#04 臆病な選択
父親が倒れたと、珍しく取り乱して電話をしてきた母の言葉に、驚かないわけじゃなかった。
けれど不思議なほどに冷静な自分がいて、その日の授業をすべて受け終わり、志織にしばらく学校を休むことを伝え、少量の荷物を持って次の日に実家へ向かった。
焦って何かミスを犯すとかそういうこともなく、実家への道中で思うことと言えば、入院費っていったいどれくらいなのかなとか、そんな妙に現実的な部分だった。
実際、目を覚ましたときの父親の第一声は「酒飲みたい」なんてお気楽な一言で、前日まで意識を飛ばしていた人間じゃないみたいだった。原因は脳出血とのことだったけれど、場所も量も軽度に分類されるみたいで、止血の薬を投与しつつ絶対安静を言い渡されたようだった。
ベッドに横たわっているもののその口のまわり方は絶好調で、電話越しでは半泣きだった母親が小言を言い始める程度には、父親は元気だった。
出戻りの姉なんかはテキパキと病院関係の手続きをすべて終わらせていて、弟や妹も普通に学校に行ったと聞いてほっとした。
けれど起き上がることが許されて、その半身に顕著な麻痺が見えてからは、父親も少し落ち込んだようだった。担当医の先生からは根気よくリハビリが必要になること、完全な回復は難しいことなどを説明され、少しは家族内がざわついた。何せ仕事大好き人間だった父親だ、以前のようにはいかないという事実に、これで無気力になられたらどうしようと家業の行方よりもそちらの方が気になった。
まあ結果的に、父親は物事のいい側面を見つけることにしたようだ。いささか不自由になるとしてもすべてがダメになるわけじゃない。いっそ後進育成に力を入れるいい機会だと、前向きにそう言った。それが家族を心配にさせないための言葉なのだとしても、やはりそれはほっとするもので。
『じゃ、大丈夫そうなんだ?』
「平気よ。職人さんたちの方も慌ててないし」
落ち着いた頃に志織に電話したら、はーっと息をつかれた。
『だって理香の家ってみんな仲良いしさ。やっぱりお父さんが倒れるなんてショックでしょ』
「まあ……ね。予想してなかったから、たしかに衝撃はあったよ」
『うん。ね、本当に大丈夫――じゃなくて、何て言うかなあ』
「何よ」
『だって“大丈夫か”って訊いたら、理香はそう答えるしかないじゃない。言葉選びのセンスの無さに自分で呆れますよ』
「嘘なんかつかないって」
『弱音くらい吐いてくれた方が、周りは安心するよ。家族の人もそうだって』
言い含めるみたいな志織の言葉。私を思いやってのことだとわかっていても、縋るような何かは出てこなかった。出してはいけないと思った。
『ねえ、木瀬くんには――?』
最後の最後に志織が告げた名前だけが、ぼとりと胸の中に落ちてきた。
普通に考えて、伝える必要なんかないのに。私は彼のただの先輩で、それ以上のどんな存在でもない。
それでも心が揺れてしまうのが煩わしいほどに、私は彼を思い続けているのだろう。
本格的に家族での話し合いが持たれたのは、私が実家に帰ってから五日後。入院中の父親に母親は付いていて、祖母は近所に出かけていて、家にはきょうだいだけで残っているところだった。
家長代理の姉が、今後のことについて事務的に告げた。
父が居ない間、収入面は少し減る。けれど弟や妹の進学費用に適度な積み立てはあって、不足分は補う手があるから安心しろと。
生まれつき下半身が麻痺している弟――壮太などは、自分が大学に行く価値があるのかなんて真剣に悩んでいたらしい。生活のほとんどを車椅子を利用し、周囲と同じように動けない代わりに人一倍の努力で勉強してきた弟を私たちは知っている。ハンデがあるからこそ学歴や資格を求めるのだとそういった壮太は、このままの成績ならば日本で五本指に入る地元の国立大に合格できるだろうと学校でも太鼓判をもらったらしい。
いつかこの家を支えてくれるんでしょうとそう言えば、恥ずかしげに笑った。
部活に青春を捧げている妹も同じに気を使おうとして、部をやめて家事を手伝うなんて言ったけれど、そこで私は地元での就職を考えていることを弟妹に告げた。実家に戻って家事をしつつ、こっちで働くつもりだと。
別に完全な義務でそう言い出したんじゃない。私は家族が好きで、そのために何かしたいと自然に思っただけだ。
地元就職に姉は渋い顔をしたけれど、実際に甥や姪の存在だってある。姉はそう負担を抱え込めないし、一番自由がきくのが私というだけのことだった。
私が任せてほしいのと、そう言った。
