#05 「元気ですか」
日々は呆気なく過ぎて行った。
父親の退院やリハビリの開始、来春以降の私の生活の予定――就職も決まった。
地元ではそこそこ名が知れた酒蔵の娘だということは、それだけで一種のネームバリューになる。地方では学歴うんぬんより、古くからの付き合いの方が力を持っていたりするから。私がもらった内定も、横のつながりが関係ないとは思わない。地元で生きるということは、そういうことだ。
中高とともに私は知らなくとも相手はこちらを知っているような、そんな環境が少しだけいとわしかった。都会への憧れというよりは、ただ地元を出てみたいという一心で、向こうの大学へ進学した。
けれどこうなってみて、周囲との距離が近いここにだっていいところはあるとちゃんとわかる。倒れた父を見舞う人や、案じる声はそれこそ驚くほどに多かった。
何にしろ就職が決まったことを志織に伝えたら盛大に怒られた。早くに言おうと思いつつ、結局すべて終わってからしか言えなかったのは、私が志織と離れることが純粋に寂しかったからだ。会おうと思えばいくらでも会えるというのに、感傷的になっているのに驚いた。
自分のアパートに戻る日に、彼からまたメールが届いた。
たった一言「元気ですか」の文字に、もう涙は浮かばない。壮太の膝に縋って泣いた後、私は自分の感情を御することに神経を注いだ。じたばたしても仕方がない。弱気だなんだと言われようが、これ以上自分が傷つくかもしれない可能性を孕んだ行動なんて、何一つ取れる気がしないのだから。
返事は送れなかった。どんな言葉も思い浮かばない。ただ「大丈夫」と送ることも。彼との繋がりにみっともなくしがみつきたくなる自分が、嫌だと思った。
出来ればさっさと忘れてほしいとさえ思う。私が忘れることは難しそうだから、早く彼が気にしないでくれればいい。
あの日に交わした会話や表情のせいで、彼が悩み続けていたことくらい知っていた。生真面目すぎるほど、真摯に向き合おうとしてくれたことも。
どんな形でも、その心の片隅に私がいることを喜ぶ自分がいた。
でも、それではあんまりだ。
就職も決まった四年生である私はもうほとんど授業に出る必要はないし、卒業までは実家との間を頻繁に行き来することになる。彼の前に姿を現す機会がこれまで以上に少なくなる。卒業した後には三百キロ以上も離れた土地だ。
そんな女のことを、いつまでも悩んでいる必要はない。気にせず楽になってくれればいい。
――ううん、本当はそんなのは嫌だ。
けして物わかりのよくなりきれない自分が嫌だと思った。
着々と近づく彼のいる町も、もう嫌だった。
……嫌なことだらけだ。
それなのにアパートまでの道筋はもう目をつむっても歩けそうだし、私はまたあの学校に行かなければならない。あと数度は彼にも会うだろう。
耐えられるのかな。
ふとそう思う。私は彼の前で泣かずにいられるだろうか。気丈な先輩の顔のままで別れられるのか。
疲労からタクシーを使ったものの、アパートの最寄駅で降りることを選んだ。そこからは料金的にも大差ない距離なのに、キャリーバッグをがらがらと引いて歩こうなんて思ったのは何でなんだろう。
低いヒールの靴がやけに重たく感じた。素直にタクシーに乗ったままにすれば良かった。
見慣れたアパートが見えたときは少しほっと出来た。実家を前にしたときの安堵とは別物だけれども、入学当時からずっと住んでいた場所だ。やはり自分の場所だという気がする。
少しの錆が目立つ鉄階段を、ゆっくりと登った。本当は早く部屋に入りたいのに、足が上手く上がらなかったから。
上りきったそこで息をつこうとしたとき、二部屋しかないその扉の前に、長身の人影がいることを見て取って――息が詰まった。
木瀬くん。
そう口に出したはずの名前は、何の音にもならずに頭の中だけを駆け巡った。
何で? 何で木瀬くんがここにいるの?
驚いたような、安堵したような、責めるような――いろんなものが混じり合った木瀬くんの顔だったけれど、私がそれを見て思うのはただ懐かしいということと、逃げ出したいような衝動だった。
「理香先輩……」
呼ばれて震えてしまった。
何故この声が、こんなにも私の胸を打つのか。考えたくもない感情がどんどん湧き上がって来て、もう叫び出してしまいたい。何を? 愛の告白じゃないことは確かだ。彼を罵倒する何かかもしれない。もう私を苦しめるなだとか、そんな身勝手な言葉だ。
気持ちを投げつけたのは私だというのに。ああでも答えを聞く勇気などなかった自分が、やはりいけないんだ。
心持ち何かを決心したような彼が、目元を少しだけ伏せて言う。
「すいません。メールの返信もないし、気になって」
住所は牧田先輩に聞きました。
そう続けた木瀬くんの言葉に、私は志織の顔を思い浮かべた。余計な気をまわしてなんて怒れるはずもない。けれど、なぜ言ってしまったの。なぜ彼を寄越したの。
でもはっきりしていることは、やはり彼を思い悩ませていたということだ。
私のせいで。半年前のあの一言のせいで。
「ごめん」
何に対して謝罪しているのか、もう自分ではわからなかった。
彼の視線に気づいてしまったこと。彼を好きになってしまったこと。不用意にそれを伝えてしまったこと。はっきりとした答えを求めなかったこと、あるいは暗に求めてしまったこと。
挙げればキリがない。そして私は知っているんだ。本当の本当の私は――何一つ謝りたくなんかないってこと。ずるいのだということ。
「話がしたい」
ふいにかけられた木瀬くんのその一言に、怯えるように体を揺らしてしまった。さすがに気づかれたかもしれない。
でも今までにないほど強張った声音の木瀬くんをうかがい見ると、表情からは彼が何を話そうとここまでやってきたのかはわからなかった。
――いい話であるはずがないわ。
責められるかもしれない。半年もの間、彼の心の一端で勝手をしておいて、私の方からこの状態を引き起こしておいて、逃げるような真似をしたことを責められるのかも。そして引導を渡される。こんな女と付き合えるはずない、なんて。木瀬くんがそんな物言いをしないと知っていて、想像する。
「理香先輩と話がしたい。疲れてますよね。でも少しでいいんです」
返事のない私に焦れたのか、もう一度強く木瀬くんが重ねた。
仕方がないこととはいえ、怖かった。彼の口から出る何らかの言葉が。
そして腹立たしいような気持ちも湧いてきた。こんなときに私をどん底に落とそうとする彼に。
「わかった……」
「どこで、」
「うちでいい? お茶以外は何もないんだけど」
彼の言葉を掻き消すように言い募って、私はその大きな体と入れ替えるようにしてドアに鍵を差して回した。すべての動作が億劫に感じた。
聞きなれた音となじみの感触とともに錠が開いて、どうぞと彼を促す。
躊躇うような揺れた視線に私が何か間違ったことばかりをしているような気になって、少し乱暴に彼を中へと押しやった。
もう早く終わらせてしまいたかった。
彼にこれから言われるであろうことも、私が彼に言うであろうことも。
何より、この熱くて苦しいばかりの想いに幕を下ろしたい。心を燃やして力にすることが恋ならば、もう私にその余力は残っていないのだと思った。
逃れたい。
その一心が、私の涙腺を決壊しないよう保ってくれていた。