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三途の川

作者: 六条

なんでも、気がつくとわたしは河原にぽつねんと一人立ち尽くしていた。

眼前の河は広く、向こう岸の様子は霞みがかっていてよく分からない。

左手を見れば、煤けた朱塗りの橋が架かっている。だが河の流れは緩やかで、水の深ささえ大したことなければ、河中を歩いても渡れようと思った。

どうにも頭に霞が掛かったようにすべてが茫洋としている。だがわたしは、おのれがこの河を渡り向こう岸に着かなければならないことだけは知っていた。

着物の裾をたくしあげて、草履足をちょいと水面につけたときだった。

「もし」と後ろから声がかかった。

振り向けば、真っ白い襦袢を着た垂髪の女が、少し離れた処に立っていた。

「何か」とわたしは問うた。女は静かにこちらへ歩み寄ってきた。女の足は裸足だった。河原の石くれが刺さってさぞかし痛かろうと思われた。

女はわたしの眼前まで来た。涼やかな美人だった。けぶる睫毛を伏せ目がちにしながら、女はこう答えた。

「わたしもあなたと同じで、向こう岸にゆかなければならないのです。けれどほら、このように履き物を何処かへ失せさせてしまって、足が痛くて痛くて、とても自力でこの河を渡ってゆけそうにないのです」

よくよく見れば女の足は斑に赤黒く汚れていた。滑らかに白く、触ればきっと柔らかいであろう小さな足だけに、尚痛ましかった。

わたしは女に大きく頷いてやった。

「よし、ならばわたしが向こう岸まであなたを背負いましょう」

「本当に? わたし、そこらの娘のように軽くありませんわ。それでも平気?」

「あなたのような美しい手弱女の、なんの重いことがありましょうか。さ、どうぞ遠慮せず乗ってください」

わたしは女に背を向けて、身を屈めた。

初めから背負ってくれるよう頼む腹積りだったろうに、女は奥ゆかしくも少しばかり躊躇する素振りを見せて、ちょこんとわたしの両の肩にそれぞれ手を置いた。そしてそっとその身をわたしの背に預けた。女は驚くほど軽く、わたしは何も背負っていないのと同じぐらい滑らかに立ち上がることが出来た。

そうしてざぶざぶと河に入った。思った通り河はさほど深くはなく、わたしの膝まであろうかなかろうかといった程だった。

女を背負いながら足を滑らせては事である。わたしは用心しながら進んだ。ふふ、と耳の近くで女の笑う吐息が聞こえた。

「何を笑うのです」

「いいえ、あなたが今更わたしにこのように優しくしてくださるのが不思議で」

そう言う女の方が不思議だ、とわたしは思った。今更も何も、わたしは今初めてこの女と出会ったのである。

わたしはどう答えたものか分からず、そのまま歩を進めつづけた。向こう岸はまだまだ遠かったが、女が重みを感じさせないおかげでちっとも疲れなかった。

暫くして、女がまたこんなことを言った。

「あなたがわたしを背負ってこの河を渡ってくださるなんて、ついぞ考えられないままでしたわ。ね、どうです、重いですか?」

「いいえちっとも。あなたは天女の羽衣のように軽いですよ」

「ええ、ええ、そうでしょう。手軽で面倒のない女だと、あなたが思っていらしたように」

「え……」

どうも女とわたしの会話は噛み合っていないように思われた。

だがどうせ向こう岸までの付き合いである。わたしは気に留めずなお歩いた。

だが暫く歩を進めるうち、なにやら段々と膝が重たく感ぜられるようになってきた。

一足一足が億劫で、わたしの呼吸が上がってきたのを察したのだろう、女が、

「やはりわたしが重たいのでしょう」

と静かに言う。

その通りだった。背負っているのかどうか振り返って確認したくなるほど軽かった女が、どういうわけか今はずっしりと背にのしかかっている。

だがそれはおのれの身体が疲れてきたからそう思うのだろう。

「いいえ、なんてことはありませんよ」

とわたしは気丈に答えた。

けれど、どうにか河の半ばまで差し掛かったときだった。ぐんっと背中の重みが急激に増したのである。わたしは崩れ落ちないよう咄嗟に足を踏ん張った。

さすがにこれはおかしいとわたしが振り向くと、女は啜り泣いていた。啜り泣きながら、わたしに微笑んだ。

「ね、だから言ったでしょう。わたしは重たいの。あなたがいつも戯れていらっしゃった類の娘たちより、わたしはずっと重たい。だからあなたも、わたしをお見捨てになったのでしょう?」

また、女は重くなった。

全身の骨という骨が悲鳴をあげていて、膝は今にも砕けそうだった。

涙しても気丈に笑むその美貌。そこでようやくわたしは思い出したのだ。

「おまえはーーー」

だがもう遅かった。

わたしの身体は耐えきれず押し潰された。

浅かったはずの河はいつの間にか深くなっていて、わたしの身体は川底に打ち付けられることなく、どぼんと水中に投げ出された。

もがいてもあがいても、上からのしかかる女の重みで水面に戻ることが叶わない。どんどん、どんどん、水面が遠ざかっていく。底など無いのだろうと絶望した。

この世の最果ての、真っ黒な濁流がわたしを方々から苛んでくる。それは生前わたしが軽く扱い傷つけた女の情念の発露であった。

わたしは、三途の川に溺れ沈んだ。

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