#03 私だけが知っていた
常の静けさを思わせる姿からは想像もできないほどに激しい熱情を秘めた木瀬くんの瞳は、いっそ危険なほどに深くて真っ直ぐで。
ゼミの最中。打ち合わせの図書室で。飲み会の遠い席から。バイクに跨って帰ろうとする、そのヘルメット越しのときも。
木瀬くんの視線は、人知れず志織に注がれていた。
「牧田先輩に、言いましたか……?」
「言わないよ。私は、君じゃないから」
私はゆるく首を振った。
その気配を感じ取ったんだろう。木瀬くんは腕の覆いを外して、体調だけに苦しんでいるのではない歪めた目を私に向ける。
狂おしいほどの熱が宿る目だ。志織への想いの残滓が、まだ熱い。
「木瀬くんも知ってたね。……志織が誰を好きだったか」
「はい……」
彼が小さく震える。
私は酷い。一人だけ知ったかぶりで、すべての種明かしをしようとしている。でもやめられないのだ。彼を、志織を、傷つけたいわけじゃないのに。
「ずっと見てました。俺が牧田先輩を見てるとき――牧田先輩は、永井先生を」
「うん」
志織が私にさえ言わず、けれどどうせ知っているねと苦しげに笑っていた胸の中の秘密が、解かれた。
一心に志織が見つめていた先生には婚約中だった可愛い彼女がいて。
熱心に木瀬くんが見つめていた志織は、そんな叶わない片恋に苦しんでいた。
行き場のない想いは、ただただ熱を孕んだ視線となって私の目の前を飛び交っていた。
なんで、みんな気づかなかったんだろう。
あれほどまでに、それほどまでに、眼差しは鋭さすら帯びていた。
「牧田先輩に、」
木瀬くんが、それまでとは違った声を出した。どこか呆然として掴みどころのない響き。自分でも把握出来ていない内面を、懸命にまとめようとしているように見える。
それが切ない。
感情の整理は、終わりのしるし。
木瀬くんは向き合おうとしている。
「俺、変なんです。牧田先輩に彼氏が出来たって聞いたとき、一番最初に――本当に最初に思ったのは、よかったって。もう先輩は苦しくないんだって思ったら、嬉しかった。時間が経てば経つほどそれが薄れて寝れなくなったけど、本当に最初はそう思ったんです。変……ですよね」
「そんなこと、ない」
私は無性に、もう自分では抑えられない何かを吐き出したくて――泣いた。
目頭に集まった熱さがぼろりと溢れてこぼれ、私の冷たい頬を伝って落ちる。掌でぬぐってもぬぐっても止まらない。
「理香先輩!」
木瀬くんが、慌てて体を起こす姿を視界に認めて、私は首を振った。
「いい。大丈夫。寝て」
物切れの単語を吐き出す私の吐息はすっかり激しいもので、木瀬くんはそれを信じられないような顔で見ている。
「何で……?」
「同情とか、可哀そうとかじゃないよ。それは違う。……ただ、私も、同じだった。やっと次に進める志織を見て、よかったって思ったけど、時間が経ったら違うことを考えた」
私はどこかで志織が妬ましかった。結局は他に好いてくれる男がいる志織と自分を比べてしまった。先生じゃなくとも誰かは志織を想っていて、探せば今の彼氏だけではないのだと思う。志織さえ望まなければ孤独は遠くて、選ぼうと思えば苦しくない恋がそこにある。
……そんなものは志織じゃないから思うんだって、わかっている。私の心の中を誰にも決めつけてほしくないのと同じで、志織が何を大切にして価値を見出しているのか、何に傷つくのか、本当に意味では理解していない。確かに言えるのは、それは私とは絶対に違うということ。同じ人間なんていないこと。
志織だって、私の持っているものを羨ましく思うときくらいあるだろうと、知っている。
でも志織があまりに、一度は私がなってみたい女の子であったから、忘れた頃に私は彼女を恨めしく思ってしまう。
なのに。最後には必ず、また戻るのだ。
「それでも志織が笑うと嬉しいの。恋を終わらせる準備をして、綺麗な笑顔で先生にお祝いを言った志織が誇らしいの。怖がらずに、今の彼の想いを受け止めた志織が素敵だと思えるの。私、志織と友達で良かったって思う」
まったく憎たらしいほどに美しい女だと思う。ああなりたくて、でもなれそうもなくて、だからこそ惹かれるのであって。でもその手に入れられない美しさが、私にとっても自慢になってしまう。そんな彼女の友人でいることを、とても嬉しいと感じる。
志織へ向ける感情は何もかもが綺麗なわけじゃない。誰より信頼している友人は、ときに誰よりも遠ざけたい人間になる。
でもそんな身勝手さを互いに許せるから、きっとこれから先、誰を忘れることになっても互いだけは例外な気がすると、笑いあう関係になった。
「はい……わかります、俺、それはわかる」
木瀬くんは繰り返し、わかります、と応えた。
彼にとっても志織は、想うに値した女性であり続けるのかなと、ふと思った。
そんな私など知らないように、小さな女の子を宥める口調で木瀬くんは言葉を紡ぐ。
「理香先輩と同じくらい、牧田先輩は理香先輩が好きだよ」
「……知ってる」
だって親友だから。
私の涙がようやく止まった頃、木瀬くんはすっかり寝る体勢を放棄していた。
タクシーももうすぐ来るからいいのだけど、どうも彼の具合に配慮しない時間になってしまった。
そんなことを申し訳なく思う私に、木瀬くんはどこかすっきりとした表情で、不器用な笑顔を浮かべる。
「俺、理香先輩が泣いてくれたから、それでいい」
私が泣いた理由はとても自分勝手なものだと知っているだろうに、何がいいというんだろう。
「木瀬くんも泣いたらいいのよ。夢も見ないで眠れるから」
「さすがに人前じゃあ、無理」
「私に喧嘩を売ってるわけね」
まさかと首を振る木瀬くんに、頭痛が酷くなるからやめなさいと注意する。思い出したように顔をしかめた彼がおかしくて、私はようやく少し笑えた。
彼は眩しげに私を見て――何か気になったように少し遠い目をして、もう一度私を見た。
「何で理香先輩はわかったんですか? 俺ってそんなにわかりやすいかな」
たしかに誰も、木瀬くんの想いを知らないようだった。
マイペースで、他人に興味があるように見えないんだろうけれど。
そう思われている自覚があるからか、木瀬くんは見透かされたことに疑問と、少しの悔しさを感じているようだった。
それが少しだけおかしくて笑んでしまう。
「――そうね。木瀬くんと同じよ。特別な理由じゃない」
私は立ち上がった。タクシーが来る時間だ。不思議そうな顔のままの木瀬くんに、そろそろだと促す。
立ち上がり際にふらつく木瀬くんに肩をかしてやり、その体温を間近に感じる。
「俺と同じ?」
「そう。志織を見守っていた君を――見ていたのよ。ずっと」
「え……」
静かな想いで先生を見つめる志織。それを愛おしげに苦しげに見守っていた木瀬くん。
その少し離れた場所から、私は木瀬くんを見ていた。どうしたって目で追ってしまうことを不思議に思い、苛立ち、いつしかその感情の名前に気付いて、持て余すほど。
あのころ熱視線は、いくつも飛び交っていた。