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熱視線  作者: 青生翅
微熱編
6/13

#02 先輩の事情


 

 忙しいのだろうという認識のもと、それに対する後輩としての遠慮と、逆にそれでも向こうから連絡が欲しいという良くわからない意地によって、季節は五月に突入した。

 相変わらず学校で理香先輩を見かけることはなく、携帯電話は沈黙していた。本当にどんなくだらないことでも良かったのに、必要なときに限って何も思いつかないまま、俺は一度だけ「体調崩していませんか」とメールを送った。それに対しての返事が来なかったことに、落ち込む心の余裕さえなかった。


 そしてそれを変だったと感じた頃には、もうすでに多くのことが俺の手の届く範囲からほとんど離れようとしていた。




「……帰る?」


 間抜けな声が出たと思う。それでも脳内の混乱を収めて、冷静になるなんて無理そうだった。


 地味な黒のタイトスカートにブラウス姿の牧田先輩は、いかにも就職活動中という出で立ちだった。去年より一段暗い色に髪を染め直して、逆に化粧はしっかり施している。

 その牧田先輩が紙コップの紅茶をすすりながら、俺の反応も無理はないとばかりに嘆息する。


「理香はみんなには自分で伝えるとか言ってたから、木瀬くんにバラしたのは私の独断なんだよ。そこんとこよろしく」

「あ、はい。それで、理香先輩の実家って――」


 久しぶりに牧田先輩を見かけたと思ったら、強張った顔で腕をとられて自動販売機前の休憩スペースまで引っ張ってこられたのだ。幸いにもこの時間に授業はないからいいのだけど、その口から語られた一つのことが頭の中で駆け回っている。


 ――理香先輩が、実家に帰る。


 もう空気の冷たさも和らいできたというのに、牧田先輩はどこか寒がるように身をすくめている。おまけに顔には不機嫌という文字が張り付いているかのようだ。


「けっこう歴史ある造り酒屋なの。私も遊びに行ったことあるんだけど、古き良きっていう言葉がぴったり。理香のおばあさんと両親、出戻り中のお姉さんとその子供二人、高校生の弟と妹。さらに住み込みの若い職人さんが三人。なんか大家族って感じで楽しかったなぁ」


 地方出身だということは知っていた。上京して一人暮らしなのも、年末年始に必ず実家に帰っていたことも。けれどその家業や家族構成を知ることはなく、もう二年も関わりを持っているのに、とたんに自分が“赤の他人”だという事実を思い知らされた。


 けれど勝手に、理香先輩はこっちで就職するものだろうと思っていた。いやもっと雑に言えば、根拠もないのにすぐ会える距離にいつまでもいるのだと、そう思っていたんだ。

 もう理香先輩は四年で、あっという間に先に卒業していってしまうというのに、この曖昧で落ち着かない――けれど嫌悪からは程遠い時間がずっとあるように感じていた。


 牧田先輩の話が続く。


「その地方それなりに名の知れた蔵らしくて、この御時世ではよくやってる方だって理香も言ってた。……で、そんな一家の大黒柱であるお父さんが倒れたんだって。軽い脳卒中で命に別状はなかったんだけど、右半身に麻痺も見られるし、リハビリ期間も合わせてけっこうな時間を蔵から離れなくちゃいけないらしいの」


 事実を並べるだけみたいな話しぶりは、きっと牧田先輩が意識してのことだと思う。簡単に言えばそれだけのことでも、ある日突然に家族の誰かが倒れるなんて、理香先輩がショックを受けなかったはずはない。


 知らなかった。俺は何も知らなかった。


「年長の職人さんが蔵自体は守ってくれるらしいし、家業そのものにすぐ影響は出ない。けど崎本家そのものには大打撃。後継者のこととかね」

「順当にいけば弟さんなんじゃ……」


 世界どこだってそうだけど、男系家族であることが一般的だろうと思う。そうなれば高校生だと言う弟にお鉢が回るものなんじゃないのだろうか。


「んー、それは駄目みたい。弟くんは生まれつき足が悪くて、車椅子で生活してるの。もともと後継者の候補からは外されてた。そうなると後は理香も含めて女の子ばかりでしょ? お父さんは早いうちから職人さんの誰かに譲ることを考えたみたい……いわゆる婿入りって形で」

「ちょっ……それって!」

「――あいにく崎本家の姉妹は女傑揃いで、おまけにおばあさんやお母さんまで大反対。時代錯誤も甚だしいって言って、お姉さんなんか早々に結婚して家を出てったり。まぁ数年前に出戻っちゃったらしいけど。とにかくお父さんがやり込められて婿入りの話は消えたの。理香は自分のことより、なんか責任感じちゃってる弟の方が心配だって言ってたけどね」


