05
【切り子さん】の噂とは実に曖昧なものだった。
見た目がどうだとか、どの時間にどこに現れるだとか。具体的な情報はほとんど無く、気が付いたら其処に在るという類の怪異。特徴としては右手に鋏を持ち、出会った人の髪の毛を切り取るということと、全身真っ黒な格好をしていると言うこと。それ以外は、語られる人に寄って様々である。
いつの頃からこの【切り子さん】という怪異が出現したのか、詳しいことは誰も知らない。ただ、一時期噂になった「幽霊の写っている映像」から「黒い影」が消えて暫くしてから、この噂は徐々に広まっていったように思う。
それでも噂はあくまで噂である。【切り子さん】という怪異に本当に遭遇した人が実際にいるのかどうかを確かめる術は無いし、虚構は簡単に作り出せる世の中なのだ。誰かが本当と言えばそれは本物になるし、誰かが偽物だと指を差せば、それは嘘偽りとなってしまう。
ただの暇つぶしのエンターテインメント。
誰しもそう思いお手軽な恐怖を楽しいんでいるというのが実際のところだろう。
やがて、その噂も人々の記憶から薄れ消えていく。そんな感じで、噂が流行り盛り上がってから数ヶ月経った頃だった。
その日、愛実は怠い体を引きずるようにして帰路を歩いていた。
仕事の内容はバラエティ番組のゲスト出演。小さいものながらも一応地上波でオンエアされる番組は、これから注目されると思われるアイドルやアーティストをタイアップして、様々な企画を行うといった内容になっていた。
放送枠が彼女の余り経験したことの無い長さで、組まれたスケジュールにそってそれらをこなしていくことは思った以上に大変で。収録が終わった頃には気疲れも加わり、普段以上に強い疲労感を感じてしまっていた。
本来ならばマネージャーの女性に家の前まで送って貰うのだが、どうしても帰り際にコンビニに寄りたくなり、近所の店の前で下ろして貰う。
そろそろ深夜に近くなる時間の店内にある客の姿はまばら。寝間着に近い格好をした主婦の女性、残業が終わり帰宅する途中のサラリーマン、これから友人達と飲むつもりと思われる若い男性のグループ、雑誌コーナーで立ち読みをする壮年の男性など。そんな人々を避けながら、愛実は奥の棚を目指して歩く。目的は小腹を充たすための軽食と、ご褒美のデザート。時間としては食べるべきではないと分かっていても、空腹と疲労がそれらを寄越せと訴えるのだから仕方ない。ささやかな抵抗としてトクホマークが付いた苦めのお茶を一緒に手に取りレジへと向かう。レジの向こう側に立つのはバイトの青年だ。
「いらっしゃいませ」
そう言って爽やかに笑いながら、カウンターに置かれた商品のバーコードを読み取っていく。
「レジ袋はどうされますか?」
その言葉に「ください」と答え変更される合計金額。ディスプレイに表示された価格を確認した後、電子マネーで料金を支払う。
「ありがとうございました。またお越し下さいませ」
背後から聞こえるその声は、先程の笑顔と同じく爽やかで。もうすっかり夜だというのに、少しだけ清々しい気分を感じ崩れた表情。もう少し歩けば漸く我が家だ。身体は早く休息をと求めるが、愛実は頑張ってその距離を歩き始めた。
その違和感に気が付いたのは、家まであと数メートルと言うところにさしかかった時だった。
「…………てください……」
背後から聞こえてくる女性の声。その様子から、何やら揉めているらしいことは辛うじて分かる。
「……何?」
そこで浮かぶのは二つの選択肢。その声に気付かない振りをしてその場から離れるか、その声を確かめるために振り返るか。日が高い昼間の内なら迷わず振り返っていたかも知れないが、時間も時間だ。何が在るのかを確かめるのは怖いと感じてしまう。それでも、聞いてしまった以上見て見ぬ振りをして何が起こったのかを後で知るときの後悔が恐ろしいとも感じてはいるのだ。
結局、気付いてしまった時点で自分の負けなのだろう。意を決して振り返ると、愛実は声のする方へと声をかけるべく口を開く。
「あの……どう……か……」
「きゃああああああああっ!!」
言葉を最後まで言い終わる前に上がる悲鳴。慌ててスマホを取りだしライトを点け明かりを向けると、目の前の暗がりに髪の毛を掴まれた女性とその髪の毛を鋏で切り取ろうとしている男性の姿が浮かび上がった。
「なっ……何してるんですか!?」
気が付いたら身体が無意識に動いている。
突然光を当てられたことに怯んだのは、女性の髪を掴んでいる男性だ。驚いて見開かれた目が愛実の姿を捉えたと同時に、とても小さな声で何かを呟く。感じるのは身に迫る危険。咄嗟に切るシャッターに、オートで作動したフラッシュの光が辺り一面を明るく照らし出す。
「今、写真を撮りました。あなたがその人に危害を加える素振りを見せた瞬間、私は大声で叫びます。……ゆっくり、手を離して下さい」
