Artificial Consciousness
リブート中……
視界に映りこんだのは、茜色に染まる空、羽が朽ちた天使の翼のような雲、地面を覆う朱色の葉。それと、目をキラキラさせて僕をのぞき込む少女だった。薄汚れた検査着姿の彼女は華奢な両膝を抱えるようにしてしゃがみ込んでいる。
「こんにちは」
彼女の顔が興味と恐怖を綯い交ぜにしたような表情に変わった。口元が少し歪んだその笑顔は頬を染める夕陽も相まってぎこちない照れ隠しのようにも見える。僕も彼女に挨拶をしようとしたけど、スピーカーのシステムエラーが表示されて言葉が音にならない。うつ伏せのままになっていた僕は立ち上がって、代わりに頭を下げた。彼女も同じように返してくれる。
「あなたの名前は? ずっとここに倒れてたの?」
首を振って返す。答えたくないわけじゃない。僕には答えられないのだ。僕は自分の名前すら分からない。むしろ彼女に触れられて、つい数分前に生まれた気もする。ストレージに残る記憶はすべてが物理的な衝撃で破壊されていて修復できそうにない。
「実はね、私もそうなの。……名前決めない? お互いに名前を付け合うの」
僕は縦に頷いて肯定を示す。彼女は腕を組んで首を傾げるとすぐに「よし」と呟いた。
「思いついた。一案だと思って聞いて。機械さん、どう? 直接的過ぎるかなぁ」
僕は縦に何度も頷く。彼女が名付けてくれるのならどんな名前でも許せる気がした。それに、僕は実際に機械仕掛けで、か弱そうな彼女を守れるだけの力がある。
「私の名前は?」
矢継ぎ早に尋ねられて、僕は落ち葉を集めながら考えた。数分で閃いて、彼女の足元の葉を手で掃ってから、露出した地面に僕から見て逆さに落ち葉で文字を作っていく。彼女は葉で作られていく文字と僕の手を食い入るように見つめてくれる。
「マキナ?」
そう。どうかな?
「マキナ、うん、マキナ。いいかも!」
良かった。
端正な顔に満面の笑みを浮かべて喜んでくれる。僕はほっとしてマキナに手を差し出した。きめ細かい肌をした小さな手で僕の手を握り返してくれる。
空の茜色はそのほとんどが色を失い、朽ちた翼は灰のような色で崩れかけていた。
とっとっとっ。
マキナが所々苔むした石階段を踏み鳴らす。上背のある僕はマキナを見下ろすような形でついていく。マキナと出会ってから数日、この迷宮から出るために上を目指す僕たちの周りの景色はだいぶ変わった。
見上げる空は亀裂の間から遠くに見える程度で、その亀裂からは大量の水が流れ落ちてきている。でも滝の轟音は聞こえない。下に流れ落ちる前に遥か上空で水蒸気と化してしまって、僕たちに降り注ぐのは湿気を纏った霧程度。時折、厚いカーテンのような霧に日の光が透過する。あの空に帰る。ここから出るための目印は空しかない。
「あなたは誰?」
記憶の奥に残る質問を、マキナの背中を見つめながら何度も繰り返す。本当はそんな質問を考える必要はない。でもマキナに訊かれてから、僕は暇があればその答えを探そうとした。僕は機械仕掛けの何なのか。もしかしたら、破損した記憶の中にその答えがあったかもしれない。
階段を上り切ると、開けた場所が広がる。大理石でできた白い建造物の成れの果てが植物まみれでそこには多く横たわっていて、中心の噴水だけは瑞々しい苔に侵されながらも正常に水を噴き上げていた。その奥に一筋縄ではいかなそうな巨大な鉄扉が見える。僕たちは噴水の所で少し休憩を取ることにした。マキナは長い髪をふわりと揺らして、噴水の縁に座る。僕は彼女の毛先が水に浸からないよう肩に掛けてあげてから隣に座った。
「優しいね。ありがと」
小恥ずかしくて僕は首を振る。
