#01 あれから半年
ここからは木瀬視点も入ります。
あ、目が合った――と思ったとき、俺はさすがに、慌てて顔をそむけることだけはしないようになった。そんな小学生男子みたいな真似を結構な間続けたのは、自分でも情けない話だと思う。
二年生の秋に失恋と同時に俺を襲った衝撃から、もう半年経つ。
あの日以来、理香先輩と目が合う回数が格段に増えた。そして無性に恥ずかしく感じるようになってしまったから大変だった。
俺の前で泣くことまでした理香先輩自身はけろりとしたもので、俺だけが対応の仕方を見失っていた。それまでどうしていたのだっけ。あの綺麗な先輩の声をどう聞いて、自分はどんな話しかけ方をしていたのか。
最初はどうにも理香先輩を避けまくり、周囲が変に思うほど過剰に意識した。
そこから約一ヶ月後の飲み会で、一次会で珍しく酔った様子だった理香先輩を牧田先輩に笑顔で預けられて(送りオオカミ禁止令は見えないプレッシャーと一緒にちゃんと出ていた)最寄駅まで送るとき、
『いたたまれないはずの私より緊張されたら、楽しく片思いも出来ないじゃない。ひどい』
そう呟かれた。
いまにも寝てしまいそうな中で言っていたことだから、理香先輩が覚えているかはわからない。まぁ、意外と物忘れが激しいことは知ってしまったから、どっちでもいいんだけれど。
ともかく、そう言われて俺はようやく平穏とはいかないまでも気持ちがお着いて、表面的な態度は以前のものを取り戻した気がする。
正直、牧田先輩は俺の気持ちに気づいていたんじゃないかと思っている。 そういう態度を出されたことは一度もないし、周囲の人間も牧田先輩は鈍いとよく言っている。けれど本当は面倒見が良くて、人と人との和を作るのが得意。それはいわば、人を良く見てるということで。そんなところを好きになったからこそ、俺の気持ちは伝わっていたように思う。
それでも俺に迷惑だと表現しないで、好き勝手に片思いをさせていてくれたことは感謝している。
けど何もかもが平気というわけじゃなく、牧田先輩に彼氏が出来たと聞いたときにはなぜ俺じゃダメなのかと思ったりもして、あんな情けない姿を理香先輩にさらす結果になったわけだけれど。
でもゼミ担当の先生に失恋して、それを知っているゼミの後輩である俺と付き合うなんて有り得ない。もし上手く事が運んだって、俺だって気にせずにはいられなかっただろう。
世の中には、始まったときから成就することがないとわかる恋もあるんだと思う。俺が好きになった頃にはすでに、牧田先輩は先生を見つめていて、その先生には婚約者がいた。
いや、正確には成就させようと思わない、ということなのか。
好きだと言う気持ちを高めていく片思いもあれば、俺のように好きだと思った瞬間から必死に宥めていくこともある。それを闘わずしてと笑う奴だっているんだろうけれど、想いが千差万別であるように、向き合い方もきっとそうなんだ。好きだという言葉で、相手を傷つけることだってある。
理香先輩の場合も、たぶん同じだったように思う。俺が言うことじゃないけれど、あの医務室の一件がなければ、俺はいまだに先輩の気持ちを知らずに過ごしていた。
それでも理香先輩は、俺に告白してくれた。牧田先輩に想いを伝えることすらしなかった俺が、勇気を出した理香先輩を傷つけていいはずがない。
どんな気持ちであの日側に居てくれたのか、俺にはわからないから。俺だったら絶対に出来なかったから。
何でもないふりをしながらも、俺の一挙手一投足を見つめている理香先輩の気持ちを、適当に扱うことだけはしないと決めた。
それでも、理香先輩の目は怖い。……いや、他の表現方法が見つからないからそう言うのだけど、あの視線に誰か他に気づいている人はいないんだろうか。
ただ見つめられることが、こんなにまで緊張を強いる行為だなんて思ってもみなかった。俺の気持ちを探ろうとする、気分を察しようとする目線の強さは、理香先輩が俺への気持ちを口にしていなかったなら、何かよくないことでもしでかしたかと慌てるところだ。
牧田先輩は砂糖菓子のように甘い外見に、なんだかちょっと所帯じみたものを滲ませている異色の人だった。そのギャップに惹かれたと言ってもいい。でも違う意味で理香先輩も外見と中身に差異がある人だと思う。
実のところ、初めて会ったときに目が寄せられたのは牧田先輩じゃなく、理香先輩の方だ。滅多に見ないような、雰囲気のある人だと思った。凛とした切れ長の瞳に、青白いくらいの細面。けして派手な顔立ちではない。可愛らしさという点だけで言えば牧田先輩の方が一般的には人気のある顔だった。
それでも、周囲の女子より一段浮かび上がるような、そんな品の良さを滲ませた理香先輩は、何をしても様になっていた。
