序章:白炎の記憶−1
炎は、街全体を包んでいた。狂乱めいた悲鳴が飛び交う。血と肉の焼けこげた異臭が鼻を突く。火は、悪意を持った怪物のように揺らめき、街を飲み込んではその大きさを増していく。熱と衝撃に揺れる映像は、まるで焼き切れたフィルムを映しているようだ。
不安定になる視界の隅に、何かを捉える。人だ。炎を背に、誰かが佇んでいる。熱にぼやける視界のせいで、顔は分からない。右手に———紋章がある。ぎょろりと見開いた目から、無数の手が伸びているような画だ。そいつが紋章を高々と掲げた瞬間、炎はまるで意志を持ったかのようにうねり、形を変えた。
炎が、紅蓮の龍へと姿を変え、こちらへ向かって飛んでくる。あまりの迫力に足が竦み、逃げようと踵を返すこともできない。炎の龍が、大きく口を開けた。
その時だった。紅蓮の龍を引き裂いて、白い閃光が迸る。いや、これは炎だ。街を焼く業火よりもさらに鮮やかな白金の炎を携えて、その男はやってきた。金糸の装飾を施した白い装束。淡く輝きを放つ一対の白い双槍を手に、彼は立つ。二槍はその男の闘志を湛えるように、大きく燃え盛る白金の炎を纏っていた。
男が振り返る。その顔を、はっきりと見た。次の瞬間、世界が大きく傾いていく。自分を見つめる緑の目が、大きく見開かれ———
「……カイン?」
呼び声に、カインははっと覚醒する。目を開けるとすぐ近くに緑碧の瞳があり、カインはまだ夢の続きにいるような錯覚をおぼえた。
「……あれ、耀婪……」
寝惚けたままで話しかけると、耀婪は呆れた様子で腕を組んだ。
「僕がちょっと留守にしてたら、居眠りかい?感心しないなあ」
なんでこいつ、こんなに機嫌が悪いんだろう……カインはそんな事を思いながらぼんやりと耀婪を見つめ、事態を思い返して———今度こそ飛び起きた。
「やばい!!」
はっと辺りを見回すと、やはり部屋の惨状がその目に飛び込んできた。ぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てられた紙、盛大に雪崩を起こした本の山。手元に広げた紙には、文字のつもりだったのか、解読不能な虫の這ったあとのような線が残っている上に、一部が涎で滲んでいた。
どうやら、座学中に本格的に眠り込んでしまったらしい。窓の外を見やると、すでに陽が西に傾いていた。
「あーあ……今日は槍の稽古はナシだな、こりゃあ」
耀婪が肩を竦める。カインはそれを聞いて、大いに焦った。
「待って!待ってください!」
勢いよく動いたことで、机の一角がさらなる雪崩を起こす。本が何冊か、ゴトゴトと音をたてて床に落ちた。
「す、すぐに終わらせますからぁ!」
体を椅子から浮かせ、落とした本を拾いながら、カインは訴えた。どこまで読んだか分からなくなってしまったページを必死に捲る。すると耀婪は、冷ややかな目でそれを見つつも、「せいぜい頑張れば」とだけ言って部屋を出てしまった。
カインは、悔しいやら情けないやらで散々な気分になりながら、ページに齧り付いた。とにかく、この問題を片付けなければ。居眠りのせいで槍の稽古がおじゃんになるのは御免だし、何より、師の機嫌を損ねたことで、生きた心地がしなかった。背中にうっすら、冷や汗すら滲んでくる。
「急げ、俺……」
夕暮れ時の狭い部屋に、硬質なペンの音が忙しなく響き始めた。
* *
結局、その日の座学が無事終わる頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。必死の取り返しにも関わらず暗くなってしまった窓の外を見て、カインは落胆の溜め息を漏らす。とはいえ、少しの期待を抱きながら、訓練場へと出てみることにした。熱気の籠った室内と比べ、外は涼しかった。季節の移り変わりを感じさせる夜風が、カインの頬を撫でた。
「おや、やっと終わったのかな」
思わぬ方向から声がかかり、カインは驚く。だが、それは次の瞬間には、溢れんばかりの喜びに変わった。耀婪が、家のすぐそばにある湖の畔の岩に腰掛けて、カインを待っていたのだ。
耀婪の手には、稽古用の槍が握られている。カインの表情が明るくなった。
「待っててくれたのか」
「まあね。ほら、自分の槍を取っておいで」
「おう!」
耀婪に促され、カインは自分用の槍を取りに、倉庫へと急いだ。槍は、倉庫のすぐ入り口に立てかけてある。思わず胸が躍った。カインが実習用の槍を用いて稽古をするのは、今日で三回目。それまでは、安全性に配慮した、矛先のない長い棒きれを使って稽古をしていたのだが、上達を認めて、ついこの間、耀婪が本物の槍をカインに拵えてくれたのだ。
まだ真新しい槍を引っ掴むと、カインはすぐさま、練習場である湖畔へと踵を返した。
「わっ!?」
そのとき、カインは突然躓き、前につんのめった。転びかけたのをなんとか持ちこたえ、ひとまず息をつく。
「なんだ……?」
悪態をつきながら足元を見ると、何かを引きずった跡のように地面が抉れていた。実際に躓くまでは暗がりで気がつかなかったようだ。
その跡を目で辿ると、古い錠のついた扉があった。倉庫のすぐ横にある石造りの小部屋だ。カインはこの部屋が開いているところを見たことがなく、何の部屋なのかも知らなかった。ここの家主である耀婪も特に何も言わなかったし、気に留めることもなく、最近では意識することさえ無くなっていた扉。その扉が、久しぶりに微妙な存在感をもって、カインの前に現れた。
———ひょっとして、何かが、ここへ持ち込まれた……?
そう考えると、ついつい好奇心が湧いてしまった。錆び付いた取っ手に、手を伸ばしてみる。
「…………」
期待に反して、扉は鍵がかかり、しっかりと閉ざされていた。カインは少しがっかりしたが、扉の鍵は耀婪が管理しているし、これ以上気に掛けても仕方がないと思い、再び練習場へ急いだ。