五月の勇者はあめを愛せるか否か
じわじわと追い立てられる様に気温が高くなっていく。
暑いのが嫌な訳では無く、正確には、極端な気温が嫌いだった。
暑いのも暑過ぎるのも、寒いのも寒過ぎるのも、大嫌いだ。
制服の襟を広げながら、春の花の甘い匂いを纏った風が変わるのを感じている。
自然の変化には敏い方だった。
人一倍マイペース故に、自分のペースを決して崩さないこの頑固さを我儘と称されるものの、現在まで問題無く生きており、投げた視線の先では芝生が青を深くしている。
誰にも自分の領域を侵されないからこそ、慌てず急がず、しかしそれでいて遅過ぎずやって来る次の季節に敏感なのだ。
いつか幼馴染みが言っていたそんな様な事を思い出し、スン、と鼻を上下した。
香ってくる風は湿度を孕み、それでいてこれからやって来るであろう雨を匂わせる。
まだ五月、もう五月、どちらでも良いが兎にも角にも既に春の終わりが見えていた。
教室の窓の外から見えていた桜色も、すっかり薄緑に変わり、次の春を待っている。
長い眠りにつくのか、浅い息と共に吐き出した言葉は、まともな形を取らずに空気に溶け込んでいく。
桜の木が羨ましく思っている。
長く眠りたいと思うし、ただ一度の短い時間の為だけに存在する一瞬の主役――別段、主役とか目立つ事に興味は無いが――短い命を大きく咲かせるのは美しいものだ。
そんな櫻の木の下には死体が埋まっている、何てのは珍しい話ではなく、有名な文豪の小説の話で、まぁ、その文豪を知らずともその一文くらいは知っている程に日本では有名な話だった。
あればある種夢のある話ではあるが、正直警察沙汰は免れないのだが、兎に角四月の間に、あの桜が鮮やかに咲き乱れている間に、ボクはその根元を掘り起こしたのだ。
いやぁ、懐かしい。
自然と目が細くなり、窓の隙間から入って来る風が、長く伸ばした前髪を揺らす。
ほんの数週間程度前の話だが、結局死体は出て来ず、何なら自分が埋まってやろうと意気込んだのも束の間、花より団子として団子に釣られて穴から這い上がったのは、美味しいような苦いような思い出だ。
因みに残ったものと言えば、未だにか細く囁かれ続けている噂だろう。
人が一人余裕で入れる穴が、学校の敷地内、しかも桜の木の下に掘られていたのだ。
桜の養分にする為に桜が人を呼び寄せているだとか、埋まっていた死体が一人でに這い出てきただとか、エトセトラエトセトラ。
尾鰭背鰭が付きまくった未確認生物のような噂だ。
ケラケラと笑ったのはボクくらいのもので、事情を知っていた花より団子へと導いた彼は、酷く苦い顔をしていた。
苦言も漏らされた気がするが、忘れたので割愛とする。
「次は何にしようかな」
毎日毎日飽きずに懲りずに緩やかに堕落するように自殺方法を模索している。
季節に合わせた物も取り入れて、と考えているが自分の気が違っているのでは無いかとも内心思う。
――別に良いけど、どうせ死にたいのは事実だ。
瞬きを一つして、机の横に引っ掛けていた鞄を持ち上げる。
黒い革のスクールバッグは、高校入学と同時に買ったもので、それなりに鞄の角なども擦れてしまっていた。
そんな中から、昨日の夕方に購入した袋飴を引っ張り出す。
バリバリと音を立てて封を切る。
すると、何故か横から無作法に手が伸びて来て、個包装の飴が一つ抜き出された。
「コラッ」
「貰ってもいい?」
目尻と眉尻が同時に下がる笑い方は、酷く好意的で敵意を一切感じない、相手を絆すようなものだ。
「どうぞ……」溜息混じりに、自分の分の飴を取り出す。
「作ちゃんって、意外と間食多いよね」
