01 風:始まりは阿修羅の如く
全4回15,000文字ほどで、ハピエンです。『女郎蜘蛛の恋』から改題しました。
今日も暑かった。
でも夕方六時ともなれば陽が陰り少しは涼しくなってきた。九月だものね。
私は35歳、地方都市の機械工具店で事務員をしている。駅を中心に商店街が広がっていて、その裏の一角に通っている。帰りは駅前広場から15分ほどバスに揺られ、最寄りの停留所で降りる。そこから帰る道は田圃と住宅が混じり合った長閑な風景だ。あたりに虫の声が鳴りわたる。五分も歩くと我がアパートが見えてきた。二階建ての単身者用長屋である。それぞれの戸口に点る外灯が規則正しく並んでいる。私の部屋は二階だ。
階段を上がり切ると、玄関ドアを開けて涼んでいる男性が目に入った。長身中肉、山崎さんだ。その先の隣りが私の部屋である。彼は大手銀行の課長さんで、単身赴任の身だ。厄年と言っていたから42歳かな。半袖のワイシャツということは帰宅直後か。でも、こんなに早いご帰還は珍しい。何度も顔を合わせていて、会えば挨拶を交わす。バスでは二度、乗り合わせた。先日は奥さんが男の子を連れて訪ねてきていたな。
「こんばんわ。今日も暑かったですねえ」
と、声を掛けて、脇を通り過ぎようとした。あれっ、ちょっとこの人、俯き過ぎなんじゃないのか。ふと思った、
そのときだった。
突然、手首を掴まれた。あっと声を挙げる間も無く、口を塞がれて玄関の中へ引っ張り込まれる。戸を閉められ、そのまま床に組み敷かれた。
普通ならパニックになるところだが、私は慌てない。目を合わさずに、鼻のあたりに焦点を定める。相手は自暴自棄になっている。あくまで冷静にその原因を考える。使い込みがバレたか。いや堅実そうな男だ、それは無いか……。間をおいて男が口を開いた。
「抵抗すれば、絞め殺す。死体にして犯す。大人しくヤらせれば生かしてやる。あとで警察にでも訴えろ。オレはどうなってもいいんだ」
えっ、何があったの。順風満帆な、この男に……。身の破滅を招くような何が……。
「あなた、陽性者ね」
自然に、言葉に出た。沈黙が応える。図星か。
男の目から水滴がこぼれだした。何粒も何粒も、次から次へとあふれてくる。ああ、これを滂沱の涙っていうのか……。そのまま体勢を崩して、私の胸のあたりに顔を埋めた。声を殺して泣きじゃくる。鼻水交じりだ。私の胸が濡れていく。赤ん坊はアヤさなければ、などという思いが過る。
私が冷静だったには訳がある。襲われるのは三人目なのだ。もう慣れた。はははっ。この程度の修羅場では動じない。肝が据わっている。
一人目は実の父親だ。おぞましい。私の生まれた家庭は、田舎の酒屋で父親は入婿だった。そのストレスだったのだろうか。私が高校二年のときにヤられた。子ども部屋で何度も何度も……。終いには孕んでしまい堕した。母親に相手は誰かと詰問されたけれど、決して白状しなかった。弟と妹がいたし、家族が不幸になることが目に見えていた。もうこうなってしまったのだ。これ以上の悲劇は御免だ。復讐しても個人の気が晴れるだけだ。父親も懲りただろう。そんな風に考えた。そして、都会の短大へ進学して下宿生活を始めた。実家から離れられてホッとした。二度と帰らなかった。
二人目は、最初の勤務先の後継ぎ息子だ。小さな会社だけれど、堅実な経営だった。入社三年目、経理業務を任されていて、一人で残業中だった。突然、事務室へ入ってきて襲われた。翌朝、産婦人科医院へ駆け込んで緊急避妊薬を出してもらった。医者からは警察に告訴するための証拠を揃えるといって検査され、いろいろと訊ねられた。親告罪だというので、決心するまで待って欲しいと伝えた。
今度は表沙汰になってもいい。私が構うことでは無い。その足で、親の社長のところに乗り込んだ。息子の体液が染みた下履きを持って行った。即断即決で金庫から札束を出してきた。前科があったのかもしれない。五百万円分が五キロだと、このときに知った。どうせ脱税で貯め込んでいたのだ。これは今でも、部屋に隠してある。もちろん、別に正規の退職金が振り込まれて、おさらばした。