あれだけの階段を上ってもマキナはまだ元気そうで、石畳の上で宙ぶらりんになる足をゆらゆらと交互に揺らしている。僕の脚もまだ駆動できるけど、流石に遠足気分にはなれない。
ふとマキナを見ると、彼女は僕の腿の間に座って僕を見上げていた。目が合うと彼女は無邪気に笑う。彼女をどうしてここまで気に掛けるのか自分でも分からない。でも、庇護欲というよりは隷属意識のような気もする。それは、たぶん僕がマキナに隷属しているのではなくて、僕の中のプログラムが僕を隷属させているんだと思う。だからといって、そんなプログラムを消去したいとは思わない。むしろそのプログラムが無くても、僕は彼女に付き添うことを決めたはずだ。
その時、奥の扉が開かれて、逆光の中で何かが動いた。僕の動体探知センサーが何かの動きを感知したのだ。僕はマキナを腕の中に抱えて、その方向を凝視した。確実に何かがいる。
緩慢というより、鷹揚としたその姿は、扉が閉まると共に露わになる。
騎士だ。
銀色の甲冑は腕や脚も含め全身を覆っており、片手には鈍色に輝くロングソード。金属音を鳴らしながら歩み寄ってくる姿は威風堂々としていて冷静さと威厳を兼ね備える。しかし、妙な違和感があった。それはなぜ騎士がこんなところに、という単純なものではなくて、堅牢な鎧から滲み出る異様な瘴気とその禍々しさにそう感じたのだ。
マキナはその騎士を頑なに見ようとせず、怯えたような困惑したような表情で僕を見ていた。
大丈夫、守ってみせるよ。
間合いが数メートルになった刹那、騎士のロングソードが横薙ぎに噴水を破壊した。僕はマキナを包み込むように抱えて転がり距離を取る。
相手は一人。マキナに後ろの瓦礫へ隠れているように指し示す。弾薬の節約を考え、腕に内蔵した12.7mmはなしだ。背負った黒い大剣を引き抜く。
怯懦も緊張もアドレナリンによる興奮すらしない。静かな睨み合い。降ってくる水分が身体にしっとりと纏わりつく。騎士が剣先を僕に向けて耳元でロングソードを構えた。
僕もマキナにとっては騎士だ。彼女にナイトメアを見せるわけにはいかない。
瞬間的に距離を詰めた相手の刺突を大剣で受け流すように弾いて、振リ向き様に背後から大剣を振り下ろす。気配か単なる勘か、紙一重で身体を捩り、後ろ蹴りを鳩尾辺りに捻じ込まれる。重い衝撃に蹈鞴を踏んで僕は距離を取った。
相手を一瞬でも軽視していたことを悔いる。僕は身体内部に巻き付けるようにして備えている弾帯を薬室に送り込んだ。この距離なら高度に演算するまでもなく相手に着弾する。アーメットの隙間から相手の表情は認識できないけど、その睥睨は容易に想像できた。確保しなければならないのは、腕を構え上げ銃口を露出させる予備動作の時間と確実に命中させるための隙。
騎士が地面を蹴る。咄嗟の判断で大剣を左側に構え防ぐ。火花が視界の端で散った。動作の止まるこの一瞬が欲しかった。右手で相手の尖ったバイザーを掴む。銃弾がゼロ距離で射出され銀の頭部を貫通した。
そこで、僕も一瞬止まった。
リカッソを掴んだ騎士が大剣を支点に左へ回り込み、柄頭で頭部を殴られて視界が歪んだその刹那に右腕を切断される。切断部からリンクと弾薬が地面に零れ落ちて鈍く響いた。
相手は確実に中心線を捉えてきていた。身体を逸らしていなかったらシステム中枢が無事だったとは思えない。
すると突然、騎士の様子がおかしくなる。何かに圧迫されているように甲冑の胴体が拉げる。そして、甲冑は食い散らかされたように穴だらけになり、騎士の頭部は首を吊られたように項垂れて、微動だにしなくなった。
「だいじょうぶ……機械さん」
マキナは今にも泣き出しそうな表情で身体を硬直させ僕の後ろに佇んでいた。言葉を紡ぐ薄い唇が小刻みに震えている。