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『理香先輩、体調を崩していませんか』
そんな一文が届いたのは、実家に戻って二週間後のことだった。
父は退院した。けれど家の中はまだばたついている。
就職活動を地元でする準備をしつつ、私は家事の段取りを覚えることに一生懸命だった。
家族それぞれの行動時間やパターンを考え、不自由のないように手配することは想像以上に骨が折れる。
ようやく一日が終わりそうだと縁側に出ていたとき、メールの受信を告げる文字に震えが走ったのは仕方がないことだ。
――努めて考えないようにしていた。そんな相手だったから。
体調を気遣われてようやく、自分が案外疲れていることを自覚した。なんだかずっとアドレナリンが出ている状態に近く、毎日の睡眠は浅いし、食欲もあまりなかった。
どちらかというと他の家族を眠らせること、食べさせることに神経を注いできたのだ。
相手は私の事情を知ってこの文章を寄越したわけじゃない。たぶん就職活動で忙しいと思っているはずだ。長く顔を合わせていないから、ふと思い出したんだろう。
嬉しいようなくすぐったいような気持ちの後に――ぎゅっと心臓を掴まれたような何かが襲ってきた。
それを上手く表す言葉も浮かばないままに、私は光を落とした画面を抱え込むように身を小さくした。
会いたい。会いたい。会いたい。でも――そのうち会えない。
ギィと軋む音が聞こえて感覚を向けると、廊下の奥から壮太が姿を現したようだった。そこから進んでこないということは、私が泣いているとでも思ったのかもしれない。それでも顔を上げられない。なぜだろう。泣いてなんかいないのに。
きしきしと車輪のまわる音が近づいてきて、縁側に腰掛ける私の横で止まった。
「ん、あげる」
その声に横目を向けるとマグカップを差し出される。自分のために淹れたであろうホットミルクだったけれど、その気持ちが嬉しくて大人しく受け取った。
車椅子の壮太は必然的に、床に腰を下ろす私よりも高い目線に顔がある。覗き込まれる心配もないままに、私は何も言わずにホットミルクに口を付けた。甘いようなまろやかさが広がる。
「理香姉」
まだ遅い時間でもないのに、家の中は寝静まったように静かだった。そこに、いつからかしっかりと低い声に代わった壮太の呼びかけが落ちる。
「……いまは俺、理香姉に頼るしかないけど。いつか必ず、理香姉の助けになるよ。だからさ、ありがと」
そんなことを言う壮太に、私は顔を上げないで片腕を伸ばした。近い位置にあった弟の膝にもたれかかると、体温の高い手が肩に添えられる。
――何でだろう。私は不思議でならなかった。
この弟も、メールをくれたあの人も、たぶん世の中の他の人も。
男の人は本能的に女を守る行動を取るようになっているのだろう。その器用さや程度に違いはあっても、普遍的な共通性があるように思えてならない。
女が縋ってしまうような温かさを、なぜこんなにも容易く差し出せるのか――。
同時に、壮太にはこうしてよりかかれても、彼に対して私がこうすることは出来ないと、頭の中の冷たい部分が叫んでいた。
それが苦しくて苦しくて、とにかく痛くて、このとき私は父親が倒れてから初めて涙を流した。弟に縋ってそんなことをする私はひどく滑稽だったろうけれど、壮太は何も言わずに私の背中を撫で続けてくれた。
私が今回のことで、初め大きな焦りを感じずに済んだのは、この半年間という時間が関係しているように思う。
あの日から刻一刻と過ぎていく時間の中で、私は「お別れ」に向けての心の準備をしていたんだろう。
彼の気持ちを知っていた。まだまだ傷ついていたそこに、私の気持ちを投げつけてしまった。
その時点でボタンを掛け違えたような、そんな違和感のある関係。きっとそれは私の卒業まで滅多なことでは変わらずに、そのままバイバイをしてしまう。いつか思い出に代わるような、そんな学生時代の記憶の一つになるだろう。そんな覚悟をしていたから。
何事もないままに今までどおりの筋で就職が決まれば、先輩として縁が続くこともあったかもしれない。ううん、そのことを淡く期待していたと思う。しかしそうはいかなくなった。自分で決めた未来が、そんな都合のいい展開を許さない。
いつか視線が同じ温度で交わることを望んだ。けれど時間が経つほどに、私の臆病さが顔を出すのだ。
想い、想われることが怖い。
彼にはまだ一年あって、私にはもうない。
それだけの小さな差が、絶望的なまでの距離があるように思えて仕方がなかった。
だから――さよならをする方が、きっと楽だ。