そのドラ息子が私をまさぐりながら吐いた言葉が耳にこびり付いている。
「お前が悪いんだ。巣を張って待ち構えている女郎蜘蛛だ」
男どもに目を付けられないように化粧は控えめで、服装だって地味なものを選んで着ていたというのに、どういう理屈なんだと訝った。まさか、「この手の女ならチョロい」と思わせてしまったのだろうか。
翌日、くだんの医者に示談が成立と告げたら、驚いていたっけ。
閑話休題。
男が泣き止んだ。覆い被さっていた身を起こす。
「すまなかった」
冷静になったようだ。その場に膝を抱えて座った。
「君の言うとおりだ。風邪だと思い病院に行ったら、HIV陽性と出たんだ。オレは妻以外とはヤったことが無いというのに……」
ここから無言。思い当たる節があるのだろう。私も起き上がって床に正座する。逃げようとは考えなかった。乱暴と脅しは最悪だったけれど、まとっている空気は優しいのだ。バッグからハンカチーフを取り出し、胸を拭う。ブラに滲みて乳首まで濡れている。
十分ほど経った頃に私は問いかけてみた。
「お医者さんは、なんて?」
「大学病院を紹介してもらった」
「じゃあ、行ったら」
また無言が続く。
「医療は日進月歩なんだから、術があるわよ」
まだ無言。
「一緒に行きましょうか」
自分でも呆れてしまう。母親じゃあないんだから……。どうして、こんな言葉が口を出たのだろう。
泣き出した。ははっ、人生最悪の一日なんだな。見回すと部屋の中には何も無い。ダイニングテーブルセットと、洋服を吊るす折り畳み式のクローゼットがあるだけ。寝床はその都度、敷くようだ。
「お腹、空いたでしょ。何か作ってくるわ」
もう、笑ってしまう。なんで、こんなセリフを吐くのだろう。返事を待たずに立ち上がり、部屋から出る。本来なら、このまま逃げるのが正解だ。そんなことは微塵も考えなかった。
急いで自室に入り、冷蔵庫を開ける。冷凍のスパゲッティーがあった。電子レンジに入れてダイヤルをセットする。ウインナー五つを半分に切って、ピーマンを細切りにし、ともにフライパンで炒める。チンと鳴って出来上がる。皿の上に盛り、箸でホグシて体裁を整える。パルメザンチーズの容器を持って隣りの部屋に戻る。
「簡単でごめんなさいね」
ダイニングテーブルに置き、シンクの横に見つけたフォークを添える。すると、ユックリと立ち上がり椅子に座る。
「ありがとう」
ははっ、喋った。グジュグジュと鼻をすすりながら、フォークを動かし出した。食欲はあるみたいだ。チーズ特有の匂いが室内に満ちる。コップに水を汲んで渡す。
「ありがとう。そこに座ってくれ」
ああっ、立ったままだった。食卓の向かいの椅子に座る。ティッシュの箱を寄せてやる。なんだ、なんだあ。世話焼き姉さんみたいだ。弟と妹のことを思い出す。
平らげると水を一口飲み、フウーと息を吐いた。落ち着いたようだ。
「ごちそうさん」
皿とフォークを流しへ持っていき、洗う。
「明日の朝に電話してみる。大学病院」
「それがいいわね。HIV、ネットを検索してみなさいよ。そんなに悲観したものじゃあないわ」
「ありがとう、和田さん」
また礼を言った。和田は私の苗字だ。階下の集合郵便受に書いてある。
「それじゃあ」
と言葉を返して、皿とチーズの容器を手に部屋を出た。
自室に戻り、自分用に冷凍チャーハンを解凍して食べる。気持ちがいっぱいで、これ以上に手を掛ける気力が湧いてこない。しばらくボーっとしてから、シャワーを浴びる。胸の涙は乾いていた。洗い流すとき、乳首に妙な感覚が走った。
ベッドに寝転がって考える。
私は辛い経験をしているから、こういう危険に関心があって知っている。一方、縁の無い人間には突然の告知は恐怖でしかない。山崎さんが受診した医者は、丁寧に説明したはずだ。けれど、パニックってしまい、耳に入らなかったのだ。殺人まで思い詰めた気持ちも解らないではない。
ネットで確認してみる。大丈夫だ。彼は生きていける。時計の針が十二時を回った。
作者が持つ医療知識はネット由来で中途半端です。ご注意ください。
2017年に刑法が改正されて、強姦罪は強制(その後、不同意)性交等罪に、また非親告罪となりました。