シュレディンガーの……
「下着がない……んですか?」
「う、うん……」
蒼白とするスズネ。その様子に、ユニもハナカへの文句を止めた。
そして、思い当たる真実を口にする。スズネの肩を軽くたたき、
「あー忘れちゃったんですね、どんまいです」
「違うから! つけてたから履いてたから!」
「恥ずかしがらなくてもいいんですよ」
「確かに忘れっぽいけどこれは忘れないから!」
理解者みたいな顔止めて! との訴えに、ユニも認識も改める。
ともあれ、バスタオル姿で停滞してても仕方ない。
スズネは着替えた。統計的には大部分の女性が装着する物をつけずに。
「なんでこんな目に」
幸い、スズネはスカートではなかったので、下半身に見た目的な問題はない。
しかし彼女は上半身の膨らみを気にしていた。先程の温泉でも、自己主張の激しいそれをユニは目撃している。
更衣室の外に出ると、ミツルが休憩スペースで待っていた。
「出てくるの遅かったね」
というセリフは先程ユニがミツルにぶつけたものだ。
しかし入ってたよ、気付かなかった? と質問で返されてしまった。
スズネは彼について疑問視せず、恥ずかしさで顔を赤く染めて、
「実は……たぎが……」
「何?」
「下着が、なくて……」
友人の切実な吐露にミツルは納得し、
「ああ、忘れちゃったんだね、どんまい」
「だから!!」
再び同じやり取りが繰り返された。
※※※
「下着、泥棒……?」
鈴音に助け舟を出してくれたのは花香だった。
厳密に言えばこれは、誰でも一番に思いつくことだ。
しかし、鈴音の友人たちは、さも当然のように自身が忘れたのだと決めつけて。
花香という大人に憧れてしまうのも、致し方ないこと。
「ここまで露骨なのは珍しいけどね」
「……初めてだから気付かなかったな」
小声で呟く。多川健康センターで自警活動を行ったことはない。
しかしここにも犯罪者はいる。
そして警察が仕事をしてくれるわけはなかった。
無論、犯人捜索などせずに、そのまま家へ帰るという選択肢は存在する。
しかしそんなことをすれば、
「ああやっぱり忘れたんでしょ。鈴音は物忘れ酷いからね」
「あー、やっぱりですか。落ち込まないでくださいね」
などと。
鈴音は気合を充填。
「絶対に見つけてやる……!」
「でもさ、どうやって?」
ミツルは面倒くさそうに呟く。その反応は普通だ。もっとも、なかなかエッチなシチュエーションだよね、などとほざいた瞬間に殴ったせいだと思われるが。
「さ、さぁ、どうしましょうね……」
と目を泳がしながら応じるユニ。彼女は一般人、しかも外国育ちなのでわからないのも当然だ。
「うーん、私もわからないかな」
申し訳なさそうな花香。大人の女性は、自身に非のない事柄でも誠実な態度を示してくれるのだ。
と、鈴音が感銘を受けていると、
「スズネさん、何か大いなる過ちを犯してません?」
「なんのこと?」
「いえなんでも……ええ、なんでもありませんですこと」
ユニの態度には引っかかるが、今重要なのは下着の行方だ。
鈴音は思考を回す。
手当たり次第カバンの中を見せてくださいと頼む?
一番堅実で確実な方法だ。犯人が逃走しておらず、また盗んだ品を隠したりしていなければ絶対に見つかる手法。
だが、悪手だ。最悪の方法と言っていい。多くの人間のプライベートを自分の下着程度のせいで侵すことになる。
それに、それにだ。もしかすると……。
(身に着けてたらわからないし!)
