#02 行き場を失くしたその熱が
「彼氏、欲しいなぁ」
いつかのある日、志織と二人でお酒を飲んだときに聞いた言葉の熱に、私は素直に頷いていた。
「作んなよ」
「うん」
「志織は、可愛いし」
「うん?」
「明るいし、面白いし」
「……うん」
「すぐに出来るよ」
「ふふ……」
「世の中の半分は男なんだから」
「うん。青い目の人がいいな」
「いきなりそう行くのね……」
「嘘。好きならどんなでもいいの」
「好きなら、か」
「理香もね」
「ん?」
「好きな人が出来たら、言ってね」
薄暗い個室タイプの居酒屋がなぜかその時はとてもとても静かに感じて、お互いの見えない涙を見つめ合うような、切なくてでも照れくさい何かが漂った。
真剣な恋愛相談だけはちっともしない二人だった。
お互いにどうでもいいことはいつまででも話せるけれど、頼り方は同じくらい下手で、そして自尊心も強くて。
――いくら仲が良くても全部は見せられない。ばればれでも秘密を持っていたい。一人である瞬間を持ちたい。
女の子同士では秘密はご法度なのが普通で、洗いざらい話すのが友人の証なのだと中学と高校ではそれが定説だったから、なら私には一生親友なんて出来ないのだと思っていた。
打ち解けた仲の友人が欲しいという思いよりずっと、私は自分の中の譲れない部分を重んじた。
それが志織に出会って、すごく安心出来た。ああこれが本当に友達というものなんだと、恥ずかしくもそう思うほど。
恋愛の詳細を語らなくても、いくつかの秘密を持っていても、ときにはたいした理由もなく誘いを断っても、志織は私に失望せず、志織がそうであっても私は気にしない。
でも苦しさに溺れそうなときは、何も言わずに側にいてくれる。時を見計らった、ちょうどいい温度の距離で。耐えきれずに助けてとそういえば、何を置いてもきっと力になってくれると、疑いようもなく信じれる。私もきっとそうするからと、口に出さずとも伝わっている。
親友とか、そういうものなのかもしれない。
何もかもが好ましいわけじゃないけれど。ときには憎らしくも思うけれど。全部丸めた志織が、それでも好きだと思うから。
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ゼミ仲間たちと一緒に先生の結婚式に出席して、花嫁のブーケトスを見事に受け止めた志織は、その一ヶ月後に彼氏が出来た。
近所の別な大学に通うその彼氏は、似合わない茶髪が何だか微笑ましくなるような、誠実で照れ屋な人だった。
バイト先のカフェで、レジ打ちの最中に告白されたとくすくす笑って報告する志織の顔に何のかげりも寂しさも見えなくて、これから先にもっともっと彼氏と通じ合えたらいい。
そのときは、そう思った。
ああ、いつの間にか私は誰よりも先に、その存在に気付くようになったみたいだ。
構内をのそりと歩く彼の姿を遠目に見つけて、私はそのまま距離が縮まるのを待った。
木瀬くんはいつもより少し疲れた顔をしているみたいに見えて、どうしたんだろうかとつい凝視してしまう。
――だから、完全に近づく前に目線が合ってしまって、私は瞬間的にどこかへ逃げ出したいような気分になった。
その衝動を抑え込んで、出来るだけ何でもないように木瀬くんに笑いかける。
「理香先輩……こんにちは」
「うん、こんにちは」
見上げる木瀬くんの表情はいつもに拍車をかけて感情が見えづらい。目は、黒々していて艶がある。いつもより水分過多なそこに既視感のあるものを見出して――私はあまり意識もせずに手を伸ばしていた。
「木瀬くん、少し屈んでくれる?」
「え?」
襟元のあたりを軽く握ってぐいっと引き寄せると、大柄な体が案外あっさりと私の方に寄った。むしろ細身の長身はぐらりと体勢を揺らめかせ、大きな掌が私の左肩を咄嗟に掴む。
「あ……すいません、」
「ねえ、具合悪いんでしょう?」
詰問するような強い言葉尻に自分が嫌になったけれど、近い位置にある木瀬くんの目が、驚愕に見開かれて確信を持った。
「熱あるよね。朝から?」
