序章:白炎の記憶−3
翌朝、カインは早くに目覚め、霧が立ちこめる中、湖を抜け出した。今日は街に行って、食料等を調達する日だ。朝方の森は陽が入りにくく、もうとっくに日の出は過ぎているとはいえ、明け方前のように冷える。カインは寒さに身を震わせながら、薄暗い森の道を歩いた。
森を抜けて少し歩くと、スプロトの街が見えてくる。小さいが活気の良い街で、週末の朝には市場に、豊かな実りと漁れたての鮮魚がずらりと並ぶのだ。カインは得意の商店でまず小麦と卵と乳を調達し、それから旬の野菜や果物、魚介類が所狭しと並ぶ市場を練り歩いた。果物売り場の商人が、活きのいい声で客を呼び込んでいる。誘われるようにして店を覗くと、よく熟れたナバの実が四角い籠に並んでいた。
————こいつを買って帰れば、耀婪、喜ぶだろうな。
カインはナバの実を二つ、手に取った。
「おっちゃん、これくれ」
店の主人は気前のいい返事とともに会計をし、おまけでナバの実をもうひとつ、カインの籠に入れてくれた。
買い物を終えると、表通りにある茶屋へ向かう。カインはここの店主の息子の青年と仲が良く、たまに街へやってきた時には、必ず顔を出すのだ。
「よう、カイン。元気にしてたか?」
店に入るとすぐに、青年が奥の部屋から顔を出す。青年はとても愛想がよく、いつ来てもとびきりの笑顔で迎えてくれる。カインがどちらかというと厳つい体型をしていて、顔もそれなりの年齢に見えるのに対して、茶屋の青年は今時なすらっとした体型をしている。顔もどちらかといえば童顔だ。そのため二人並ぶと年齢差のある友人同士に見えたが、実際は互いに同じくらいの年頃だという。
「ああ、おかげさまで」
カインは長椅子に腰掛けた。青年が笑いながら近寄ってきて、隣に座る。
「お前のお師匠さんは、どんな感じだ?」
「ああ、あいつも相変わらずだよ」
「そうか。またよろしく伝えておいてな。そうだ、これお土産」
彼は、山に籠りきりで会ったことのない、カインから話を聞かされただけの耀婪のことを、よく気にかけて、土産を持たせてくれる。今回もまた、大きめの紙袋にどっさりの特産品や店で売っている茶葉を渡されて、カインは苦笑した。
「うわ、また大量だな、こりゃ……」
森の中に、たった二人で暮らし、来客もない相手への土産というには明らかに量が多すぎるが、いつものことだ。今回はどうやって消費しようか、カインはまた考えなければならなかった。そんなカインの心情を知ってか知らずか、青年が快活に笑う。
「まあ、いらなかったら捨ててくれや。そういやカイン、こっちの方はどうなんだ?」
青年が、カインに向かって槍を突き出す動作をする。カインは得意げになった。
「順調、順調!ついこの間、ようやく本物の槍を使うようになったところだ」
「へえ、すげえや。これでいつ帝王軍が攻めてきても安心だな!」
「ばか、そこまでじゃねえって———」
悪ふざけに茶化し合っていた、そのときだった。
遠くの方で、突如大きな物音が響く。かと思えば、表通りの方が何やら騒がしくなってきた。カインと茶屋の青年は顔を見合わせ、それから二人一斉に大慌てで店の外へ飛び出した。
「何だ!?」
表通りには騒ぎを聞きつけた人々がぞろぞろと集まり、どよめきが起きていた。みな一様に同じ方角を見ている。その視線につられるようにして問題の方角を見ると、遠くの方から派手に火の手があがっているのが見えた。
さっきのは爆発音だろうか。何にせよ、尋常な燃え方ではない。それを見た途端、カインの体を足元から震えが駆け抜ける。嫌な予感が頭いっぱいに広がる。あの辺りは————耀婪の湖がある森だ。
二度、三度、爆音が響く。森の方から、どす黒い煙があがる。誰かが喚き散らす声が聞こえた。
『帝王軍だ!』
何だって?なぜ急に帝王軍が出てくる?しかし、その単語に、カインの内の不安がどんどん巨大化していく。もし本当にそうだとすれば———耀婪が危ない!