しかし下着を盗む変態のことだ。
脱ぎ立ての下着の感触を楽しむとか何とか言って以下略。
「なんかえっちな想像でもむげ」
気持ちを落ち着かせるために光を殴り、鈴音は考える。
「他のアプローチ……」
手当たり次第とは別の捜索。とすると、思いつくのは……。
「観察すればいいんじゃないかな」
「観察、ですか」
花香は定番だが、難易度の高い方法を呈示する。
「挙動の一つ一つを確認するんだ。そして並行して犯人像の推理もする」
「推理」
「私の下着は無事だった。可愛い妹のもね。なんでだろう」
もっともわかりやすい答えは。
「好みじゃなかった……から?」
「そうだね。現段階では、犯人は日本人の女子高生の下着を目的としていたことがわかる。間違えたり、その時の気分だった、とかでなければだけど」
「でも、ミツルさんは被害にあってませんが」
「まぁ僕のことは気にしないで、続けて」
ユニとミツルは置いといて、鈴音は推理を続ける。
「さて、周囲を観察しよう」
「……女子高生」
制服姿ではないが、似た年頃の女子を見つけた。しかし彼女は風呂上がりで、恐らくこれから食事処に向かうのだろう。
「はずれですか」
「そうでもないんじゃないかな」
「なぜです?」
「欲しいのは下着だったのか。それとも、女子高生が持つ何かだったのか……全く当てのない現状なら、とりあえず見ておくのは悪いことじゃないよ。それにこちらが心配なら、可愛い妹にこの場を任せよう」
「あーはい、いいですよ、ええ、うん、はい」
煮え切らない態度で、ユニは休憩スペースに座った。
「んじゃ僕もこっちでいいや。ユニちゃん、甘いひと時を過ごそう」
光は何か食べ物を買いに行った。言いたいことはあったが、ひとまず犯人探しに注力する。
女子高生の後を何気ない態度で追っていく。というより、花香について行っていると言った方が正しい。
花香の行動……自然に窓の外を見たり、お土産店屋を見回ったり、ゲームコーナーに興味を向ける……これらを真似することで、怪しまれず少女の後をつけられた。
「探偵でも、してたんですか……」
「そうだね、今は探偵をしてる」
「カッコいい……」
思わず本音が漏れる。綺麗で美人でカッコいいとは、完璧では。
「中に入っていくよ」
尾行対象が食事処に入ったので、二人も自然に振る舞う。
本格的な食事はせず、軽食のみを券売機で注文し、対象から少し離れた位置に座る。
位置取りも絶妙だった。こちらを警戒させず、それでいて相手のことは逐一把握できる。
としても、こちらが探すのはあの女子高生ではなく、下着泥棒。それとなく周囲を見渡す。
「怪しそうな男もいませんね……」
「先入観かな」
「え?」
花香はサンドウィッチを一口食べた。
「どうして男だと思ったのだろう、君は」
「いやまぁ、それは……」
常識的に考えて……。そんな鈴音の思考を花香は両断する。
「確かに割合的には男性が多い。これは統計に基づく事実だ。しかしね、今目の前に起きている犯罪がその通りなのかは、よく考えないといけないよ」
「確かに……」
「何かを探す時は、先入観を捨てなければいけない。先入観だけで見つかるようなところにあるなら、頑張って探す必要なんてないからね」
鈴音は今一度女子高生を見る。ラーメンを美味しそうに食べている。
とても美味しそうだ。
まるで一仕事を終えた後のご褒美のような。
(まさか……?)
「ちょっとトイレ行ってくるね」
「花香さん……あ」
花香はそそくさと席を立ってしまった。
鈴音は女子高生を凝視する。
今思いついた仮説を証明する方法。
直接対峙して問い質す? ダメな気がする。
慣れていればうまくいくかもしれない。しかし鈴音は素人だ。
花香ならどうするだろうか。花香なら――。
(いや、花香さんは言っていた)
自分として戦うべきだった、と。
できないことを無理にやってもいい結果にはならないとも。
(だったら)
自分の手を見つめる。
やったことはない。この力は戦いにしか使えないと思っていた。
だが本当にそうだろうか。この力を他のことに生かすことはできないだろうか。
(たまには他人を頼るのもいい……試して、無理だったらお願いしよう)
覚悟を決めて、息を吐く。