「そういう崎代くんも良く食べるよね」
「成長期だからねぇ」
口の中に飴を放り投げて、そう、と頷く。
真っ赤な色だった飴は、林檎味だ。
カラコロと高い音を立てて口の中で転がし、ボクの席の横に立っている彼――崎代くんを見上げる。
線の細い柔らかそうな髪は、実際触ったことある身として柔らかそうではなく柔らかいだと断言出来た。
一日の始まりを連れて来る朝焼けの様とも、交わらない世界と出会うかも知れない夕焼けの様とも言える髪色を見る。
瞬きをする瞳は、髪よりも深く色付いており、鮮やかな宝石を埋め込んだようだ。
正直に言って、崎代くんが真っ直ぐにボクを見てくるのは苦手である。
逸らすことを許さないと言う程強くは無いが、逸らした先も見ようとする自分の絶対的な意思や考えが見えるのだ。
ぎゅう、とボクも長く瞬きをする。
「飴では言う程成長しないと思うけどね」
「あははっ、確かに。後これ、いちごだね!」
目尻を、きゅっと下げて「美味しい」と言う崎代くんに、適当な相槌を打つ。
「作ちゃんのは何味?」「林檎」緩やかな会話は眠気を誘い、欠伸を噛み殺す。
飴が歯にぶつかり、小さいのと大きいのの二つになった。
「そう言えば、今週は雨が続くね」
深い赤を取り込んだ瞳が窓の外を見た。
鼠色の空は後小一時間もすれば濃灰色になり、空一面に広がった雲からは雨粒が落ちてくるだろう。
どれ程降るのかは知らないが、部室に大きい上に骨組みが多く丈夫な傘を置いている。
問題は無い、と頷いた。
空を見たままの崎代くんは、口の中の飴を右へ左へと転がし、頬を交互に膨らませる。
幼気なその姿に笑い声を上げれば、視線が絡み、はて、と首を捻られた。
いやいや、左右に首を振るボクが、代わりに空を見る。
「雨は別に嫌いじゃないんだよ。湿気酷いけど、服濡れるけど、体に張り付くけど、髪の毛も跳ねるけど」
「えっ。今俺、すごく嫌いな理由を聞いている気分」
「それは悪い所で嫌いな所とは別。嫌いでは無いんだよ」
窓の隙間から吹き込む風はもう既に濡れているようで、ひんやりと肌を撫でていく。
体温を調節しようと体が勝手に小さく震え、ブレザーの中に着込んでいるカーディガンの袖を伸ばした。
それとほぼ同時に、横から手が伸びて来て今度は窓枠を掴む。
窓枠の動くカラカラと言う軽い音が響き、パタリ、窓が閉められた。
腕からそっと視線を上げていけば、目が合い、笑い掛けられる。
決してその笑顔に笑顔を返すことは無く、小さく肩を竦めて見せるだけ。
「雨の日は死んでも良い気がするよね」
「……どうだろう。作ちゃんは、どんな天気でもどんな日でも死んでもいいと思ってそうだけど」
小さくなった飴を噛む。
ガリッ、と鋭い音がして、砂糖の塊としてべったりと上下の歯に張り付いた。
それを舌で剥がしながら「まぁ……」溜息と一緒に頷く。
「俺は晴れてる方が好きだけどねぇ」
「あぁ、まぁ、似合うよね」
歯に付いた飴が舌の熱で溶け、飴玉状だった時よりも甘ったるく感じる。
鼻から抜けていく作り物の林檎の香りと共に相槌を打てば、濃灰色の空から差し込んだ晴れ間の様な笑顔が向けられた。
その笑顔を瞬きの回数を増やしながら見て、ガリゴリと行儀の悪い音を立てて飴を齧る。
粉々になったそれを飲み込み、新しい飴を求めて袋の中に手を差し込む。
「後、この時期って傘を持っていくかいかないかで迷うんだよねぇ」
「折り畳み入れておけば?」
「……使うと次の日忘れるよねぇ」
目を逸らして言う崎代くんに、あぁ、と気のない返事を出してしまう。
そんな気がするよね、とは言わないでおく。