「もしかして、今のマキナが……」
「えっと……分からない。大きい音がして、それで顔を上げて、機械さんがやられるところを考えたら怖くなっちゃって、それで……」
僕はマキナを抱き上げて気持ちを宥めようとする。肩の疑似受容器がぼたぼたと落ちてくる水滴を感知し続けた。
数分してから「もうだいじょぶ」と囁いて、僕から降りたマキナは手の甲で目元と頬を拭う。
「痛くない?」
瞼を泣き腫らしたマキナの視線が隻腕の僕に注がれる。平気だよ、と左手で親指を立ててから、その指で右腕の切断面を軽くつついて見せた。損傷を感知していても痛みは生じない。少しだけ不便になっただけだ。
崩壊した噴水からは止めどなく水が溢れ出ている。その水音に足音が重なって聞こえた。身構えて肩越しに見る。
マキナがいた。
僕の後ろから平然とした面持ちで歩いてくる。目の前のマキナを確認してもう一度振り返ると、もう一人、またもう一人と増えていく。蜃気楼のように噴水と瓦礫の世界は霞み、徐々に別の風景の輪郭が出来上がっていく。それはビル群で、歩行者信号の鳴く音や自動車の唸りが聞こえてくる。僕たちはいつの間にかスクランブル交差点の上、雑踏の中心に立たされていた。往来する人はすべてマキナで、誰もこちらには見向きもせずに自分自身と同じ姿の人で形成された人ごみに消えていく。僕の左腕にしがみついたマキナが不安そうに周りを見渡しながら、迷子になりたくないとでも言うようにさらに力強く僕に密着してくる。
マキナはきっとこういう景色を知らない。僕もこういった場所は久しく見ていなかった。記憶に残っている類似した景観は、見た日時を思い出せないほどに古い。
気のせいだと思うけど、マキナが周りの彼女らを知っているように思えて、同時に僕も周りのマキナとずっと前に出会っているような既視感を覚えた。
「もう十分だろう」
唐突に聞こえたその声はマキナのものだった。それは僕たちを取り囲むマキナたちの声で、僕に顔を埋めるマキナ以外のものだ。
周りのすべてに気を張り詰めさせて、警戒しながらもその声を注意深く聞く。
「既に完成している。これ以上人格を増やしてもバイアス統合時の正確性は誤差程度。ここからは統合システムを起動させる。もう君は必要ない」
意味が理解できない。必要ない、とは、彼女らはマキナと僕の何を知ってその言葉を口々に囁いているんだろうか。
「ごめんね」
腕の中でマキナが呟いた。ただ一点を見つめたまま歩くマキナも、右往左往しながら歩くマキナも、僕が抱きしめるマキナにぶつかっては、光の破片となって消えていく。
「今になって分かってきたの。私じゃない私が、今全部入ってきてる。機械さんが死んで、機械さんの記憶が壊れるたび、私の記憶もリセットされて新しい人格を作ってきた。誰かにそう仕向けられていたの、これまでずっと知らない間に。今の私はすごいスピードで違う私に組み込まれていってる。機械さんと出会ったこの人格ももうそんなに長くは保てそうにない。だから――」
マキナが顔を上げる。その時すでに少しだけ雰囲気が変わっているような気がした。無邪気で愛嬌たっぷりの笑みというよりは、落ち着いた雰囲気で微笑みにどこか気品がある。それでも、印象強いその瞳には涙が溜まっていて、笑顔には不釣り合いな雫が頬を伝う。僕の知っているマキナが侵され始めていた。
「守ってくれて、ありがとう。ゆっくり休んで。もう私に呪縛されなくていい」
自分への無力感が思考を駆け巡って、マキナを腕に抱いているという現実感を喪失していく。透明なガラス越しに見つめているような虚無感。鋭利で冷たい何かに貫かれたような痛みが身体中に染み入ってくる。
僕はどうすればいい? どうしたらマキナを守れる?