瞳に意識を集中。凝視する。
見る。鞄の中を。見透かす。浴衣の中に秘められた姿を。
そして。
「見つけた!」
「やった! 捕まえたよ!」
「お、やったじゃん。流石だね」
休憩スペースに戻ってきた鈴音の報告を、光は驚くことなく受け入れている。
ニクイ奴だ。わかっていたとばかりに笑っている。
それよりも気になるのは。
「あー、ですね、うん。はい、はは」
「ユニさん?」
なぜかユニの反応が鈍い。塩対応、という奴だろうか。
「びっくりしたよ。戻ってきたら捕まえてるんだからね」
「まぁ、なんというかちょっとアレな人でしたけど、話したらわかってくれてよかったです」
動機は女の子の温もりを感じたかったから、らしい。
あなたが何を好きかは自由だけど人の物を取っちゃダメ、と説教したら謝罪してくれた。もう二度としないだろう。
ちなみに鈴音の下着を身に着けていたが、同性ならいいだろう、とトイレで着替えてきた。
執拗に、もう一度着るの? と聞いてきたのは気になったけれど。
「これも花香さんのおかげです」
心からの感謝を述べる。花香は最高だ。
ずっと求めてきた人かもしれない、と思う。
自分のよき相談役に。
いや、それ以上の存在に。
「あの」
「何かな」
「もし、です。もしよければなんですけど」
ごくり、と喉を鳴らす。
何を伝えたいかを頭の中で反復。その想いを言葉に乗せて。
「私の師匠に――」
「あーっと!」
なぜだかユニが割って入ってくる。両手を広げて。
「ダメですスズネさん! だってこの人は私のし」
「し?」
僅かな沈黙。
「シスターですから、ダメなんです!」
「それって関係なくない?」
「ミツルさんは黙っててください!」
ユニは今まで見たことのないような剣幕で拒否している。
だが、気持ちはわかった。痛いほど、とても。
「そっか、大好きなんだよね、お姉さんのこと」
弟子なんて取ったら、姉との時間は少なからず奪われるだろう。
それがユニは嫌なのだ。完璧で高潔で素敵な花香との時間が減らされるのが。
「こんなに素晴らしいお姉さんだものね」
「は? 素晴らしいとかどこがですか頭に蛆でも湧いて――ふぐお!」
突然苦悶の声を上げて、ユニは崩れ落ちる。自分で自分を殴ってしまったのだろう。
そうとも。大好きな姉の悪口を、言ってしまったから。例え照れ隠しだとしても。
身体が、耐えられないのだ。そうに決まっている。
「残念だけど、そろそろお暇しようか、ユニ」
「く、うう……許すまじ」
「ごめんねユニさん。嫉妬させるつもりはなくて」
「だから違いま――ああいえ、またお会いしましょうさようなら!」
「またね、鈴音ちゃん」
投げやりな態度でユニは花香の後を追う。
「ありがとうございます、花香さん」
また一つ、力の使い方を覚えて。
鈴音は光と共に歩き出した。
※※※
「何回殴るんですか!」
「修行の成果はどうした?」
助手席に乗ったユニの抗議を、ハナカは軽くあしらう。
言いたいことは山ほどある。最近、こんなことばかりだ。
「スズネさんの前じゃばれちゃうでしょ!」
「人前でも気取られずに避ける方法を学ぶべきだ」
「全く、それに、危うく……」
「危うく?」
「兄弟子になってしまうところでしたよもう」
「確かに魅力的な提案だったな。どこぞの弟子と違い、師匠になるなんて間抜けなことは言わないだろうし」
「謝ったでしょ!」
「謝って済むなら警察はいらない」
ユニはため息を吐く。
「ディンさんの言った通りでした。外面は良い、良すぎる。まさかあのスズネさんが、カルトチックな眼差しを師匠に向けるなんて」
スズネの眼差しを思い出す。何かしらの手解きを受けたようだが、すっかり花香を大人の女性として認識しているようだ。
家に帰ったらどうせビールなのに。またもや深いため息。
「で、何を探してたんです?」
「探し物だ」
「だから答えになってないですって。というか……」
ユニはハナカを睨んだ。お見通しである。
「どこから仕込んでました?」
「さてな」
赤い車が発進した。
※※※
『方法を変えるべきだ』
「私は堅実に依頼を遂行していますが」
通信相手に、ガイは告げる。雑居ビルの屋上に吹く風はなかなか心地よかった。
『堅実か。お前の傍観がか』