これが正しい選択肢だとは思えなかったが、取ってしまった行動を無かったことにすることは不可能だ。精一杯の虚勢で演じる強い自分。気を張らなければ直ぐにでも、怖いと泣き出してしまいたくなる自分を叱咤しつつ、相手の出方を静かに待つ。
「………チッ」
暫しの沈黙の後、耳に届いたのは小さな舌打ちだった。
男は渋々掴んでいた女性の髪から手を離し距離を取る。
「大丈夫ですか?」
スマホのカメラは向けたまま。解放された彼女に向かって手を差し伸べると、愛実はこちらに来て下さいと指示を出す。
「……あ……」
愛実の言葉に小さく頷いた彼女は、怯えながら愛実の後ろへと移動し身を庇うようにして小さくなった。
「すいません。警察に連絡して貰えますか?」
「……はい」
相手が手にしているものは鋏。それは包丁やナイフに比べ殺傷能力が低いとはいえ、凶器として用いることが可能な恐ろしい刃物には違いない。漂うのは緊張感。少しでも隙を見せれば、状況があっさり悪い方向に傾いてしまう事は、何となく予想がついている。
「助けて下さい! 襲われているんです!!」
愛実の後ろからは、泣き声混じりの女性の声。恐怖のため上手く声が出せないらしく、何度も言葉に詰まりながら、電話の向こう側の相手に状況を説明している。自分の行動が相手の感情を逆撫でる可能性があることは理解はしている。もしかしたら、今日、この場で自分の人生が終わるかも知れない可能性も否定出来ない。それでも自分が選択した未来の先に見えるものはたった一つしかない。早くこの状況を変える何かが起こって欲しい。それを願いながら愛実は男と対峙を続ける。場に下りる暫しの沈黙。
「アンタさぁ、分かってんの?」
突然、目の前の鋏男が口を開いた。
「今、アンタ結構ヤバイってことに」
「何を言ってるんですか!!」
この男が何の意図を持ちそう言葉を口にしたのか愛実には分からない。確かに男の言う通り、愛実にとってこの状況は最悪な事は事実である。凶器を持った男性と、スマホを片手に虚勢を張っている女性。誰の目から見ても有利なのはどちらなのか一目瞭然だろう。
「あ…あなただって、リスクがあることは同じじゃないですか!」
それでも、愛実には目の前の男に背を向けてこの場から逃げ出すという選択肢を選ぶ気は無かった。
「さっきも言いましたけど、あなたが変な動きをしたら私、大声で叫びますよ! それは、あなたにとって拙いことなんじゃ無いんですか!?」
例え自分が刺されたとしても、誰かしら第三者にこの状況を把握さえして貰う事が出来れば、助かる可能性は上がるはずだと。無防備な姿を見せ背後から刺されるよりは、大声を張り上げここで犯罪が行われていることを周知する方がよっぽど良い。中途半端に関わってしまった以上、そうする事でしか自分の身を守ることが出来ない。
「大体さぁ、アンタ関係ないじゃん」
「それはどういう事ですか?」
男の言葉にそう返すと、彼は面倒臭そうに頭をかきながら、こう言葉を続ける。
「それ、俺の彼女なんだけど」
そう言って指を差すのは愛実の後ろで怯えてしまっている女性の存在。
「ただの痴話喧嘩なんだから、関係無いアンタが入ってくるとか、マジわけわかんねぇし」
取りあえず、返してくんない? 空いた手を差し出しながら男はそう愛実に告げる。
「彼女だからといって、鋏を持って脅しても良いってことは無いと思いますけど」
「はぁ?」
それが相手を煽る言葉になると分かっていても、その行為を肯定し彼女を引き渡すことが正しいとは思えないと。愛実は目の前の男を睨み付けながらそう断言する。
「大体、ソイツが髪をくれるって先に言ったんだぜ」
「何を……」
そう言いかけた時だ。
「電話をくれた方はどなたですか?」
近づく人の気配と懐中電灯の明かり。声のする方へ視線だけ向ければ、二人組の警察官がこちらに向かって駆け寄ってくる。
「わっ、私です!」
「ああ、あなたですか」
第三者の登場により一気に解ける緊張感。
「………クソッ」
目の前の男は嫌そうに顔を背けながら、持っていた鋏を手で隠す。
「何があったのか、説明して頂けますか?」
警官にそう問われ、愛実は今まであったことを順を追って説明し始める。帰宅途中で揉めている声を聞いたこと。気になって振り返ると彼女が男に襲われていたこと。彼女を助けるため止めに入ったこと。当然、愛実の取った行動は手放しで褒められるようなものではなく、「何事も無かったから良かったようなものの」と釘を刺されてしまった。それでも、怪我や事故に繋がらず、事件を未然に防げたことだけは褒められることだ。
「それでは、ご同行願いますか?」
彼女の恋人だと主張していた男は、警察へと任意同行を求められ素直に応じる。
「……あ、アンタさ」
別れ際、男が一度立ち止まり愛実を見て口にした一言。
「後できっと後悔するぜ」
覚えてろよ。
それが脅しなのか何なのかは分からないが、その言葉だけを残して、男は愛実の前から姿を消した。