オッサンでも青い夢を見る
「バッカじゃないの!?」
そんな声が聞こえた気がした。
もしかして、なんて思う間もなく視界が赤いグローブで埋まり――。
「うっ」
強い衝撃で、頭が強制的に揺さぶられる。
痛みは殴られたところだけではなく、全身余すところなく全ての個所から感じられるので今更気にする必要も無かった。
この痛みに屈して横になってしまいたい。
そうすれば楽になれる。
もはや数えきれないほど囁かれた悪魔の誘惑を、気合で跳ね除け、私は腕をあげた。
「よくやったよ、オッサン」
赤いボクシンググローブを着け、金髪を逆立てて、アメリカの国旗が印刷されたトランクスを履いた若造が何か言っている。
よほど殴り疲れたのか、両腕をだらりと下ろしていた。
「このっ」
それを隙と見た私は懸命に右拳を突き出す。
だが、触れることすら叶わなかった。
若造は軽くステップを踏み、私の拳はただ無意味に大気をかき混ぜる。
「だから――」
えぐりこむようなカウンターが私の腹を貫く。
三か月かけて少しばかりついた筋肉の鎧など、敵の攻撃の前には紙にも等しい。
以前の脂肪まみれのブヨブヨなビール腹の方がまだ衝撃を吸収してくれたかもしれなかった。
「おふっ」
衝撃が内臓をかき乱し、体の芯に響くような痛みが脳天まで達する。
「寝てろって!」
痛くて、痛くて、ただひたすらに痛い。
その上吐き気までこみあげてきてもう散々だ。
嫌だ、やめたい。
楽になりたい。
思考がそれだけで占められている。
だというのに、私はまだ立っていた。
目の上に出来たこぶに大きく視界が遮られる中、私は必死で敵を探し、見つけると同時にその方角へと突っ込む。
「んんぁぁっ」
雄たけびをあげながら遮二無二腕を振り回すも、やはりかすりもしない。
「マジで、やめとけ……よっ」
今度は鼻っ柱にグローブを叩きつけられた。
私の視界は歪み、鼻血は溢れ、顎はガクガクと揺れる。
その上更に二撃三撃と、ボディと顎に強烈なフックをお見舞いされてしまう。
――気づいたら、私はリングに倒れ伏していた。
そこでようやく、わぁわぁという大きな歓声が耳に入ってくる。
観客たちは口々に頑張れと無責任な言葉を発し、私に地獄へ戻れと急かす。
――ああそうだ。まだ、終わっていない。
レフェリーのカウントはまだ続いている。
意識を失ったのはほんの僅かな瞬間だけ。
私は気力を振り絞って何度目かのダウンから復帰する。
「まだ出来るか?」
レフェリーの顔は、もうやめろと主張していた。
これ以上勝ち目のない戦いをしても無意味だと、私に希望などないと、現実を見ろと。
だが私は頭を左右に振って、ノーと言ってやる。
私はまだ、負けていない。
負けていないのなら、勝ち目はある。
例え一発もパンチが当たらなくとも。
一方的に殴られ続けようとも、諦めなければ――。
そんな私の思考を遮るように、ゴングが鳴り響く。
与えられたつかの間の休憩に、私の胸は口惜しさでいっぱいだった。
「バカっ」
罵倒と共に私は汗まみれの腕を掴まれ、リングサイドへ引っ張られていく。
……いつもなら私のことを臭いだとか言って近づこうともしないのに。
「座って!」
大人しく言われ通りに従うと、声の主が、学生服を着た私の娘が、前面に回り込んで私の顔を覗き込んでくる。
「なんで、なんでこんなことするのよっ」
なんで?
まだ分からないのだろうか。
「急にボクシングなんて始めて……」
娘の瞳が見ているのは現実。
ただ苦しいだけの、今。
冷静に、諦めを以って、未来を見通していた。
「……クソくらえ」
「なに?」
ああ、知ったことか。
私はお前にそんなものなど見てほしくなかった。
諦めてほしくなかった。
現実に屈している姿など見たくなかった。
だから――。
「見てろ」
もう一度私は立ちあがる。
「父さん勝ってくるからな」
「はぁっ!?」
娘を押しのけ、私は前に出る。
気合十分。
辛い現実と戦う準備は万端だ。
「さあ……来いよ、若造!」
私は何度だって立ち上がる。
この作品は、ノベルアップ+のショート作品コンテストの為に執筆しました
現在は『悪役令嬢は婚約破棄され嘘の恋に沈み、廃嫡された元皇子の詐欺師は復讐を果たす』を連載中ですのでそちらもよろしければご覧ください