「おや、ばれていましたか。でも仕方ないでしょう。私には、あのウィザード級らしきガンマンを捕捉する術がない」
『嘘だ』
「ははっ。メインディッシュを楽しむには、お腹を空かせておかねば。小競り合いばかり続けていても満足できませんからね。舞台は着実に整えられているでしょう」
『不安要素は排除する』
「私などよりもよほどあの人物を買ってらっしゃる。もしや……正体を知っているので?」
『お前こそどうだ?』
「いやわかりません」
『調査せねばそうだろう』
「私はネタバレが嫌いでしてね。うっかり調べて、殺し方まで導いてしまうのはつまらない」
『仕事さえこなせば文句は言わない。だが、そちらがそういう態度ならば、こちらでも動かざるを得んな』
「期待してますよ、依頼主殿」
通信端末をしまい、ガイは街を見る。
箱庭の街を。
「頑張ってくれよ、ウィザード級の。いや、ウィッチ級、と言い直すべきかな」
※※※
「コンビニに寄るぞ」
「ビール」
ジトっとした視線を、ユニが投げてくる。
だが、弟子を気にするハナカではなかった。
「アルコール禁止ですよ師匠! 私は降りませんからね!」
「ノンアルコールだから平気だ」
当然のように嘘を吐く。買うのはノンノンアルコールだ。
入店し、流れるように飲料コーナーへ……向かう前に。
「おい」
「うごっ」
雑誌コーナーで立ち読みしていた男の首へ手刀を浴びせる。
「一応は未遂だ。だからこの程度で済ませてやる」
崩れ落ちる男のポケットから零れ落ちる菓子類。ハナカの興味は最初からビールだ。
好きな銘柄を買い物かごにありったけ放り込み、レジへ直行。
何食わぬ顔で店内を後にして。
「あれ? 花香ちゃん?」
何気ない呼び声に立ち止まる。
自然な声音だった。いつもの日常のような。
だからこそ、不自然。
圧倒的な、違和感。
「誰かと、間違えているのでは?」
そうではないと自分が一番知っている。
ハナカの問いかけは、無意味だった。
呼び止めた存在に視線を向ける。
鼓動が高鳴り、発汗がする。ポーカーフェイスに綻びが出始める。
瞳が捉えたのは、長い黒髪。
双眸を覆う黒メガネ。
日本人的で、それでいて整った顔立ちの女性。
「いや……見間違いじゃないですよ。その顔、その声……かなり昔の話だけど」
その女性はハナカの間合いに流れるように入り込む。
接近を、許してしまう。殺せて、殺されるぐらいの距離へ。
「私は、覚えてます」
くるり、くるりと回る。ハナカの周りを。
「皆滝さん。皆滝佐奈……」
みなだきさな。
その名前は憶えている。
「そうです! 小学校以来ですね」
「ああ……」
「なんか……雰囲気変わりました?」
「変わらない方が怖いだろう」
小学生と成人して数年が経過した現在。
雰囲気を保ち続けて生きるのは困難なことだ。
しかし目の前の同級生の雰囲気は一切の変化がない。
そのように、見て取れる。
「だったら私はお化けですかね」
「久し……ぶりなのに、随分と馴れ馴れしいな」
「でも、私は昔からこうでした。覚えてません?」
「そう、かもな」
歯切れが悪く返答し、目を泳がす。
助手席から不思議そうにこちらを見ている弟子が目に入った。
「悪い、な。このまま立ち話を続けたいところだが」
「座って話しますか?」
「そうしたいのはやまやまだが、待ち人がいてな」
「ああ、そうですかそうですよね。私ったらご迷惑を」
「迷惑ってほどでもないが」
「そうですか? なら良かった。今度、時間がある時にお話ししましょう。花香ちゃんが転校した後のこと、知りたいです」
「転校……そうだな」
ミナダキは名刺を持っていた。花屋を営んでいるらしい。
後で連絡すると断って、逃げるように弟子が待つ車へと急ぐ。
「また会いましょうね、花香ちゃん」
「機会があればな」
夕陽が世界をオレンジ色に染めている。
車に乗り込んだハナカは、抗議する弟子を無視して発車した。
バックミラーに映り込む同級生を一瞥して。
※※※
「どうしちゃったんです、急に」
ユニの質問にハナカは答えない。しかとされているわけではなく、物理的にいないからだ。
コンビニから出てすぐ車を路肩に停止させ、ハナカは運転席から降りた。
用があるからお前は帰っていろ、と。
