序章:白炎の記憶ー4
炎の龍が口を開ける。カインは、木の棒をきつく握った。考えるのも馬鹿馬鹿しいような戦力差に、頭がまっ白になりかける。それでも、動くしかなかった。カインは強く踏み込み、雄叫びを上げながら突進した。
「うおおおおおおお!!!」
炎の龍が、雄叫びごとカインを飲み込む。カインは木の棒を必死に振ってもがいたが、その行為は何の意味も果たさなかった。炎に飲まれながら、のたうち回るように地面を転がり、そのまま音を立てて湖に落ちる。水に冷やされながらも、火傷を負った身体が酷く痛んだ。
大きく揺れる水面から顔を出し、どうにか酸素を吸い込む。頭のてっぺんから水を滴らせながらも目を開けると、炎の龍が首の向きを変え、湖めがけてその巨躯を疾走させてくるところだった。
水中で、今度こそカインは身動きが取れなかった。火龍が勢いよく湖に突っ込む。巨大な水しぶきが上がり、カインは荒れ狂う水の動きに押されて、岸に身体を強く打ち付けた。
「うっ……!」
全身に鈍い痛みがはしる。呻きを上げた口から、容赦なく流れ込んでくる水を飲み込んでしまう。痛みと息苦しさに喘ぎながら、カインは必死に手足をばたつかせ、陸に上がろうともがいた。何度も岩肌に身体を打ち付けながら、必死の形相で岸辺の草を掴み、這いずるようにして水からあがり、岸に転がった。
水と炎の衝突で、視界いっぱいに白い蒸気が発生していた。白く霞む視界の向こうでは、あの青年が、新たな火の怪物を呼び出そうと天に手を掲げているところだった。
せめて、ここから離れなければ。そう思いが働くのに、痛みで身体が上手く動かない。苛立ちと恐怖に、内臓が迫り上がってくるような感覚がする。再び生み出された炎の龍が口から蒸気を吐きながら、カインを見た。
———間に合わない。
カインは迫る龍の姿を見て、雑草を握りしめた。
しかし、龍の牙がカインに届くことはなかった。
カインは何が起きたのか分からず、呆けたように眼前の光景を見ていた。いや、カインだけではない。炎の龍を召喚し、圧倒的な力でカインをねじ伏せていた青年もまた、その一瞬の事態を把握できずに立ち尽くしていた。
炎の龍が鼻先から尾にかけて、真っ二つに裂ける。すっぱりと、鮮やかな軌道を描いて、龍の巨体が切断されていく。天を衝くような龍の断末魔が湖全体に響き渡った。
力なく、ただ呆然と座り込むカインのすぐ隣に、軽やかな足音が舞い降りる。その方向へ視線を移すと、見知らぬ男が立っていた。
薄手のコートを翻し、手にはシンプルだが高価そうな紳士用のステッキを持っている。右側から見上げた顔は長い前髪にほとんど覆われてしまっていたが、薄く笑った口元だけが見えた。
「やれやれ、森の方から派手に火の手が上がっていると思って来てみれば……こんなところに鼠が居ましたか」
涼しげな声を発したかと思うと、突然現れたその男はカインの方を向いた。
「貴方……大丈夫でした?」
髪に隠されていない左目が、カインの目としっかり合った。ぞっとするほど鮮やかな赤色の瞳だった。
「お前……」
マフラーの青年が、恨めしそうに呻いた。青年は目の前の男をきつく睨みつけ、固く握った拳を高く掲げた。また火を起こす気だ。カインは息を飲んだ。すぐ隣で男が、姿勢を低くし、手に持ったステッキを居合いのように構える。
「うっ……!?」
そのとき、青年が突如うめき声をあげて崩れ落ちた。彼のすぐ背後で閃きかけていた炎が消える。青年は地面にうつ伏せに崩れ、ひゅうひゅうと息を漏らしながら喘ぎ出した。苦しいのか、手で胸を抑えて震えている。
「な、何だ……?」
カインは困惑しながらその様子を見ていた。傍らの男は構えを解かず、静かに様子を伺っている。
「父さんが呼んでる……」
青年が左胸を押さえながら立ち上がる。彼は鬼気迫る表情でこちらを睨みつけたまま、片手で耀婪を担ぎ上げた。そして、空いた片方の手で虚空に線を描いた。
「ざんねん」
カインが青年の言葉の意味を図りかねていると、突然、青年の背後の空間が”裂けた”。空気があるはずの場所を捩じ曲げて現れた異質な”暗闇”が、ぱっくりと口を開ける。それが拡がり”門”のような形を取ったとき、カインは次に起こる事態が予測できた。
「待て!」
全身の痛みにも構わず、立ち上がる。それは咄嗟の行動だった。無防備な状態で、カインは青年に突進していく。しかし、伸ばしたその手が届くよりも前に、カインは見えない壁にぶつかったような衝撃を受け、後ろ向きにはね飛ばされた。
「ぐっ!」
地面に激しく身体を打ち付け、うめき声が漏れる。痛みにチカチカとする視界で前方を睨み上げると、耀婪を抱えた青年が黒い”門”へと姿を消すところだった。
「待てよ……」
僅かに残った体力で、その背中に手を伸ばす。耀婪はぐったりとしたまま青年に担ぎ上げられている。耀婪が、連れていかれる——必死に伸ばした手は、ただ、空を掴むだけだった。
目の前で、無慈悲に”門”が閉まる。空間に描かれた裂け目が消え、焼け落ちた湖畔の風景が戻った。静寂が降りる。カインは、茫然と”門”が消えたあたりの虚空を見つめた。