 ああ……らしいなぁと思う。牧田先輩の口から語られる理香先輩の、少しだけ見え隠れする優しさが彼女らしい。姉や弟妹がいるその生まれ順がそうさせるんだろうか。


 でもその話の流れで、なぜ「帰る」ということになるのか。

 俺の疑問を見透かしたように、牧田先輩が目を細めた。


「リハビリ中のお父さんにお母さんは付きっ切りになるし、お姉さんは自分の子供がいま一番手がかかるときなんだって。そんで受験生の弟と思春期真っただ中の妹がいるわけ。おばあさんはまだまだ元気だけど、とてもじゃないけれどこの全員の生活を見ることは難しい。おまけに杜氏の家として若い職人さんの衣食住まで世話しなきゃならない。必然的に理香に白羽の矢が立ったわけ。単位は取り終えて来年の卒業は決定済み。ならば家に入れとは言わないから、せめて地元で就職して家事をこなしてくれーってさ。理香も了承して、あっちで内定もらったらしいの」


 私にすら一言も言わないでさ!と牧田先輩は自身の不機嫌さの原因を明らかにした。


「何が出来るわけでもないけど、一言くらい相談してくれたり愚痴ってくれたりしても良かったのに! それをあの子ってば一人で淡々と決めて実行しちゃって。やることがかっこ良すぎ。可愛くないー!!」


 きーっと良くわからない奇声をあげながら、牧田先輩は酔っ払いみたいに紅茶を勢いよくあおった。


 親友の牧田先輩でも知らなかったこと。だったら仕方がない。牧田先輩を差し置いて俺に事前に知らされるはずがない――わかってる。わかってるけど、すごくイライラした。

 だってこんなことってあるか? これまで半年以上、俺は理香先輩のことで悩んできたんだ。……そう、はっきり言うけど悩んだ。こんなに困った感情を持ったのは初めてだ。


 牧田先輩に片思いしていたときは、いつ苦しさが終わるのか、綺麗に終わらせられることが出来るのかというのが悩みだった。でも理香先輩の場合は違う。向こうは俺の情けなさを知ってしまっていて、俺は取り繕うことすら許されない。なあなあな気持ちで応えることも出来なければ、じゃあ好きだと思ったとして、どう信用してもらえるかだって問題になる。

 失恋から次の恋愛に移行していい期間ってだいたいどのくらいなんだ? 離婚した男女が再婚してもいいのは六カ月後だっけ。いや、そんな形ばかりのものは関係ないんだ。ようは移り気だなんて印象を持たれることほど不名誉なことはないよな。特に好きな相手にさ。



 ――好き? 理香先輩を好き? 

 その証拠をどう提示するかを考えているのか、俺は。

 気持ちを証明したいと思っているのか。




 なんてことだろうか。馬鹿だろうか、俺と言うやつは。




「木瀬くん? どうした、顔が怖いぞ」

「いや……なんか自分の馬鹿さ加減に気づきました」

「あっそう。そりゃガーンと来るよねぇ。私もあるよ、そういうとき」


 くしゃりと紙コップを丸めてゴミ箱に放った牧田先輩はお世辞にも行儀がいいわけじゃなかったけれど、その奔放さがよく似合っていた。こんなところが、あのときの俺は――


「牧田先輩」

「何かね」

「俺、先輩のこと好きでした」

「いらん、解決済み案件の報告なんて! 不採用の通知以上にいらねー! 

「ひでぇな」


 ぶんぶんと首を振る牧田先輩に、俺は自然な笑顔を向けることが出来る。もう、それができるんだ。半年というのは短くて、意外に長い。


「ま、でもありがと。言われて嬉しくないわけじゃないよ」

「はい。俺こそありがとうございます。話してくれて」


 フライングさせてしまったことは申し訳ないけれど、周りのみんなと同じタイミングで理香先輩に話されていたら、おそらくまた動けずに終わっただろうと思う。

 自慢じゃないが、俺は何かに踏み込んでいくのが苦手だ。冒険者にはなれない。石橋は叩いたうえに誰かが渡ったのを確認してから足を踏み出すタイプ。

 そんな情けない自分が嫌で仕方がなかった。それを理香先輩が知っているというのもかなり恥ずかしい。けれど方向違いの自尊心なんていらないんだ。いまさらカッコいい男になれるわけじゃない。




 牧田先輩が最後に、理香先輩についてもう一つ教えてくれた。その情報はいいのだろうかと思ったけれど、ありがたく脳内に刻み込む。


「木瀬くんを信用してるよ」

「はい……」


 牧田先輩の表情が、あのときの理香先輩に重なった。お互いを思う親友同士の間には、きっとどんな男も立ち入れないんだろうなぁと感じる。この二人は相思相愛、ある意味では伴侶みたいなものだ。

 牧田先輩が理香先輩の同性で助かる。もしも俺と同じ男だったら絶対に敵わない。かつての想い人に抱く感情じゃないんだけど、心底ほっとした。


「先輩、就活がんばってください」

「任せなさい。まだまだ行きますよー」


 そして彼氏に癒してもらうのだ、と叫んでいる。

 俺はこんな風に牧田先輩と話せる日が来るなんて想像していなかった。今日この日があるのは、間違いなく理香先輩のおかげ。


 これから理香先輩は、卒業まで必要な分しか大学に来ないだろうと牧田先輩は言う。新幹線で二時間かかる実家で週の大半を過ごすことになる。

 卒業まで会えないわけじゃない。でもそれはただの後輩なら満足できることではあるけれど、俺には不満なんだ。足りないと思う。


 ――俺は理香先輩が卒業してからだって、ずっと会いたい。






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