大量購入したビール缶入りのレジ袋を車に残して。
「何かあったんですか、もう」
昼間は機嫌が良かった。計画通りに進んだからだ。
しかしコンビニで過ごした数分間の間に、彼女の身に何かが起きた。
そして、それを弟子に伝えない悪癖は、まだ完全に治っていない。
(まぁあの時みたいな無茶はしないと思うけど)
それでもユニの弟子センサーが何かを感じている。
「とりあえず帰りますか」
ユニはギアとサイドブレーキを操作し、ペダルを踏み込む。
法定速度を順守した安心安全な運転。
無謀とは縁遠いお利口ドライブで帰宅する。
「ふんふふーん」
鼻歌混じりに右に曲がり、
「うわっひゃ!」
悲鳴と共に急ブレーキ。
曲がり角の先に人が直立していた。
否、それならば急にブレーキを踏むことはない。
突然出現したのだ。人間が、前方に。
金髪の、少女が。
「何してんですか危ないで――って、げ!」
「久しぶりね、ボンクラちゃん」
「クリスタ……って、え? な、何で流れる動作で助手席に」
クリスタは応じることなく、シートベルトを締めた。我が物顔で。
そうすることが世界の摂理のように。
「久しぶりね」
「いやだから。っていうか前に会ったの一週間かそこらぐらいで」
「久しぶりね」
「あ、はい、久しぶりですね」
これが対クリスタマニュアルの成果である。
「じゃあ、帰りましょうか」
「ですね、うん。行きますか」
ユニは車を走らせる。質問をぐっと堪えて。
だが、それでも、どうしても。
たったひとつだけ、聞かねばならぬことがあった。
「ところで魔術使いました? 許可証とか取ってます? 下手をすると――」
「マジックハンターなら今追いかけてきてるわ。けれど、大したことじゃないでしょう?」
「大したことです何やってんですか! 振り切ります!」
降って湧く理不尽に耐えながら。
今日もユニは、元気に生きている。
※※※
歩く。
飲む。
歩いて飲む。飲みながら歩く。
歩く飲む歩く飲む飲む歩く歩く飲む。
「酔えんな」
すっかり夜になった街の中、ハナカはふらふらとした足取りで歩いている。
しかしそれは酔っぱらったせいではない。
精神的なものだと、自覚している。
身体はアルコールを求めてやまない。
誘蛾灯のように、手近な居酒屋へ入り。
カウンター席に座り、ビールを頼む。
運ばれてきたビールのジョッキを掴むと口に流し込んだ。
「足りない……」
死亡リスクのある一気飲みを一人で行い、再度同じ酒を注文。
だが、少しして運ばれてきたのはビールではなかった。
「金を返せないだぁ? お前は人として恥ずかしくないのか!?」
「うるさいな」
奥の座敷から聞こえてくる説教は酷く耳障りだ。ハナカは席を立ち、座敷の襖へとゆっくり近づく。
「で、ですけど、返しても返しても、利子が……」
震える声音。その後に続く、威勢の良い説法。
「そういう契約だった。そうしないと生きていけないからと頼み込んだのはお前だよなぁ!」
「でも」
「でもじゃない! なぁ、あんた。真っ当な人間なら、借りた金はきっちり返さなきゃならん。そして、今の稼ぎじゃ払えないなら、身体で稼ぐしかない。そうだろぶべあ!?」
饒舌な言葉が間抜けな悲鳴に変化する。カウンター席から拝借した椅子が、借金取りに直撃していた。
その原因は開いた襖から中にいた借金取りたちを睨み付けた。
「高利貸しが道理を説くとは笑わせてくれる」
「なんだとお前!」
ガラの悪い男が苛立ったが、残念なことにハナカの方が苛立っている。
「お前たちが何を企んでるかは知ってる。そもそもその人が借金まみれになった理由もお前らだ。語る価値はない」
典型的なマッチポンプ。独自調査で犯罪者の顔は覚えている。
名前は知らないが。
「俺たちは人として当然のことを――」
「私は知ってるぞ。高利貸しは犯罪行為だ。そして、犯罪者は容赦なく殺していい」
「何言ってんだお前!」
「私は日本の法律に詳しいんだ。何せ……八歳まで日本にいたからなぁ!」
殴られる前に男を殴り、刀を持って襲ってきた男を蹴り飛ばす。
「銃刀法違反。死刑だな」
「だからてめえ気でも狂ってひっ!?」
スコフィールドを男の眼前に突きつける。