「熱は……わからないですけど。風邪だと思います。朝は少しだるかった」
「今はどんな?」
「……もっとだるいです」
だるさからなのか語彙の少ない木瀬くんは、はぁっと溜息みたいに息を吐く。苛立っていると言うよりは、呆れている。たぶん自分自身に。
肩にかかる掌が熱い。木瀬くんの吐息も同じくらいに。
「この後の授業は?」
「今日はもう」
「そ、じゃあ行こう」
「……どこに?」
「医務室。帰りたくても、木瀬くんバイクでしょ。タクシー呼ぶから、それまで横になった方がいいよ」
「いやそんな」
「駄目。行くよ」
私は木瀬くんの襟元を握っていた手を離し、肩の上に置いてあった彼の手を掴んだ。正確には、腕を。
言葉は抵抗しても、木瀬くんの体は大人しく私の引っ張る方向に進む。
困ったような、恥じるような気配を斜め上の位置から感じながら、私は大学構内にある医務室に向かった。
扉には常駐医がしばらく席を外しているとの注意書きがあったけれど、鍵が開いているからそのまま中に入る。他には誰もいなくて、遠くの廊下から伝わってくるかすかなざわめきが流れてくるだけの、白い室内。
ずらりと並んだ簡易ベッドのうち、一番窓に近い場所に木瀬くんを寝かせる。毛布をかけて電話のために少し席を外して戻ってくると、最初に感じたときよりずっと病人らしい雰囲気をまとっていた。自覚すれば具合の悪さはどんどん酷くなってきたようで。眉間に皺を寄せているところを見ると、たぶん頭痛もするんだと思う。
やわらかな日差しが入り込んでいた窓のカーテンを引くと、それまでよりは室内が薄暗く沈んだ。
「いまタクシー呼んだから。道が混んでるみたい。しばらくかかるって。私、離れたところにいるよ。側にいると寝れないでしょ」
「……いや、居てください。寝たくない」
不可解なことを言うと思ったけれど、弱ったような彼が憐れにさえ見えて、私は壁際に立てかけてあった折り畳みの椅子を広げて、窓を背に腰かけることにした。
どこか縋るような目が、私を見る。
「寝た方が、いいのよ」
「――……先輩は、授業は……?」
私の言葉を退けつつ、彼は思い出したようにそう口にした。不安気なのは、私をサボらせたかもしれないと思っているからだろうか。
「平気よ」
「そう……です、か」
「うん」
ふと、木瀬くんと二人きりになるなど初めてのことだと気付いた。
決まって互いを認識できる時間は週に一度のゼミくらいで、選択している他の講義が同じだとしても百人単位でいるそこでいつでも見つけられるわけもない。どちらにしても大勢と一緒に共有している時間で、向かい合って二人だけなんて、覚えがなかった。
私も木瀬くんも自分から話題を作り出して周囲を巻き込む側じゃないから、誰かの傍らにいる私と、同じようにそうである木瀬くんは、集団の会話であってもそう直接話をするわけじゃないと思う。なのに私の中の木瀬くんは、不思議なほどの存在感を持っている。
原因は、わかる。視線だ。みんなが気付かない、でもたしかな視線。
横たわる木瀬くんはいつの間にか目元を腕で覆っていて、そこに込められるものが何かは知れない。
「俺、寝られなくて――」
聞いてほしいとも言わず、そんな雰囲気も出さず、けれど木瀬くんはそう口にした。
「最近、情緒不安定っていうか。イライラして、暴れたいような、どっか行きたいような、どこにも行きたくないような、とにかく駄目で、馬鹿みたいで、どうしようもない……寝るともっと酷い。見たくないものを見る。――いや、違うか。俺に都合のいいものを見る。……妄想です、ぜんぶ。それが嫌で。寝たくない、寝れない」
「そう」
「……っ。先輩――理香先輩は、知って、ましたよね。俺が……っ」
ぎりっと、硬いもの同士が擦れる鈍い音がした。見れば木瀬くんが力いっぱいに歯を噛み締めている。たまらないと心が暴れ出そうとするのを精一杯に抑えるように。
痛い。それを見ている私の奥歯も、つきんと走るように痛んだ。
「知ってた――」
私は答える。
それが何の救いにならない、誰のためでもないとわかってて。
「――君が、志織を見ていたこと、知ってたよ」