序章:白炎の記憶−2
「耀婪!」
カインが槍を持って到着すると、耀婪は座っていた岩から降り、湖畔に足を下ろした。
「うん。それじゃあ始めようか」
「おう!」
二人は背筋を正して向き合い、礼をする。
構えを取るとき、耀婪はいつもの優しげな顔から一転、厳しい師匠の顔になる。その瞬間、カインの内にも緊張が奔る。呼吸を整え、間合いを計る。数十秒の沈黙。そしてある瞬間、二人が示し合わせたかのように同時に動き出した。
最初に攻めに入ったのは耀婪だった。左右に連続で突きを繰り出す。カインはそれを素早く躱すと、三撃目を槍身を利用していなし、一気に踏み込んで間合いを詰めた。すかさず突きを入れるが、耀婪は巧みに身を捻り、後ろに何度か手を付きながら綺麗に後転してそれを避ける。カインが槍を構え直すと同時に、耀婪の反撃。二人の槍が激しくぶつかり、音を立てた。
* *
稽古を終えると、二人は暫く湖のほとりに腰を下ろし、星を眺めていた。この一体は朝夕は霧が出やすいが、晴れた日の夜は星がよく見える。一帯は森になっているが、湖周辺の空だけは綺麗に開けており、見上げると木々のフレームに縁取られた絵画のような空を眺めることができるのだった。
秋の訪れを知らせる夜風が、運動後の火照る体を心地よく冷ましていく。
「遅くなったから、稽古、無くなるかと思った」
カインが呟くと、耀婪は、ふふ、と笑った。
「そうしてもよかったんだけど?」
「勘弁。座学だけの1日なんて、あんまりだ」
「居眠りしてたのは自分のくせに」
耀婪の痛い反論に、カインはばつが悪そうに笑った。
「で、どうだい。本物の槍を使うようになっての感想は」
「ああ……やっぱ重いな。木の棒とは違うわ。鉄だもんな、鉄」
カインはあちこちに豆の出来た手を、握ったり開いたりしながら言った。耀婪はそれを見て、小さく笑った。
「鉄……だからじゃ、ないなあ」
「え?」
カインの目が、きょとん、と耀婪を見る。耀婪は、いつもの優しいまなざしで、カインを見ていた。
「重いんだよ、槍は。木の棒とは違う。そのひと突きで、人を殺めることが出来る。そうでなくても、当たれば必ず傷つける。武器っていうのは、そういうものさ。その重さに見合うだけのものを護るために、槍を振るわなくちゃならない。重さの意味を忘れて、傷つけるために武器を振るっちゃあ、いけないんだ」
「耀婪……」
カインは、静かに頷いた。耀婪の言わんとするところは、カインも自分なりには理解していた。実際に戦いに出たことなんてないこの身には、実感としてはほど遠いのかもしれないけれど。
鉄の槍を見つめて真剣に黙り込むカインの様子を見て、耀婪は微かに笑った。
「じっくり、考えてみるといいよ。自分が守り抜きたいものについて」
そう言うと、耀婪は立ち上がった。
「さあ、もう家に入ろう」
耀婪が歩いていく。カインは槍をしっかりと掴み、立ち上がった。槍を倉庫に戻しに行きながら、カインは、耀婪の言葉を頭の中で反芻した。
(護るため……)
———耀婪。カインの師であり、育ての親であり、無二の友。思い返すまでもない。彼と出会ってから、たくさんのことを教わってきた。彼と出会った———人生が変わった、4年前のあの日から。
———4年前。
カインは現在住んでいる湖から遠く離れた土地に住んでいた。ここよりもずっと雑多としていて、俗世じみ、血なまぐさい場所だった。ここ十年の間に激化した、《帝王軍》と呼ばれる軍団による制圧。その非常識なまでの拡大速度と兵力は、あっという間にカインの故郷周辺をも飲み込んでいた。
そんな中、今から6年前———"事件"が起こる2年前に、その街を拠点に若者たちが次々と立ち上がった。彼らによって《帝王軍》に対抗すべく結成された《反乱十字軍》———耀婪は、それを最前線で指揮する先導者だった。
たちまち街中に立ち上る、白金十字の旗。希望と聖戦を象徴するそれらは、まるで正義のヒーローの到来のように、若かりしカインの目に映った。
———ところが。
《反乱十字軍》結成から2年。今からちょうど4年前。反帝王軍の勢力が拡大し、街も活気づいてきた頃、その地域は《帝王軍》による本格的な”制圧”を受けることになる。
この頃のことは、カインはあまりよく覚えていない。めまぐるしく、衝撃的な出来事の連続———多くをショックのあまり忘れた彼の脳裏に焼き付いているのは、コマ送りのような、切れ切れの記憶だけだ。”制圧”は、一夜にして行われた———燃え盛る街、悲鳴、血の臭い。炎の龍、目玉の紋章を持つ男、そして———紅蓮を裂いて現れた、白炎を纏う耀婪の後ろ姿。
わずかな記憶の断片は、脳の一番深い部分にチリチリと焼き付いて、今も夢に見る。今日の夕暮れのまどろみの最中でも見たように。
”制圧”の結果、街は壊滅した。希望の象徴だった《反乱十字軍》もその殆どが倒れ、残った者たちは散り散りになった。耀婪はあの日、見ず知らずだったにも関わらず、親を亡くしたカインを必死で守り抜き、手を引いてこの湖まで一緒に逃げてくれたのだ。
それから耀婪は、隠れるようにしてこんな森の奥地で暮らしている。前線で《帝王軍》と戦っていた頃とは、何もかもが違っていた。白地に金糸の軍服ではなく、粗末な麻の衣を着て。白金の炎を宿した双槍ではなく、使い古しの青銅の槍を振るって。彼はいつも優しくて、花のように明るいけれど……カインは知っている。彼が時々、昔を思い出しては苦しそうな表情を浮かべていることを。
そんな彼の姿を見て、カインはいつしか、耀婪を守りたいと思うようになっていた。英雄的な闘志はもう見当たらなくても、花のように笑う彼が好きだ。どんなに傷ついても、魂だけは汚れない、そんな彼が好きだった。たった一人の身内として、カインを養い、ときには導き、無償の愛と安らぎをくれる、そんな彼が。
だから、カインの答えはもう決まっていた。何を守るか、なんて聞かれるまでもなく、「重さ」なんて問われるまでもなく、自分は耀婪を守るのだ。今は、耀婪の代わりに街へ行き、生活に必要な物資を調達してくるのが精一杯だが、もしもこの先戦わなければならない時が来るとしたら、自分は耀婪と、耀婪の居る景色のために槍を振るう。
こればかりは、疑いようもないことだ。カインは槍を倉庫に戻し、自室へと向かった。
* *
その夜、カインはまた夢を見た。
燃え盛る炎、それを背に立つ、謎の男。視界は眩んで、顔は見えない。ただ、男の手の甲に刻まれた紋章は、やけにはっきりと見えた。見開かれた目から無数の手が伸びている図だ。4年前の記憶と同じ。
ただ、記憶と違っていたのは———燃えているのが遠い記憶の街ではなく、湖畔に佇むこの家で、槍を手に男と対峙しているのが若かりし耀婪ではなく、未熟で情けない、現在の自分自身だということだった。