「私は、人工意識。この世界で作られて、あなたに育てられて存在してきた。でも、あなたの保護の役割はここで終わり。この世界は、いわば私のための世界。それを知った今、この世界のものは自分で思い通りにできる。でも、もうその時間はない。私は上界に行く。そこで、私は人工的な肉体に入って、色々な人間と、今度は一人の私として存在する。そこに、この世界での記憶はない」
マキナの声音は無機質になっていて、いつの間にか周りを歩いていた彼女の群衆は消えていた。代わりに、性別も顔も年齢もすべてがばらばらの人々が僕たちを取り囲んでいる。
僕もその世界に行きたい。その世界でも、僕はマキナと一緒にいたい。
「それは不可能」
僕にだって意識は組み込まれている。マキナと何も変わらない。喜んだり悲しんだり、もっと複雑な感情だってちゃんと持つことができる。
「そうじゃない。あなたに内蔵されているのはAIを基礎とした単純な疑似人格。私は多次元構造をした汎用性の高い人工意識。根本的な構造がまるで違う」
構造なんて関係ない。僕は君を守ると決めた。
「それがまさしくそう。その人格がシステム。あなたはそのシステム無しに人格を形成することができない。あなたは、システムに忠実な奴隷」
抑揚が少なく冷淡に響くその言葉に、僕は腕の力を緩めた。いつの間にか、マキナの肌の体温を僕は感じられなくなっている。僕の疑似受容器が機能を失いつつあるのだ。彼女はまだ生きていて温かいのか、死んでいて冷たくなっているのか、もう判断できない。次第に、目の前の彼女はマキナだったものとして僕の思考が判断し始める。自分が死んでいくのが分かる。いや、機械仕掛けの僕は再起不能と表現した方が適切なんだろうか。身体の末端から中心にかけて徐々に壊死していくような今際の感覚。
せめて一度だけでも、僕は自分の声を使ってマキナと話がしてみたかった。面白いこと、楽しいことを言い合って笑いたかった。人格を統合されシステムにその思考を均された後でも、マキナの心は僕を機械さんとして認識してくれてるんだろうか。なんて、それは意味のない質問だ。
視界にノイズが走り始める。マキナの無表情な顔を最後に、景色は塗り潰された。
僕は、この人格が僕を傀儡にしているシステムであったとしても祈る。
もう一度、マキナと出会えますように。
視界が光を捉えた。青々とした芝生が目の前には広がっている。どうやら僕は切り株に凭れているみたいで、身体のほとんどの機能は動かないまま、視覚がただ茫然と景色を映している。
意識が覚醒したのはそれから少し経った雨上がりの日だった。芝生に落ちた雫が光を乱反射させて煌めいている。
僕は結局、機械仕掛けのシステムでしかなかった。その虚無感が動けない僕を押し潰そうとしてくる。それでも、魂のない僕がこうして天国のような場所にいられているのは幸運だ。
遠くから二人の足音が聞こえた。一人は駆け足で、それを追いかけるようにもう一人が小走りしてくる。
僕は嬉しくなった。意識が目覚めてから孤独が恐ろしくなっていたのだ。
走ってきたのは、十歳前後の少女で、母親らしき女性がその奥に立っている。少女は目を好奇心でキラキラさせて僕を覗き込む。
それは奇跡だった。僕はともかく、マキナだってこの世界に想像で干渉することはできないはずだ。それに、マキナはもう僕のことなんて憶えているはずがない。それでも、ここで出会えた。少女の容姿はマキナとまるで違う。それでも、直観的に彼女だと分かる。
少女は、あの時のままの目で、僕をのぞき込んでくれていた。
読んでくださりありがとうございます。