中途半端な天気だと迷った結果、晴れを望むタイプなのだろう。
「じゃあ今日も忘れたんだ」
「……そういうことになるのかもしれない」
「物凄く、曖昧な返事」
目を逸らしたままの返答に眉を寄せる。
中身の確認もせずに取り出した飴の包装を破き、そのまま口に放り込む。
前歯にぶつかったそれが高い音を立て、それから馴染みの無い味に眉間の皺を深くした。
机の上に放り投げた包装を手に取り「折り畳み傘あるから貸そうか」皺を伸ばす。
赤い包装の小さな文字を「うーん」見て「何でそこで悩むの」更に眉間の皺を深く。
崎代くんはボクの問に答えずに、ボクの顔と、それから手元を覗き込む。
「それ、美味しくないの?」
「うん?あぁ、いや……」
赤が奥底で揺れる目は、真っ直ぐにボクを見て、鏡のようにボクを映す。
一度それが妙に気になり、手を伸ばした時には大きく背を仰け反らせていた。
流石に目を突こうとした訳では無いのだが、それ以来、目元へ無駄に手を伸ばすことは無い。
代わりに、ボクが背を仰け反らせる。
「……崎代くんは、雨嫌いなんだね」
「好きか嫌いで言うなら、ねぇ」
「そっかそっか」
うん、と頷き、あ、と呟く。
ボクの言動に疑問符を浮かべる崎代くんに「髪」と一言告げ、腕を引いて屈ませる。
ボクは椅子に座っているが崎代くんは立っていて、ボクが立っても崎代くんの方が大きく、これがベストだと思う。
前屈みの崎代くんは、前髪が垂れ落ち、邪魔くさそうに指先で払っている。
頭の天辺にある旋毛を見ながら、髪を一房、手に取って梳くように撫でて、落とす。
分かり易く、存外広くしっかりとした肩が跳ね「ゴミ」と短く答えた。
「あっ、なんだ……。ありがと」
「んー」
嘘だけど。
適当に返事をしながら、立ち上がろうとする崎代くんを制し、顎を掴む。
自分のではないしっかりとした骨格に、手の力が強くなる。
「えっ、なに、作ちゃん、痛い」
伸ばしっ放しの爪も皮膚を引っ掻いたようで「割と痛い!」なんて悲鳴が上がった。
悲鳴を上げる口元は大きく開かれ、白く並びの良い歯が見える。
犬歯がボクよりも鋭く見え、これは新発見だとボクも口を開けた。
「んん?!」
ぎょっと見開かれる目。
弾かれたように離れた崎代くんは、教室の机と机の間である狭い通路に屈んでいた為に、後方に位置していた机に背中を打ち付けている。
ガタガタとけたたましい。
口を押さえた崎代くんはそのまま目を白黒させ、ボクは舌を出す。
口の中は慣れない味が広がったまま、舌の上は違和感を感じるまま。
「柘榴は人肉味ってね」
「は……?」
「勿論、嘘だろうけれど」
床に座り込んだままの崎代くんを見下ろし、口元に微笑を乗せた。
「雨が降りそうだし」ひょい、と椅子から降り立ち「部室でサボろうかな」ゆらり、教室の壁に引っ掛けられた時計を見る。
態とらしく上履きを地面にぶつけ、高い足音を立てた。
「崎代くんも来る?」
白黒、黒白、瞬きを延々繰り返す崎代くんは、柘榴味の飴を口の中で転がし、それを隠すように口を押さえる手を震わせた。
ボクが食べていた飴なので、若干サイズは小さくなるが味は変わらない。
同じく慣れない味だろう、僅かに眉が寄せられるのを見た。
ほらほら、差し出した手を揺らす。
迷ったように未だ震える手が口から離れ、ボクの手を取った。
その結果を知っていたボクは、当然と鼻で笑い、閉め切られた窓を尻目に立ち上がった崎代くんと歩き出す。
クラスメイトは生温い目で、静かにボク達を視界から外した。
窓が水滴で汚される。
「あ」声を上げたのは崎代くんで「雨、降ってきたね」それに答えるのはボクだった。