていました。肝心な彼女の生い立ちにサラッとしか触れていない理由は多分、境遇が過酷すぎて書けなかったのでしょう。設定時期は1980年前後です。


― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