カインは、茶屋の青年を振り返った。
「おい、ご主人を呼んで、街の人たちを誘導してくれ。もしもの時に備えて、避難の準備をさせるんだ!」
青年は呆然と突っ立っていたが、カインの声に我に返り、ぎこちなく頷いた。
「あ、ああ」
青年が、茶屋の中へと駆け込んでいく。カインは火の手の上がる方角へ急いだ。
* *
駆け戻った途端、カインは絶句した。いつも木と水の静謐な匂いに満ちている湖に、焦げた臭気が充満している。カインと耀婪の家が、炎をあげているのだ。真っ赤に燃え盛る炎。目の前のショッキングな光景に、一瞬、4年前の故郷での光景がフラッシュバックした。
めらめらと音を立てて燃える家屋から、誰かが出てくる。カインはその姿を認めると、大声で叫んだ。
「耀婪!」
耀婪は、ふらふらとした足取りで、カインのもとに歩いてきた。カインは急いで駆け寄り、倒れそうになるその身体を支えた。
「耀婪、どうしたんだ」
尋ねると、耀婪は無言のまま、性急な動作でカインの手を取り、拳をこじ開けるとその中に何かをねじ込むようにして握らせた。
見ると、それは古い鍵だった。持ち手のところが錆びかけている。玄関の鍵ではないことは、一目でわかった。年季が入り、やや重みのある、これは———
カインは、一瞬手の中の鍵に気を取られた。その瞬間に、耀婪はカインから体を引き離し、勢い良く肩をぶつけて、カインを突き飛ばした。
「う、わっ!?」
予想外の衝撃によろめき、ふらふらと後退して尻餅をついた。その直後、前方で炎が噴き上がり、派手に爆音が鳴る。強烈な爆風が起こり、たまらず両腕で顔を伏せた。
———風が止んだ。熱に晒された肌が、チリチリと痛む。カインはおそるおそる、目を開けた。
「あ……」
一瞬、目の前の事態が飲み込めなかった。熱と衝撃で崩れかけの脳が、ひとつひとつ、目の前で起きた出来事を消化していく。あれは……耀婪。耀婪が倒れている。麻の服の、腹部が赤く滲んでいる。血を流しているのだ。……血?爆風で怪我をしたのか?それとも、もっと前から?耀婪は、ぴくりとも動かない。カインの思考は、パニックに崩れ落ちそうになった。
名前を呼ぼうとして、その声は喉で絡まって引っかかった。力なく地に伏した耀婪の身体が、ふっと宙に浮く。つられるように、カインの視線が上を向いた。そしてその目は、耀婪を抱え上げる見知らぬ男の目とぴったり合った。
ふわふわとした白髪が、炎に照らされてオレンジ色に輝いて見える。高い位置から見下ろす紅い瞳は、なんの感情も宿していなかった。殺気立って睨み付けもしない。ただ、見ているだけ。特別な感慨も持たず、周りの景色同然にカインを見下ろすだけのその目に、カインは全身が震え出すほどの畏怖を感じた。
———こいつは、危ない。本能が警鐘を鳴らす。しかし、身体が竦んで思うように動かず、目が強制的に釘付けにされたように、逸らせなかった。
戦場さえも思わせる光景に似つかわしくない、ラフな出で立ち。青いマフラーで半分以上覆われた口元が、くすりと笑った。
「見ちゃった」
その青年が、右手を高く掲げた。その右手を、カインの目がしっかりと捉えた。そして、今度はその右手に視線が釘付けになる。カインは、はっきりと見た。青年の右手の甲に描かれた、禍々しい印を。ぎょろりと見開いた目から、無数の手が伸びている紋章だ。
「———!?」
全身を、衝撃が貫いた。4年前の記憶が甦る。故郷を焼いたと思しき男の姿と、目の前の青年の姿が、パズルのピースを嵌めるようにがっちりと重なった。
「お、前……は……」
掲げた右手に呼応するように、青年の背後で炎が揺らめく。それは意志を持ったようにうねり、唸り、一頭の巨大な龍の姿をとった。
炎の龍が力強く咆哮する。空気がビリビリと震え、カインはなんとか立ち上がったものの、気圧されるように一歩下がった。その足に、何かが当たってカランと音を立てる。はっと下を見ると、そこにはどこからか焼け落ちたのか、槍ほどの長さの木の枝が転がっていた。前方を睨む。倉庫まで走る余裕はない。ならば———カインは咄嗟に木の枝を拾い上げ、その手に構えた。