「裁判は必要ない。早速執行するとするか」
「よ、止せ」
ハナカはリボルバーの引き金を引く。
硬直する男たち三人ではなく、隣の部屋に向けて。
「ぐああああああ!」
「殺意がうるさすぎるぞ、素人め」
銃を構えていた伏兵の腕を撃ち抜くと、泣き言を喚きながら男たちは逃げて行った。被害者が蹲っていた方へ目を向けるが、彼女はいなくなっている。
それ自体は構わない。感謝を目的とはしていない。
「ビールはまだか」
席に戻り、カウンターの反対側にいるはずの店主を見る。
消えている。厨房にも人の気配はない。
蜘蛛の子を散らすように。店からは誰もいなくなっている。
「くそっ、いつからこの店はセルフになった」
毒づいて立ち上がり、空ジョッキにビールを目いっぱいに注ぐ。
席に着いて半分ほど飲んだところで、
「こんばんは」
誰もいないはずの隣席からあいさつをされた。
灰色のスーツ姿の男だが、サラリーマンの気配ではない。
「この店は最悪だぞ。自動販売機の方がまだ親切だ」
「でも、ここでしか飲めない酒もあるからね」
などと言いながら、男は酒を嗜む様子はない。
「せっかく隣の席になったんだし、少し話を聞いてくれるかな」
「いいだろう。酒の席に昔話はつきものだ」
ハナカはとりあえずビールを空にして、ビールサーバーに三杯目を取りに行く。
「僕は昔、大きな過ちを犯したんだ。仲間を信頼――いや、盲目と言うべきかな。僕の目が節穴だったせいでね」
ハナカはビールを味わう。まだいける。全然飲める。
「当時の僕は今ほど強くなかった。いや、今も強い、とは思わないけれど、それでもあの頃よりはマシだったはずだ。だからかな、妥協してしまった」
四杯目。身体が温まってきたので、上着を脱いだ。
「方法は違えど、彼らも同じ理想――目的のために動いている。だから大丈夫だ、と。そして、よもやそこまではしないだろうと」
サーバーとカウンターを行き来する。
「だから、気付いた時には手遅れだった。彼らは、自分たちの理想を成し遂げるために、生贄を捧げた。それも年端のいかない――小学生の女の子を、敵に明け渡した」
ガラスが割れる。手が滑って落ちた空ジョッキを拾う気にはなれない。
新しいジョッキが男から差し出されて、それにビールを注ぐ。
「確実に守れた。事件を予防することは容易だった。だが、それでは状況が動かない。彼らはそう思ったようだ。しかし、どうやらその子は一種の問題……障害、とも言うべき欠陥を抱えていたようでね。結局、向こう側の人間にすら、不要と判断されてしまったらしい。そんな人間を、わざわざ取り返そうとする者はいなかった」
一気に二杯飲み、この店ではもう九杯目。流石に酔いが回ってきたが、知ったことではなかった。
ハナカは、何も知らない。見たことも聞いたことも、体験したこともない。
「誰の願いも叶うことがなく、ただ一つの悲劇が生まれてしまっただけだった」
「それは実に悲劇的だな」
震える手でジョッキを運び、カウンター席に着いた。
「もしその子がこちら側に……日本に戻ってきた時は、きっと素面じゃいられないだろう。過去の記憶を薄めるため、何かで気を紛れさせているはずだ。大量に酒を飲んで、酔っぱらったりしてね」
「それで人に当たったりな。厄介なアルコール中毒者だ。私は関知しないが」
男は淡々と語り続ける。他人事のように。
されど、全ての責任は自分にあるとでも、言わんばかりに。
「ちょうど君ぐらいの年頃のその女の子は、きっと僕たちを、そして日本を……人類を、恨んでいるだろうね」
ハナカは十杯目のビールを口に流し込む代わりに、言葉を吐き出した。
「私はそいつじゃないから、何とも思わない」
「そうだろうね」
「まぁ仮に、もし私がその被害者だったらの話だが。私なら、恨んだりしない。そんな時間はない。仕事で忙しいからな。それはお前も同じはずだ」
ハナカはこの店最後のビールを喉奥に注ぎ入れる。
「気にしている暇があれば、仕事をしろ。もう二度と、同じような人間を出さないために」
カウンターに現金を投げ置き。
ハナカは店を後にする。
逃げるように。否。
ふらつく足取りで、逃げている。
「そうだね、うん。わかっているよ、天音花香」
店からは誰もいなくなっていた。