男受けなんてものを気にせずに、怖いくらいに高いヒールを颯爽と打ち鳴らして構内を歩く姿は惚れ惚れするほどだった。染めていない綺麗な黒髪がさらさら風に吹かれて、どんな意味であろうと男女構わず視線を集めずにはいなかった。同じゼミに入る前から、一年生だった俺でもその名前を知っているほどには有名人だったのだ。
かっこいい女子の先輩に、俺は牧田先輩に向けるものとは違う憧れを持っていた。それがほんの少し変わったのは、やはり「理香先輩」と呼び始めたあの席だったと思う。
無事にゼミの合格を勝ち取って、初めての顔合わせの飲み会に出たのは二年生に進級してすぐの頃だ。
乾杯をしてしばらく経ってからゼミ長の先輩から順に紹介されていく中で、ほんの小声で言った理香先輩のすねたような声が可愛いと思ってしまったのだ。名前なんてどう呼ばれようと気にもしていなさそうなのに、小さな距離を感じているんだなと。
帰りがけに何気なく名前で呼んでもいいかと聞いたのは、その些細な意外性が気になったからだ。驚いたように、でもあっさりと「いいよ」なんて返事をもらってからは、自分の部屋で呼びかける練習をしたくらいだ。
先輩たちの中で、誰より一番話す機会が多いのが理香先輩になった。同級生たちが敬遠する雰囲気を出している理香先輩との、つなぎ役のような位置になってしまったからだ。
俺だって緊張しないわけじゃなかったのだが、名前で呼んでいる手前、気にしているようにも見せられない。かなり気を張って理香先輩に話しかけていたのだけれど、そのうちに気づいてしまった。
――理香先輩は、俺たちの暗黙の了解に気が付いているってこと。
先輩の方も、連絡事項があるときには必ず俺というワンクッションを置く。俺は相槌を打つくらいしか返さないのだけれど、ちゃんと理解しているかを小まめに確認して、苦労しているようなときには書面を作ってくれる。きちんと二年生全員分だ。
なんとなく、周囲への関心が薄そうだなんて感じていたことを恥ずかしく思った。考えてみればそう思ったきっかけなんて、その外見の雰囲気となかなか崩れない表情を見てくらいのことだったのに。
普通、気を回してくれる人はやはりどこかで「やってあげたから」という態度を滲ませる。それを嫌味なく出来てしまうのが牧田先輩なら、なかなか親切を気づかせないのが理香先輩だった。
そんな「俺は知っている」という小さな優越感を味わわせる人であった理香先輩は、あの医務室の日からはまた違う意味で特別に成らざるを得なかった。
無視しようにもできるはずのない女の人のことを、必然的に俺も見てしまう。だから頻繁に目が合う。
そしていま俺が必死なように、理香先輩はこれまでどのくらいの期間こんな眼差しを寄越していたんだろうかと考えると、ひどく落ち着かない気分になって仕方がない。
告白される、気持ちを寄せられている。そんなことを、こうまで気にしたことなんてなかった。明確に付き合ってと口にされてないからだろうか。いや、でもそれだけがすべてじゃない。きっと根本的な部分が違うのだと思う。
意識せずにいられなくなってから半年。俺は三年に進級し、一方四年になった理香先輩は就職活動であまり顔を見なくなった。
それを寂しく思うのは間違いないのに、俺が先輩をどういう意味で気にかけているかという問題は、まだ先延ばしにしていたいのだった。
好きは、好きだ。
でもそれはどんな「好き」なんだろう。今までだって理香先輩には好意があった。憧れで、慕わしくて、見惚れるような。容易には触れてはいけない、そんな人。
他の女子の先輩たちはむしろその異性独特の感覚の違うテンションの高さが苦手だったし、悪さを仕込む機会を虎視眈々とうかがっているちょっと困ったヤローの先輩たちと比べるのも違う。
――ただの先輩だったことなんか、一度もない。
牧田先輩に片想いしていたときだって、理香先輩を気にしないではいられなかった。それは好きな人の親友であるからという理由だけではなくて、ただ「理香先輩」という人が俺の中ではけして無視できない存在感を持っていたから。
……だから、結局、なんなんだろう。
それがどういう意味を持っているのか。そもそも意味なんてあるのか、とか。考え出すと頭の中にいくつもの渦が巻く。その渦には理香先輩を構成するあらゆるものと、交わした言葉や過ごした場面なんかがごちゃ混ぜになっている。
そのときの自分が何を感じていたのかを引き出そうとするのに、見つかるそれ自体に名前をつけようとして、俺は二の足を踏んでしまう。
告白なんて考えもしなかった牧田先輩へは、俺は常に停滞している形だった。ゆるやかに終わりを待つだけ。けして動かないということはもどかしい反面、想いが返されないという以外は、苦しさも感じない。
明かさない片恋はきっと未完成な幸福で、ならば明かしてくれた理香先輩はと思うと、早く返さなければと焦るくせに、簡単に答えを出してはいけないのではと、立ち止まらされる。
はじめて、心臓がむずがゆくて、仕方がない。